川下へ進むほど、音が変わった。 気づけば、足も同じ調子で動いていた。 岩を殴る太い音が少し減り、かわりに砂利が擦れる細い音が混じり始める。 こよいはその違いを耳の奥で拾い、胸の灯が小さく熱を持つのを感じた。
浅い場所があるかもしれない。 雨は相変わらず降って、笠の縁から落ちた雫が顎を打つ。 顎を伝う水が襟へ落ち、首筋がひやりと冷えた。 冷たさが骨に届く前に、こよいは息を吐き、もう一度吸った。
吸い込む空気は湿って重く、喉を通ると鉄の味が残る。 あの橋の拒絶がまだ背中に残っていて、歩くたび肩が少し重い。 肩が重いのに、足だけは止まらない。 道は獣道みたいに細く、片足を置く場所を探して進む。
濡れた石は滑り、踏むと「かつ」と乾いた音がする。 乾いた音が増えるのは、地面が戻っている証だ。 けれど戻りきってはいない。 泥はまだ柔らかく、草鞋を吸って離さない。
抜くたび「ずぶ」と音がして、足が遅れる。 遅れた分だけ雨の冷えが追いつき、腿の内側がじわりと冷たくなる。 こよいは巾着を胸へ押さえ、結び目の段差を指で確かめる。 段差の硬さが、手の震えを止めてくれる。
久遠の歩く速さは一定で、あさひはその少し前で岩の角を拾い、危ない場所だけを避けていく。 久遠は時々、爪で木の皮を小さく削り、目印を残した。 湿った皮が指に貼りつき、冷たさだけが残る。
「……ここだ」
久遠が立ち止まり、川の縁を指さした。 霧の向こう側に、白い泡が薄く広がっている場所がある。 流れが一気に細くなる。 水の色も、ほんの少しだけ明るい。
久遠は足元の枝を拾い、先を折って川へ差し入れた。 枝先が押され、揺れ、けれど折れずに戻る。 流れが太い場所では枝はすぐ持っていかれるはずだ。 ここは、まだ耐えられる。
あさひが目を細める。
「浅瀬か。……踏めるか」
久遠は盤を出さずに、硝子の目だけで水面を追った。 雨粒が跳ねる位置、泡が溜まる位置、流れが引っかかる位置。 見えない線を見ている顔だった。 硝子の目が時々、青く瞬き、雨粒の向こうの奥行きまで測っているように見える。
「踏める。……ただし、底が動く。止まるな」
あさひは縄を取り出し、腰へ結ぶ。 濡れた縄が肌に貼りつき、冷えがそこから広がる。 久遠も同じように結ぶ。 こよいは最後に結び目を受け取り、指先で固さを確かめてから結んだ。
縄のけばが指に刺さり、痛みで感覚が戻る。 結ぶとき、指が滑ってほどけそうになり、こよいは歯を噛んで結び目を二度締めた。 解けたら終わる。 だから締める。
水際に立つと、冷気が足首を噛んだ。 流れの匂いは鉄の苦さを残し、舌の上が渋い。 こよいは草鞋の紐を締め直し、足裏の皮膚が湿ってふやけているのを感じた。 嫌な感触ほど、判断を誤らせる。
だからこそ確かめる。 掌に残る縄のけばの痛みも、いまは味方だ。 痛みがあるから、指がどこにあるか分かる。 あさひが先に入った。
水が膝へ跳ね、着物の裾が重くなる。 石を踏むたび、足元が「ずる」と動き、流れが足を引く。 あさひは重心を落とし、動く石には乗らず、沈む砂利を踏みしめる。 踏みしめるたび砂利が鳴り、その音が一拍遅れて返る。
久遠が後ろで縄の張りを保ち、揺れを小さく抑える。 縄が張るたび、腰骨に引きが伝わり、身体の位置が戻される。 戻される感覚があるから、恐怖が少しだけ薄くなる。
「こよい。置け。踏み込むな」
あさひの声は雨に削られた。 こよいは頷き、冷たい水へ足を入れた。 足首が一瞬で痺れる。 水の冷えが骨へ届く前に、次の石へ足を置く。
置く。 踏み込まない。 流れの力を受けて、身体がずれる。 縄が腰を引き、戻す。
戻されたとき、巾着の結び目が肋に当たり、硬さが痛みに変わった。 痛みで息が浅くなるのを感じ、こよいは意識して長く吐く。 吐けば、次が吸える。 巾着の中で風が鳴いた。
