第086話 理の墓場
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第086話 理の墓場

第3章 印の輪郭

石柱の境を越えた先の森は、音が薄かった。  薄いのに、刺さる。  雨は降っているのに、葉を叩く音が遠い。  かわりに自分たちの息と、泥を踏む音だけが近い。

こよいは思わず呼吸を浅くした。  浅くすると胸の奥が冷え、冷えたまま重く残る。  吐く息が白くほどけ、きりへ混じって消える。  消えるたびに、世界の中で自分が小さくなる気がした。

「……雨の神様、もう近いの?」

こよいの声は自分でも細いと思った。  声がきりに吸われ、返事が遅れるのが怖い。

「ああ。気配が重い」

あさひは短く言い、前を見た。  背中の動きが小さく、歩幅も小さい。  濡れた草鞋わらじが泥に吸われるたび、足を抜く音がする。  その音だけが、道が動いている証だった。

鳥の声がない。  虫も鳴かない。  羽ばたきの気配すらない。  雨の日でも、葉の陰で小さなささやきは残るはずなのに、森は黙っている。

黙っている、というより、声を出すのをやめている。  あさひが歯を噛んだ。

「……空が死んでる」

久遠くおんが首を振る。

「死んでない。……隠してる。声を出せば、居場所になる」

こよいは背中が冷えた。  声を出すことが危険になるほど、ここにはゆがみがある。  音を奪うゆがみ。  こよいは巾着きんちゃくを抱え、結び目の硬さを指で確かめた。

硬さがあるから、いま自分が持っているものが分かる。  風は息を潜め、月は冷え、硝子びいどろは小さく鳴く。  その三つが震えている。  震えが布越しに胸へ伝わり、鼓動の拍が一つだけ早くなる。

こよいはそれを戻すように、鼻から吸って口から吐いた。  吐く息がかさの内側でぬるく戻り、頬だけが冷たい。  濡れた袖口そでぐちが手首に貼りつき、少し動かすたび布が皮膚を引いた。  道端に、羽が落ちていた。

濡れて色がせ、泥に半分埋もれている。  こよいはしゃがみ、指先で拾った。  羽は軽い。  けれど冷たさだけが重い。

雨水が指の腹を伝い、爪の端がしびれる。  羽の軸がてのひらに当たり、硬さが小さく痛い。  こよいは羽の泥を払おうとして、やめた。  払う動きが、ここでは大きい。

代わりにてのひらで包み、短く息を吐いた。  祈りのつもりで、羽を元の場所へそっと戻す。  そのとき、どこかで一度だけ、声がした。  短い。

切れる。  鳴いたというより、引き裂けた音だ。  こよいは反射で耳を澄ませ、身体を硬くした。

「いまの……聞こえた?」

あさひがすぐに低く止める。

「動くな。音を立てるな」

久遠くおんきりの向こうを見た。

「ここはことわりの墓場だ。……生き物ほど、黙る」

言葉が冷たく落ちた。  こよいは唇を噛み、血の味がする前に離した。  怖さが胸にまる。  まるけれど、足を止めればおぼれる。

雨の匂いが急に薄くなる瞬間がある。  薄くなると、耳の奥が詰まる。  詰まるほど、次に来る音が怖くなる。  こよいは指先のしびれを誤魔化すように巾着きんちゃくを抱え直し、結び目の段差で手を固定こていした。

進むと、木の根元に空っぽの巣が見えた。  枝で編まれたうつわが雨を吸って垂れ下がり、縁には割れた卵の殻が泥色に染まって残っている。  その下の地面に、爪痕つめあとが深い。  獣のものだ。

幹にも傷があり、黒い剛毛ごうもうが雨に濡れて貼りついていた。  匂いが来る。  湿った毛皮の臭い。  土と雨の匂いに混じって、肺の奥へ重く残る。

雨が濡らす匂いじゃない。  獣が残した匂いだ。  こよいは鼻の奥がつんとし、舌の上に渋さが戻るのを感じた。  息を吸うと胸が詰まり、吐くと少しだけ軽くなる。

足元には、えぐられた泥の線が続いていて、雨に洗われても消えない。  あさひが剣のつかへ指を置いた。

「……獣がいる。主が狂ってる」

こよいは息を止めかけ、すぐ吐いた。  止めれば、胸の奥がさらに重くなる。  久遠くおんは何も言わず、足元の泥の盛り上がりを目で追う。  大きいものが通った線が、森の奥へ続いている。

