霧の奥から、低い唸りが続いていた。 雨音に紛れない。 腹の底を擦る息の音で、聞くだけで喉が乾く。 唸りは一つじゃなく、重なっている気がした。
大きいものが一度息を吐き、その吐息が森の湿りにぶつかって、遅れて返ってくる。 返りが来るたび、胸の灯が小さく跳ね、跳ねた熱がすぐ冷えに押し戻される。 こよいは足を止め、巾着を胸へ押さえた。 濡れた布の冷えが皮膚に貼りつき、結び目の段差が指に当たって痛い。
その痛みで、いま自分がここにいることだけは分かった。 指先は痺れ、掌の中で巾着が重い。 重いのに、放せない。 匂いが来る。
湿った毛皮。 泥と獣臭が混じり、鼻の奥へ重く残る。 雨の匂いのはずなのに、鉄の苦さが舌に張りつき、喉の奥がざらつく。 霧の粒が肌にまとわりつき、頬が冷たいのに、息だけが生ぬるく戻ってくる。
吐いた息が笠の内側で一度溜まり、ぬるい膜になって頬へ触れ、その膜がすぐ冷える。 冷えると、呼吸が浅くなる。 浅くなると、唸りがもっと近くなる気がした。 次の瞬間、枝が割れた。
影が出る。 黒い塊が、雨を滝みたいに落としながら歩いてくる。 角はない。 けれど肩が高く、背が厚い。
鹿にも猪にも見えるのに、目だけが赤い。 赤い目が霧の中で揺れず、こちらを捉える。 眼に見つめられるというより、座標を測られている感じがした。 足が踏み込まれるたび、泥が沈み、地面が一拍遅れて震えた。
震えが靴底から脛へ上がり、骨の奥で止まる。 止まった震えが腹へ回り、胃が少しだけ浮く。 獣の背に張りついた泥が鎧みたいに盛り上がり、そこを雨が流れて細い筋を作る。 その筋が、血の跡に見えて、こよいは目を逸らしかけた。
あさひが前へ出る。 声は低く、短い。 踏み込む足の置き方が変わり、泥に沈まない場所だけを選ぶ。 剣はまだ抜かない。
抜かないのに、柄に置いた指の関節が白い。
「俺が引きつける。こよい、影から出るな」
こよいは「うん」とだけ返し、あさひの背へ身を寄せた。 背中の熱は雨に削られて薄い。 薄いのに、その薄さがありがたい。 熱があるというだけで、ここがまだ人の場所だと分かる。
こよいは息を一度吐き、吐いた息が白くなって消えるのを見ないようにした。 見たら、消えるほうへ引っ張られそうだった。 久遠は一歩下がり、硝子の目を細めた。 盤は出さない。
ここでは見えるものが多すぎる。 雨粒の反射の中で、硝子が一度だけ青く瞬く。 瞬いた光が霧の粒に砕け、こよいの視界の端で小さな輪になって揺れた。 輪はすぐ消える。
消えるのに、消えた場所だけが気になる。 久遠の呼吸が短くなり、肩が一拍だけ上下する。 痛みを押し殺す呼吸だ。
「……繋がってる」
久遠の声が少しだけ掠れた。 こよいは喉の奥で息を整え、巾着の硬さを押さえる。 結び目の段差が爪に当たり、痛みで指の位置が戻る。 風は息を潜め、月は冷え、硝子は震えたまま黙る。
黙るのは怖い。 けれど黙れるのは、まだ息があるからだ。 獣が鼻を鳴らした。 吐いた息が白く広がり、霧が一段濃くなる。
その息の奥に、怒りが混じっている。 獣の怒りじゃない。 外から押し込まれた怒りだ。 それに、怖さもある。
自分の身体が自分のものじゃない怖さ。 歯を剥くたびに、喉の奥で何かが引きつっているのが見える気がして、こよいは胸が痛んだ。 痛いのに、目が離せない。
「雨の神の意志が流れ込んでる。……深い。切れば楽だが、切るほど荒れる」
久遠が言う。 あさひは剣を抜いたまま黙り、こよいの返事を待っている気配だけを出した。 剣先が雨を切り、落ちた雫が泥へ吸われるまでの間が長い。 長いのに、音が薄い。
薄い音が続くほど、ここが境い目の中だと分かる。 こよいは獣の赤い目を見た。 見られている。 けれど、見返せる距離にいる。
