石柱の境を越えた先の森は、音が薄かった。 薄いのに、刺さる。 雨は降っているのに、葉を叩く音が遠い。 かわりに自分たちの息と、泥を踏む音だけが近い。
こよいは思わず呼吸を浅くした。 浅くすると胸の奥が冷え、冷えたまま重く残る。 吐く息が白くほどけ、霧へ混じって消える。 消えるたびに、世界の中で自分が小さくなる気がした。
「……雨の神様、もう近いの?」
こよいの声は自分でも細いと思った。 声が霧に吸われ、返事が遅れるのが怖い。
「ああ。気配が重い」
あさひは短く言い、前を見た。 背中の動きが小さく、歩幅も小さい。 濡れた草鞋が泥に吸われるたび、足を抜く音がする。 その音だけが、道が動いている証だった。
鳥の声がない。 虫も鳴かない。 羽ばたきの気配すらない。 雨の日でも、葉の陰で小さな囁きは残るはずなのに、森は黙っている。
黙っている、というより、声を出すのをやめている。 あさひが歯を噛んだ。
「……空が死んでる」
久遠が首を振る。
「死んでない。……隠してる。声を出せば、居場所になる」
こよいは背中が冷えた。 声を出すことが危険になるほど、ここには歪みがある。 音を奪う歪み。 こよいは巾着を抱え、結び目の硬さを指で確かめた。
硬さがあるから、いま自分が持っているものが分かる。 風は息を潜め、月は冷え、硝子は小さく鳴く。 その三つが震えている。 震えが布越しに胸へ伝わり、鼓動の拍が一つだけ早くなる。
こよいはそれを戻すように、鼻から吸って口から吐いた。 吐く息が笠の内側でぬるく戻り、頬だけが冷たい。 濡れた袖口が手首に貼りつき、少し動かすたび布が皮膚を引いた。 道端に、羽が落ちていた。
濡れて色が褪せ、泥に半分埋もれている。 こよいはしゃがみ、指先で拾った。 羽は軽い。 けれど冷たさだけが重い。
雨水が指の腹を伝い、爪の端が痺れる。 羽の軸が掌に当たり、硬さが小さく痛い。 こよいは羽の泥を払おうとして、やめた。 払う動きが、ここでは大きい。
代わりに掌で包み、短く息を吐いた。 祈りのつもりで、羽を元の場所へそっと戻す。 そのとき、どこかで一度だけ、声がした。 短い。
切れる。 鳴いたというより、引き裂けた音だ。 こよいは反射で耳を澄ませ、身体を硬くした。
「いまの……聞こえた?」
あさひがすぐに低く止める。
「動くな。音を立てるな」
久遠が霧の向こうを見た。
「ここは理の墓場だ。……生き物ほど、黙る」
言葉が冷たく落ちた。 こよいは唇を噛み、血の味がする前に離した。 怖さが胸に溜まる。 溜まるけれど、足を止めれば溺れる。
雨の匂いが急に薄くなる瞬間がある。 薄くなると、耳の奥が詰まる。 詰まるほど、次に来る音が怖くなる。 こよいは指先の痺れを誤魔化すように巾着を抱え直し、結び目の段差で手を固定した。
進むと、木の根元に空っぽの巣が見えた。 枝で編まれた器が雨を吸って垂れ下がり、縁には割れた卵の殻が泥色に染まって残っている。 その下の地面に、爪痕が深い。 獣のものだ。
幹にも傷があり、黒い剛毛が雨に濡れて貼りついていた。 匂いが来る。 湿った毛皮の臭い。 土と雨の匂いに混じって、肺の奥へ重く残る。
雨が濡らす匂いじゃない。 獣が残した匂いだ。 こよいは鼻の奥がつんとし、舌の上に渋さが戻るのを感じた。 息を吸うと胸が詰まり、吐くと少しだけ軽くなる。
足元には、抉られた泥の線が続いていて、雨に洗われても消えない。 あさひが剣の柄へ指を置いた。
「……獣がいる。主が狂ってる」
こよいは息を止めかけ、すぐ吐いた。 止めれば、胸の奥がさらに重くなる。 久遠は何も言わず、足元の泥の盛り上がりを目で追う。 大きいものが通った線が、森の奥へ続いている。
