第009話 記録する者
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第009話 記録する者

第1章 霧の序章

夜の山道を、こよいは走った。  月明かりが木々の間を照らしている。足元は暗い。何度も木の根に躓きそうになる。  後ろを振り返る余裕はない。  光が追ってきている。観測者たちの光が。

「……はやく」

巾着きんちゃくが冷たい。神々の声が急いている。

「……とまらないで」

分かっている。止まったら、追いつかれる。  測られたら、固定こていされる。  霧原町きりはらちょうみたいに。消えた村みたいに。

どれくらい走ったのか、分からない。  息が切れる。足が重い。体が言うことを聞かなくなってきている。  腕の筋が軋む。指先の感覚まで鈍くなっている。  それでも、止まれない。

木々の間に、何かが見えた。  建物だ。いや、建物の残骸。  崩れたほこら。柱が二本だけ残っている。屋根は落ち、石畳だけが月光に白く浮かんでいる。  そこに、火が見えた。  焚き火だ。小さな火が、ほこらの跡で燃えている。

誰かがいる。

こよいは、足を止めた。  逃げようか。でも、体が限界だ。火のそばで休まなければ、倒れてしまう。  観測者だろうか。でも、観測者は焚き火なんかしない。機械の光を持っている。

ゆっくりと、近づいた。  石段を上がる。五段。苔むした石が、月明かりに濡れて光っている。  焚き火のそばに、人影があった。  女だった。  こよいは、自分の立っている位置を確かめた。石段の下。すぐに逃げられる距離。

「……こんばんは」

女が声をかけてきた。落ち着いた、淡々たんたんとした声。  火に照らされた顔は、年齢が分からなかった。若くも見えるし、老いても見える。白磁はくじのような肌。深い瞳。  藍色の着物。擦れた跡がある。長く旅をした人の服だ。  その腕には、分厚い帳面が抱えられていた。

「……だれ」

こよいの声は、掠れていた。息が荒い。  女は、にこりともしなかった。でも、険しくもない。ただ、穏やかに見ている。

「火に当たっていく? 疲れているでしょう」

こよいは、しばらく迷った。  巾着きんちゃくを握る。神々は、何も言わない。警戒しているわけでも、怯えているわけでもない。ただ、静かに様子を見ている。

「……座っていい?」

「どうぞ」

女は、少し場所を空けた。

焚き火のそばに座ると、体が溶けそうになった。温かい。疲れが、一気に押し寄せてくる。

「後ろから、来てるの」

女が言った。

「光が見えた。五つくらい」

「……知ってるの」

「見えたから」

女は、帳面を膝の上に置いた。

「私は、しおり」

それだけ。姓も、肩書きも言わない。

「記録する者」

記録する者。  こよいは、日記の切れ端を思い出した。あの日記を書いた人も、誰かに記録されていたのだろうか。

「……こよい」

名前を、口に出した。  しおりは、頷いた。

「そう。あなたは、運ぶ者」

「……なんで、わかるの」

しおりは、こよいの腰の巾着きんちゃくを見た。

「それ。神が入ってる」

二柱ふたはしら、いるでしょう」

こよいは、巾着きんちゃくを握りしめた。隠しても無駄だと思った。

「……うん」

「集め手、って呼ばれてる」

しおりは、焚き火を見つめながら言った。

「消えかけの神を集めて、運ぶ人」

さかいまで届けて、置く人」

「……置く?」

「神を、あるべき場所に戻す」

しおりの声は、淡々たんたんとしていた。感情を挟まない。

「集めるだけじゃない。届けるまでが、仕事」

こよいは、黙って聞いていた。  集め手。運ぶ者。届ける仕事。  巾着きんちゃくを渡された時、老人は何も教えてくれなかった。「持っておけ」と言っただけだ。  それなのに、しおりは知っている。こよいが誰で、どこへ行こうとしているか。  不思議な気がした。同時に、どこか、安心した。

「……どこへ届けるの」

さかい

しおりは、南西の方角を指した。

「第一境界を越えて、さかいの里に着けば、教えてくれる人がいる」

「そこまで行けば、少しは安全」

焚き火が、パチリと爆ぜた。

「測る者が、来てる」

しおりの声が、少し低くなった。

「知ってる。後ろから光が」

「測られたら、固定こていされる」

しおりは、帳面を撫でた。

「二度と動けなくなる。世界から切り取られる」

標本ひょうほんみたいに、ピンで留められる」

「……霧原町きりはらちょうみたいに?」

「そう」

しおりの答えは、短かった。

こよいは、火を見つめた。

「……しおりさんは、なにをしてるの」

「記録する」

しおりは、帳面を軽く持ち上げた。

「見て、書いて、伝える」

「消えていくものを、紙の上に残す」

「……書いたら、固定こていされないの」

「される」

しおりは、即答した。

「書けば、その瞬間が固定こていされる。でも、測る者の固定こていとは違う」

「私は、記憶を残す。彼らは、存在を殺す」

その言葉が、胸に刺さった。

しばらく、二人は黙って火を見つめていた。  虫の声が聞こえる。風が木々を揺らしている。  遠くで、光が点滅している。近づいてきているのか、分からない。  こよいは、背中を丸めた。火の温もりが肌に滲みている。この温もりが最後になるかもしれない。そう思うと、立ち上がるのが怖くなった。

「私は、別の道を行く」

しおりが、立ち上がった。

「あなたは、さかいを目指しなさい」

「第一境界を越えれば、少しは安全」

「……どうして、教えてくれるの」

こよいは、聞いた。  しおりは、少しだけ笑った。笑顔というより、表情の影が動いた程度の、かすかな変化。

「記録する者だから」

「見て、書いて、伝える。それが仕事」

しおりは、闇の中に消えた。  足音は、最後まで聞こえなかった。

焚き火だけが、パチパチと燃えている。  こよいは、巾着きんちゃくを握りしめた。

「……きいてた?」

「……うん」

「……ほんとだって」

「……はかられてる」

神々の声が、小さく震えている。

測られ始めている。  光が、こよいを追っている。  輪郭りんかくを測ろうとしてる。  冷えが肌に走る。いつの間にか、火から離れた体温が、夜気に奪われている。

こよいは、立ち上がった。  休んでいる暇はない。  さかいを目指す。第一境界を越える。  その前に、追いつかれてはいけない。

焚き火を消して、山道に戻った。  南西。しおりが指した方角だ。木々の間を抜けて、その方向へ体を向ける。  月が、山の稜線りょうせんにかかっている。  遠くで、光が点滅していた。

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