逃げたい。 逃げたら、雨の神のところへ届かない。 こよいは唇を濡らし、鉄の味を飲み込んでから、声を出した。 声を出す前に、息を吸う。
吸うと胸が冷える。 冷えた胸のまま、吐く息に言葉を乗せる。
「……怖いよね。本当は、こんなことしたくない」
声は雨に削られる。 削られるのに、届くところまで届けばいい。 こよいは両手を胸の前で握り、近づかない。 触れない。
触れれば、獣は驚いて暴れる。 だから距離で寄り添う。 手のひらには巾着の布の湿りが残っていて、その湿りが少しずつ冷えていく。 冷える前に、もう一つ言う。
「ぼくたちは敵じゃない。君を苦しめるものを、ほどきに来た」
巾着の中で月が微かに光った。 光は薄い輪郭だけを作り、獣の影を縁取る。 硝子の神が雨粒の光を拾って返し、赤い目の光だけを弱める。 風が一息だけ動き、霧の筋が少し割れた。
獣が足を止めた。 止めた瞬間、泥の上の水が揺れ、次に静かになる。 赤い目が一度だけ瞬き、瞬きの間に、赤じゃない何かが見えた気がした。 疲れた目。
眠れない目。 唇の端が震え、獣の喉がごくりと鳴った。 鳴った音が、雨より近い。 近いからこそ、ここに「心」が残っているのが分かる。
あさひが剣先を少し下げる。 下げても構えは崩さない。 久遠が息を吐き、こよいはそれに合わせて吐く。 呼吸の拍が揃うと、胸の灯が少しだけ落ち着いた。
「……お願い。あの子のところへ行かせて」
こよいが言うと、獣は低く唸り、首を振った。 否定じゃない。 迷いの揺れだ。 次の瞬間、獣の鼻先がゆっくり森の奥を向いた。
地面の匂いを深く吸い、雨と泥の中から「道」を嗅ぎ分ける。 鼻先が止まった方角は、雷の低い気配が集まっている場所だった。 獣はそのまま横へ退いた。 進路を開けるみたいに。
退くとき、泥が深く沈み、沈んだ音が遅れて返った。 獣が遠ざかるだけで、霧の流れが少しだけ戻る。 去り際、こよいを一度だけ見た。 赤い目の奥の赤が薄くなり、そこに残ったのは疲れだった。
こよいはその疲れを胸に置き、息を吐いた。 倒すべき敵じゃない。 迷いの中で縛られている番人だ。 だから、ほどく。
あさひがこよいの肩へ掌を置く。 濡れた手の温度が短く残る。 温度が消える前に、こよいは頷いた。
「行けるな」
こよいは頷いた。 久遠も短く頷く。 三人は獣が示した方へ足を向けた。 雨はまだ落ちる。
霧もまだ濃い。 けれど、いまは「道」がある。 こよいは巾着を抱え直し、結び目の硬さで手を落ち着かせてから、泥を踏んで一歩進んだ。 獣が去ったあとの地面には、深い足跡が残っていた。
足跡の縁に雨水が溜まり、黒い小さな池になる。 池の表面が時々だけ震える。 風が戻ったというほどじゃない。 けれど、震えがあるというだけで、さっきまでの止まりかけた世界よりはましだった。
こよいは足跡を避けて歩く。 避けながらも、足跡の「向き」だけは見失わない。 向きが分かれば、迷いが少しだけ薄くなる。 あさひは息を整え、剣を鞘へ戻さないまま歩いた。
柄を握る手の節が白く、雨で滑るのを嫌って何度も握り直す。 久遠は硝子の目で霧の粒を追い、霧が不自然に溜まる場所を避ける。 溜まる場所には、理の綻びがある。 綻びは足を取る。
こよいは二人の動きに合わせ、呼吸を小さく保った。 吐く息の白が見えるときは、見えないふりをする。 見えたら、自分が消えるみたいだから。 巾着の中で、硝子の神がようやく息を吐いた。
小さく、震える息だ。 月の冷えが掌へ回り、風が背中を軽く撫でる。 撫でるだけの風は、まだ弱い。 弱いから、守れる。
こよいはその弱さを胸に置き、雨の神のいる方角へ、もう一歩だけ重心を預けた。 胸の灯が、静かに応えた。 消えない。