線は雨で消えない。  消えないほど深い。  久遠くおん硝子ガラスの目が一度だけ青くまばたいた。  まばたいた光が雨粒に反射して、視界の端に小さな輪がいくつも浮かぶ。

輪はすぐ消える。  消えるのに、消えた場所だけが気になる。  こよいは目を細め、見ないようにする。  見すぎれば迷う。

雨音の奥に、別の音が混じった。  濡れた枝が折れる乾いた音。  重い息の音。  遠いのに近い。

近いのに方向がない。  こよいは巾着きんちゃくを抱え、呼吸を整えようとした。  結び目の段差が指に当たり、指が少しだけ痛む。  その痛みで、自分の手の位置が戻る。

月の冷えがてのひらへ回り、風が息を潜め、硝子びいどろが喉の奥で小さく鳴いた。  三つが揃っている限り、迷っても戻れる。  その次の瞬間、森が息を止めた。  雨は落ちているのに、音が薄くなる。

きりが止まり、葉が止まり、自分の鼓動だけが頭の中で鳴る。  空気が一枚のまくになって、胸へ貼りつく。  こよいは無意識に息を止め、喉の奥が痛くなった。  止まる。

全部が。  いま。  首筋へ大きなしずくが落ちた。  氷みたいに冷たく、背骨が縮む。

けれど声は出せない。  出せば、この沈黙に切られる気がする。  雷の間隔が近い。  呼吸と同じになる。

あさひの足が一歩だけ前へ出て、久遠くおん硝子ガラスの目が青くまばたいた。  こよいは胸のともしびへ手を当て、震えを外へ漏らさないように、ただ前を見た。  森の奥が、少しだけ暗く見える。  暗いのに、そこだけが濃い。

濃い気配が、こちらの皮膚を撫でてくる。  雨の神の気配とも、獣の匂いとも違う。もっと乱暴で、もっと飢えたもの。  こよいは喉の奥で息を噛み、吐く息だけを長くした。

長く吐けば、次の吸い込みが小さくなる。  小さく吸えば、音も小さくなる。  吐いた息の白が、自分の口元で一度だけうずを巻き、すぐ消えた。  うずを巻けたのは、風が戻った証じゃない。

うずを巻くほど弱い流れさえ、ここでは勝手に作られてしまうということだ。  こよいはそのことが嫌で、次の息はもっと静かにした。  あさひが指を一本だけ立てる。  合図。

久遠くおんがそれを見て頷く。  三人の間に言葉はない。  言葉がなくても、息の位置と足の位置で、いま何が近いかだけは分かる。  こよいは足元の泥の冷えを確かめ、次の一歩のためにかかとをほんの少しだけ浮かせた。

その瞬間、遠くで枝が折れた。  乾いた音が一度だけ鳴り、すぐ雨に消される。  こよいは肩の奥の筋肉が固くなるのを感じた。  あさひの肩がわずかに沈み、剣のつかが「き」と鳴る。

久遠くおんは盤を出さずに、硝子ガラスの目だけを前へ向けた。  見えるものが増えるほど痛むのに、それでも見ようとする目だ。  こよいは巾着きんちゃくを抱え直す。  濡れた布が胸へ貼りつき、冷えが心臓の近くまで届く。

指先で結び目を押さえると、硬さが痛みに変わり、その痛みで震えが止まる。  止まった震えのかわりに、呼吸が少しだけ乱れた。  乱れを戻すために、こよいは一度だけ長く吐き、吐き切ってから短く吸った。  短く吸えば、音も小さい。

雨の神の気配が、いまは背中から来るように感じる。  前にいるはずなのに、後ろが重い。  重いものは、見えないところへ回る。  こよいは背中の冷えを振り払うように、視線だけを前へ固定こていした。

前へ。  ここで止まれば、声も、足も、記録も、全部奪われる。  胸の奥がひゅっと鳴り、唇が乾いた。  舌先で濡らすと、鉄の味がした。

胸のともしびが、薄く揺れた。  揺れは消えない。  こよいはその揺れに指を当てるような気持ちで巾着きんちゃくを抱え、足の裏へ力を戻す。  泥は冷たい。

冷たいから、踏んだ瞬間が分かる。  分かる限り、迷わない。  きりの向こうで雨が落ち続ける限り、まだこの世界は動いている。  動いているなら、取り戻せる。

戻れないと決めるのは、まだ早い。  いまは進む。  必ず。  手の中で巾着きんちゃくが小さく鳴いた。

震えは残る。  けれど歩く。  前へ、もう一歩。  今。

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