焚き火を完全に消して山道に戻った。空気だけが、動かない。 しおりの気配は、もうない。ただ、焚き火の跡が炭のように黒く残っているだけ。 こよいは、立ち上がった。
「……いかないと」
巾着を握る。冷たい。神々が震えている。
「……うん」
「……いそいで」
月が、山の稜線にかかっている。半月。木々の影が、青白い光で長く伸びている。 足元は暗い。何度も木の根に躓きそうになる。 それでも、止まれない。
しおりの言葉が、頭の中で響いている。
「あなたも、もう測られ始めてる」
測られている。 輪郭を捉えられようとしている。 捉えられたら、固定される。 霧原町みたいに。消えた村みたいに。
道は、緩やかに上っている。 息が上がる。足が重い。体が限界に近いことは、分かっている。でも、休んでいられない。 後ろに、何かがいる。見えないけれど、いる。
月が雲に隠れると、闇が一段と深くなった。自分の足元すら見えない。手探りで木の幹に触れ、方向を確かめながら進む。指先が冷え切って、感覚が薄れている。
「……どこ」
巾着に問いかける。
「……さき」
「……やま、こえて」
「……さかい、めざせ」
境。第一境界。そこを越えれば、少しは安全だと、しおりが言っていた。
木々が、徐々に疎らになっていく。 風が強くなる。尾根に近づいている。 草の匂いが変わった。湿った腐葉土から、冷たい岩石の匂いへ。 こよいは、足を速めた。
尾根に出た瞬間、視界が開けた。 三方が開けている。南西に向かって、山並みが連なっている。 月明かりが、露出した岩盤を青白く照らしている。 遠くに、谷の気配がある。暗くて、底が見えない。
こよいは、息をついた。 振り返った。
光が、見えた。
背後の山の斜面。 白い光が、点滅している。 一つじゃない。 三つ。四つ。五つ。 規則正しく、点滅している。
こよいは、息を呑んだ。 あの光だ。 尾根で見た光。遠くで点滅していた、あの光。 近づいている。
「……あれ」
巾着が、急に重くなった。
「……はかる、もの」
祠の神の声が震えている。
「……にげて」
空き地の神の声が続く。
光は、遠くにある。 二キロ、いや、もっとあるかもしれない。でも、確実にこちらの方角を向いている。 山肌にへばりついた白い点のように見える。
こよいは、光を見つめた。 規則正しい点滅。二秒光って、一秒消える。 機械的だ。人間の持つ灯火の揺らぎがない。 一つ一つが、等しい間隔で瞬く。意志を持たない目。 観測者たちの光だ。 尾根に立ったまま見ていると、体の奥が冷えていく。足先から、じわじわと。
しばらく、動けなかった。 光を見ていると、体が固まる。 恐怖が、足の裏から這い上がってくる。
「……うごいて」
巾着の中から、祠の神の声。
「……みて、いる」
その言葉で、我に返った。
見ている。 あの光は、こよいを見ている。 見つけようとしている。
こよいは、尾根を離れた。 西へ。境界に向かって。 足が、勝手に動いている。
下り坂に入る。 木々の影が戻ってくる。枝葉が顔を掠める。 振り返る。 光は、まだ見える。木々の間から、点滅している。 遠いはずなのに、近く感じる。
十分、二十分。 歩き続けた。 息が荒い。足が震えている。 何度も振り返る。 地面の傾斜が緩んできた。下りに入っているはずだが、足取りは鈍る一方だった。
光が、増えていた。 五つだったのが、六つになっている。 いや、七つ。 そして、近づいている。
確実に、近づいている。
さっきより、光が大きく見える。 点滅のリズムが、より鮮明になっている。 遠くの蛍火だったものが、今は手持ちの明かりほどの明るさに見える。
「……はやく」
巾着が震えている。
「……おいつかれる」
神々の声が、悲鳴に近い。
もう、歩いている暇はない。こよいは、走り出した。 木の枝が顔を打つ。足首を捻りそうになる。 それでも、止まれない。 背中に冷たいものがまとわりついている気がした。見ない方がいい。見たら、足が止まる。
どれくらい走ったのか。 息が、もう続かない。 脇腹が痛い。喉が渇いている。 足が、言うことを聞かなくなってきている。
大きな岩が見えた。 二つの岩が、重なるように立っている。 その下に、空間がある。人が一人、隠れられる。 苔が生えている。湿っている。ここなら、光に気配を悟られにくい。
こよいは、岩の下に滑り込んだ。 息を殺す。体を丸める。 岩の冷たさが、背中に染みる。 閉ざされた空間のせいか、自分の心音がやけに大きく響く。
しばらく、何も考えられなかった。 荒い息だけが、岩陰に響いている。 心臓が、壊れそうなほど打っている。 汗が冷えて、背中が凍るように冷たい。歯が鳴りそうになるのを、唇を噛んで堪えた。 岩の上空を、何かが通ったような気がした。風の向きが変わった。
息が、少し落ち着いた。 そっと、岩の隙間から外を覗く。
光が、見えた。 近い。 さっきよりずっと近い。
一キロもないかもしれない。 七つの光が、列を成して移動している。 規則正しく、点滅しながら。 こちらに向かって。
こよいは、息を止めた。 巾着を、胸に押し付けた。 神々が震えている。冷たい。氷のように冷たい。
光は、止まらない。 ゆっくりと、でも確実に、近づいてくる。
こよいは、岩陰で体を丸めた。 目を閉じても、瞼の裏に光が点滅している。 白い光。規則正しい点滅。逃げ場がない。
振り返っても、暗い森。 前に進んでも、観測者の光。 逃げ切れるのか、分からない。でも、ここにいたら、確実に追いつかれる。
「……いかないと」
自分の声が、震えている。
「……うん」
「……いっしょに」
神々の声が、小さく応える。
こよいは、岩陰から這い出た。 立ち上がる。足が震えている。 西を向く。暗い木々の隙間の先に、まだ下りの続きが見える。 そして、走り出した。
背後で、光が点滅していた。 七つの光が、確実にこちらに向かって移動している。 点滅の明滅が、肩越しに瞼の裏に焼き付く。 振り返れば、まだ追われている。明滅の間隔は変わらない。 下りの勾配が、一段と急になっている。足はもう限界だ。それでも、闇の中へ足を踏み出すしかない。