線は雨で消えない。 消えないほど深い。 久遠の硝子の目が一度だけ青く瞬いた。 瞬いた光が雨粒に反射して、視界の端に小さな輪がいくつも浮かぶ。
輪はすぐ消える。 消えるのに、消えた場所だけが気になる。 こよいは目を細め、見ないようにする。 見すぎれば迷う。
雨音の奥に、別の音が混じった。 濡れた枝が折れる乾いた音。 重い息の音。 遠いのに近い。
近いのに方向がない。 こよいは巾着を抱え、呼吸を整えようとした。 結び目の段差が指に当たり、指が少しだけ痛む。 その痛みで、自分の手の位置が戻る。
月の冷えが掌へ回り、風が息を潜め、硝子が喉の奥で小さく鳴いた。 三つが揃っている限り、迷っても戻れる。 その次の瞬間、森が息を止めた。 雨は落ちているのに、音が薄くなる。
霧が止まり、葉が止まり、自分の鼓動だけが頭の中で鳴る。 空気が一枚の膜になって、胸へ貼りつく。 こよいは無意識に息を止め、喉の奥が痛くなった。 止まる。
全部が。 いま。 首筋へ大きな雫が落ちた。 氷みたいに冷たく、背骨が縮む。
けれど声は出せない。 出せば、この沈黙に切られる気がする。 雷の間隔が近い。 呼吸と同じになる。
あさひの足が一歩だけ前へ出て、久遠の硝子の目が青く瞬いた。 こよいは胸の灯へ手を当て、震えを外へ漏らさないように、ただ前を見た。 森の奥が、少しだけ暗く見える。 暗いのに、そこだけが濃い。
濃い気配が、こちらの皮膚を撫でてくる。 雨の神の気配とも、獣の匂いとも違う。もっと乱暴で、もっと飢えたもの。 こよいは喉の奥で息を噛み、吐く息だけを長くした。
長く吐けば、次の吸い込みが小さくなる。 小さく吸えば、音も小さくなる。 吐いた息の白が、自分の口元で一度だけ渦を巻き、すぐ消えた。 渦を巻けたのは、風が戻った証じゃない。
渦を巻くほど弱い流れさえ、ここでは勝手に作られてしまうということだ。 こよいはそのことが嫌で、次の息はもっと静かにした。 あさひが指を一本だけ立てる。 合図。
久遠がそれを見て頷く。 三人の間に言葉はない。 言葉がなくても、息の位置と足の位置で、いま何が近いかだけは分かる。 こよいは足元の泥の冷えを確かめ、次の一歩のために踵をほんの少しだけ浮かせた。
その瞬間、遠くで枝が折れた。 乾いた音が一度だけ鳴り、すぐ雨に消される。 こよいは肩の奥の筋肉が固くなるのを感じた。 あさひの肩がわずかに沈み、剣の柄が「き」と鳴る。
久遠は盤を出さずに、硝子の目だけを前へ向けた。 見えるものが増えるほど痛むのに、それでも見ようとする目だ。 こよいは巾着を抱え直す。 濡れた布が胸へ貼りつき、冷えが心臓の近くまで届く。
指先で結び目を押さえると、硬さが痛みに変わり、その痛みで震えが止まる。 止まった震えのかわりに、呼吸が少しだけ乱れた。 乱れを戻すために、こよいは一度だけ長く吐き、吐き切ってから短く吸った。 短く吸えば、音も小さい。
雨の神の気配が、いまは背中から来るように感じる。 前にいるはずなのに、後ろが重い。 重いものは、見えないところへ回る。 こよいは背中の冷えを振り払うように、視線だけを前へ固定した。
前へ。 ここで止まれば、声も、足も、記録も、全部奪われる。 胸の奥がひゅっと鳴り、唇が乾いた。 舌先で濡らすと、鉄の味がした。
胸の灯が、薄く揺れた。 揺れは消えない。 こよいはその揺れに指を当てるような気持ちで巾着を抱え、足の裏へ力を戻す。 泥は冷たい。
冷たいから、踏んだ瞬間が分かる。 分かる限り、迷わない。 霧の向こうで雨が落ち続ける限り、まだこの世界は動いている。 動いているなら、取り戻せる。
戻れないと決めるのは、まだ早い。 いまは進む。 必ず。 手の中で巾着が小さく鳴いた。
震えは残る。 けれど歩く。 前へ、もう一歩。 今。