背中が軽くなる。 月の冷えが掌へ回り、硝子が震えながら息を整える。 三つの気配が重なって、こよいの呼吸の拍に寄り添ってきた。
『……いま。ここ、ふれる……』
硝子の神の声が細く届く。 触れている。 怒りの水に触れている。 こよいは唇を噛み、足を止めない。
止めれば、流れが勝つ。 中ほどで一度、足元が抜けた。 砂利が崩れ、冷たい水が膝へ食い込む。 こよいの喉が鳴り、息が乱れた。
水が着物の内側へ入り、腿の皮膚を直接冷やす。 けれど縄が張り、あさひが腕を伸ばして引いた。 濡れた布越しに伝わる熱は短い。 それでも、その短さで十分だった。
こよいは足を置き直し、崩れた砂利のかわりに、沈んでいる石の角を探す。 角は冷たく硬く、触れた瞬間に安心が来る。
「大丈夫だ。前だけ見ろ」
こよいは「うん」とだけ返し、岸を見た。 対岸の土は黒く柔らかく、草が伏せている。 踏めば沈む。 けれど、いまはそこに上がるしかない。
最後の一歩で、泥が足首を掴んだ。 重い。 引くほど重い。 こよいは膝を折りそうになり、歯を噛んで足を抜く。
抜けた瞬間、泥が「ぬちゃ」と音を立て、冷たい塊が皮膚に残った。 こよいはその重さを振り払い、息を整える。 岸の内側は森だった。 雨に濡れた葉が光り、霧が木の間に溜まっている。
踏み入れた途端、匂いが変わった。 土と水の匂いに、焦げたみたいな渋さが混じる。 雨の音も変わる。 葉を叩く音が薄く、どこか遠い。
代わりに自分の足音だけが目立ち、世界の中で自分たちが浮いている気がした。 久遠は森の奥を見据え、動かないまま言った。
「……理が崩れてる匂いがする。ここから先は、迷う」
あさひが縄を握り直し、こよいの腰の結び目を確かめる。 縄は濡れて重い。 けれど、この重さが道標になる。
「離れるな。目が見えなくても、手で分かる距離にいろ」
こよいは頷き、巾着を押さえ直した。 霧は濃く、木の幹はどれも似ている。 それでも足元には、まだ土の感触がある。 土の冷え、縄のけば、結び目の硬さ。
その三つを数えながら、こよいは森へ一歩、踏み入れた。 踏み入れた途端、音が薄くなった。 雨は降っているのに、葉を叩く音が遠い。 かわりに、自分たちの足が泥を押す音と、縄が擦れる音だけが近い。
息を吸うと、腐葉土の湿った匂いの奥に、焦げた渋さが混じる。 喉の奥が乾き、舌に鉄の味が戻る。 こよいはその味に、観測者の暗い服と冷たい目を思い出してしまい、胸の灯を押さえるように巾着を抱えた。 木の幹はどれも太さが似ている。
枝の折れ方も似ている。 視線を少し逸らすだけで、さっき見た幹がまた出てくる気がする。 こよいは縄の張りに意識を置く。 あさひが一歩進むたび、腰の結び目が引かれ、引かれた分だけ自分も前へ出る。
久遠が後ろで張りを調整し、揺れが急にならないよう抑えているのが分かる。
『……ここ、いやな におい……』
硝子の神の声が、巾着の底でかすれる。 こよいは「大丈夫」と口の中でだけ返し、息を長く吐いた。 雨の神の気配はまだ遠い。 けれど、遠いからこそ迷いが来る。
迷いを切るために、こよいは足元を見た。 泥の上に落ちた葉は濡れて冷たく、踏むと音がしない。 その静けさが、いちばん怖かった。 あさひが小さく「一、二」と数を数え始めた。
声は低く、雨に溶けそうで、それでも縄の張りと一緒にこよいの耳へ届く。 数が続くあいだは、道が続く。 こよいはその声に呼吸を合わせ、巾着の重みを確かめながら、同じ一歩を繰り返した。 吐いた息が白くほどけ、霧に混じって消える。
消えるたびに、自分の輪郭をもう一度だけ確かめる。 胸の灯が小さく応えた。 消えない。
