歩き続けた。 泣きながら。 涙が乾いても、足は止めなかった。
村が霧に沈んだ。 女将の顔が、頭から離れない。「旅の子かい」と言ってくれた声が、耳の奥で繰り返される。
あの人たちは、今もあの中にいる。食べかけの朝食の前に座ったまま。永遠に食べ終わることなく。
「……だいじょうぶ?」
巾着の中から、空き地の神の声。
「……ない」
正直に答えた。大丈夫じゃない。でも、止まれない。
昼前、尾根に出た。 道が細くなり、両脇が開けた。風が吹き抜ける。冷たい風が、涙の跡を乾かしていく。 振り返ると、北東の方角に、白い塊が見えた。 霧に沈んだ村だ。朝日の下で、動かない白い島のように浮かんでいる。 目を逸らした。見ていられなかった。
尾根道を歩く。 足元は岩混じりの土で、木の根が露出している。何度も躓きそうになる。 疲れていた。昨夜はちゃんと眠ったはずなのに、体が重い。心が重い。
「……やすんで」
祠の神の声。
「……もうすこし」
休んだら、動けなくなりそうだった。
昼過ぎ、大きな岩を見つけた。 岩がせり出していて、下に空間がある。雨を凌げそうだ。 足が止まった。もう、限界だった。 岩の下に潜り込む。地面は乾いていた。背中を岩に預ける。冷たい。でも、座れる。それだけで、ありがたかった。
目を閉じようとしたとき、視界の端に何かが見えた。 草の間。岩陰の奥。 何かが、落ちている。
近づいた。 鞄だった。 古い革の鞄。黒ずんでいて、紐が切れている。穴が開いている場所もある。何年もここにあったようだ。 中身が、半分散乱している。 竹の水筒。乾燥してひび割れている。 着物の切れ端。藍染めの、女性の着物の袖。 そして。 小さな巾着。空っぽの、赤い巾着。
こよいは、息を呑んだ。
「……これ」
「……いた」
祠の神の声。
「……まえに、だれか」
空き地の神の声が続く。
誰かが、ここにいた。 誰かが、こよいと同じように、巾着を持って、旅をしていた。 そして、ここで。
鞄の中を、そっと探った。 指先に、紙の感触があった。 取り出す。 黄ばんだ和紙。破れた一枚。日記の切れ端だった。
墨で書かれた、細くて丁寧な字だ。
「……境まで、あと三日……」
最初の一行を読んで、心臓が跳ねた。 境。この人も、境を目指していた。
「……測られてはいけない……」
「……光を見たら、隠れろ……」
「……彼らは、固定しようとしている……」
「……逃げろ。どこまでも……」
「……ぼくの巾着には、まだ三柱……」
三柱。 この人も、神々を集めていた。 こよいと同じように。
こよいは、無意識に自分の巾着を押さえていた。二柱。まだ二柱しかいない。この人は三柱まで集めたというのに。指先から伝わる微かな温度だけが、自分と神を繋いでいる。
紙を裏返した。 裏にも、文字がある。
「……名前は、最後まで与えるな……」
「……名前を持てば、記録される……」
「……記録されれば、測定される……」
「……測定されれば……」
そこで、紙が破れていた。 続きは、読めない。
こよいは、紙を握りしめた。 手が震えていた。 この人は、どうなったのだろう。 境にたどり着いたのだろうか。 それとも。
巾着が、わずかに重くなった。
「……しらない」
「……でも、いた」
「……たしかに、いた」
神々の声は、静かだった。悲しみと、敬意が混じっている。
こよいは、日記の切れ端を、自分の鞄に入れた。 捨てていくことはできなかった。 この人が残した言葉を、持っていきたかった。 和紙は薄くて脆く、折り目のところが今にも千切れそうだった。丁寧に鞄の底に忍ばせる。この言葉が、いつか自分を助けてくれるかもしれない。
しばらく、岩陰で休んだ。 干し餅を一つ食べた。水を飲んだ。 体は、少し楽になった。心は、まだ重い。でも、前よりはましだった。 一人じゃない。 前にも、誰かがいた。同じ道を歩いた人がいた。
鞄の紐を、もう一度固く結び直した。干し餅の残りを確かめる。三つ。一日一つなら、あと二日は持つ。水筒を揺すって中の量を確かめる。半分を切っている。足の裏の痛みを奥に押し込んで立ち上がった。
午後、再び歩き始めた。 日記の言葉が、頭の中で繰り返される。
「測られてはいけない」
「光を見たら、隠れろ」
霧原町が沈んだとき、観測者たちがいた。 消えた村が沈んだとき、何も見なかった。でも、きっと、どこかにいたのだ。
夕暮れ前、見晴らしの良い岩場に出た。 尾根の突端。三方が開けていて、遠くまで見渡せる。 西の空が、赤く染まり始めている。 夕日を見ながら、こよいは息をついた。
そのとき、視界の端で、何かが光った。
東の方角。山の斜面。 白い光が、点滅している。 一つじゃない。三つ。いや、四つ。五つ。 ゆっくりと動いている。規則正しく点滅しながら。
「……あれ」
巾着が、急に冷たくなった。
「……はかる、もの」
祠の神の声が震えている。
「……にげないと」
空き地の神の声が続く。
日記の言葉が、頭の中で響いた。
「光を見たら、隠れろ」
あの光は、観測者たちだ。 機械を持って、山を登っている。 こよいを、探している。
光は、ゆっくりと動いている。 こちらに向かっているのか、別の方向なのか、分からない。でも、遠くない。二キロもないかもしれない。 明日には、追いつかれるかもしれない。
尾根の上では、自分の輪郭が空に浮いてしまう。暗くなるまでに、もう一段低い場所へ降りなければ。谷の影に身を潜めれば、あの光は見つけられないかもしれない。
こよいは、岩場を離れた。 急がなければ。 境に着く前に、測られてしまう。 測られたら、固定される。 固定されたら。
日記の続きを、こよいは知らない。でも、想像はできた。 女将の顔が、頭に浮かぶ。食べかけの朝食。湯気の立つ味噌汁。 あれと、同じことになる。
走り出した。 まだ明るいうちに、少しでも先へ。 後ろで、光が点滅していた。
