夜の山道を、こよいは走った。 月明かりが木々の間を照らしている。足元は暗い。何度も木の根に躓きそうになる。 後ろを振り返る余裕はない。 光が追ってきている。観測者たちの光が。
「……はやく」
巾着が冷たい。神々の声が急いている。
「……とまらないで」
分かっている。止まったら、追いつかれる。 測られたら、固定される。 霧原町みたいに。消えた村みたいに。
どれくらい走ったのか、分からない。 息が切れる。足が重い。体が言うことを聞かなくなってきている。 腕の筋が軋む。指先の感覚まで鈍くなっている。 それでも、止まれない。
木々の間に、何かが見えた。 建物だ。いや、建物の残骸。 崩れた祠。柱が二本だけ残っている。屋根は落ち、石畳だけが月光に白く浮かんでいる。 そこに、火が見えた。 焚き火だ。小さな火が、祠の跡で燃えている。
誰かがいる。
こよいは、足を止めた。 逃げようか。でも、体が限界だ。火のそばで休まなければ、倒れてしまう。 観測者だろうか。でも、観測者は焚き火なんかしない。機械の光を持っている。
ゆっくりと、近づいた。 石段を上がる。五段。苔むした石が、月明かりに濡れて光っている。 焚き火のそばに、人影があった。 女だった。 こよいは、自分の立っている位置を確かめた。石段の下。すぐに逃げられる距離。
「……こんばんは」
女が声をかけてきた。落ち着いた、淡々とした声。 火に照らされた顔は、年齢が分からなかった。若くも見えるし、老いても見える。白磁のような肌。深い瞳。 藍色の着物。擦れた跡がある。長く旅をした人の服だ。 その腕には、分厚い帳面が抱えられていた。
「……だれ」
こよいの声は、掠れていた。息が荒い。 女は、にこりともしなかった。でも、険しくもない。ただ、穏やかに見ている。
「火に当たっていく? 疲れているでしょう」
こよいは、しばらく迷った。 巾着を握る。神々は、何も言わない。警戒しているわけでも、怯えているわけでもない。ただ、静かに様子を見ている。
「……座っていい?」
「どうぞ」
女は、少し場所を空けた。
焚き火のそばに座ると、体が溶けそうになった。温かい。疲れが、一気に押し寄せてくる。
「後ろから、来てるの」
女が言った。
「光が見えた。五つくらい」
「……知ってるの」
「見えたから」
女は、帳面を膝の上に置いた。
「私は、しおり」
それだけ。姓も、肩書きも言わない。
「記録する者」
記録する者。 こよいは、日記の切れ端を思い出した。あの日記を書いた人も、誰かに記録されていたのだろうか。
「……こよい」
名前を、口に出した。 しおりは、頷いた。
「そう。あなたは、運ぶ者」
「……なんで、わかるの」
しおりは、こよいの腰の巾着を見た。
「それ。神が入ってる」
「二柱、いるでしょう」
こよいは、巾着を握りしめた。隠しても無駄だと思った。
「……うん」
「集め手、って呼ばれてる」
しおりは、焚き火を見つめながら言った。
「消えかけの神を集めて、運ぶ人」
「境まで届けて、置く人」
「……置く?」
「神を、あるべき場所に戻す」
しおりの声は、淡々としていた。感情を挟まない。
「集めるだけじゃない。届けるまでが、仕事」
こよいは、黙って聞いていた。 集め手。運ぶ者。届ける仕事。 巾着を渡された時、老人は何も教えてくれなかった。「持っておけ」と言っただけだ。 それなのに、しおりは知っている。こよいが誰で、どこへ行こうとしているか。 不思議な気がした。同時に、どこか、安心した。
「……どこへ届けるの」
「境」
しおりは、南西の方角を指した。
「第一境界を越えて、境の里に着けば、教えてくれる人がいる」
「そこまで行けば、少しは安全」
焚き火が、パチリと爆ぜた。
「測る者が、来てる」
しおりの声が、少し低くなった。
「知ってる。後ろから光が」
「測られたら、固定される」
しおりは、帳面を撫でた。
「二度と動けなくなる。世界から切り取られる」
「標本みたいに、ピンで留められる」
「……霧原町みたいに?」
「そう」
しおりの答えは、短かった。
こよいは、火を見つめた。
「……しおりさんは、なにをしてるの」
「記録する」
しおりは、帳面を軽く持ち上げた。
「見て、書いて、伝える」
「消えていくものを、紙の上に残す」
「……書いたら、固定されないの」
「される」
しおりは、即答した。
「書けば、その瞬間が固定される。でも、測る者の固定とは違う」
「私は、記憶を残す。彼らは、存在を殺す」
その言葉が、胸に刺さった。
しばらく、二人は黙って火を見つめていた。 虫の声が聞こえる。風が木々を揺らしている。 遠くで、光が点滅している。近づいてきているのか、分からない。 こよいは、背中を丸めた。火の温もりが肌に滲みている。この温もりが最後になるかもしれない。そう思うと、立ち上がるのが怖くなった。
「私は、別の道を行く」
しおりが、立ち上がった。
「あなたは、境を目指しなさい」
「第一境界を越えれば、少しは安全」
「……どうして、教えてくれるの」
こよいは、聞いた。 しおりは、少しだけ笑った。笑顔というより、表情の影が動いた程度の、かすかな変化。
「記録する者だから」
「見て、書いて、伝える。それが仕事」
しおりは、闇の中に消えた。 足音は、最後まで聞こえなかった。
焚き火だけが、パチパチと燃えている。 こよいは、巾着を握りしめた。
「……きいてた?」
「……うん」
「……ほんとだって」
「……はかられてる」
神々の声が、小さく震えている。
測られ始めている。 光が、こよいを追っている。 輪郭を測ろうとしてる。 冷えが肌に走る。いつの間にか、火から離れた体温が、夜気に奪われている。
こよいは、立ち上がった。 休んでいる暇はない。 境を目指す。第一境界を越える。 その前に、追いつかれてはいけない。
焚き火を消して、山道に戻った。 南西。しおりが指した方角だ。木々の間を抜けて、その方向へ体を向ける。 月が、山の稜線にかかっている。 遠くで、光が点滅していた。
