森の雨は、音の層が多かった。 広い葉を叩く乾いた音、幹を伝って落ちる湿った音、腐葉土へ吸われる重い音。 それらが重なっているのに、なぜか耳は空いたままで、自分たちの足音だけが浮く。 こよいは縄の張りに身を預け、泥を踏む感触を確かめながら進んだ。
泥は冷たく、踏むと吸いつき、抜くときだけ「ずぶ」と音がする。 音のない歩き方はできない。 だから音を小さくする。 あさひは前を行き、低い声で数を数え続けた。
数は呼吸の合図で、歩幅の合図で、迷いの刃を少しだけ鈍らせる。
「一、二……三」
こよいはその数に息を合わせた。 吸って、吐いて、次の足場へ置く。 置く、と心の中で言う。 踏み込まない。
泥に捕まったときは縄を頼る。 縄が腰を引き、身体が戻る。 戻る感覚があるだけで、胸の灯は消えにくくなる。 盤は出さない。 出しても星は見えない。 代わりに、雨粒の落ち方と霧の流れを見ている。 霧は木の間を通るはずなのに、時々、同じ場所へ溜まって動かなくなる。
動かない霧は、固定された水の匂いがした。
「……同じ木が増えてる」
久遠がぽつりと言う。 こよいは思わず横を見た。 太い幹。 苔の筋。
折れた枝。 さっき見た形に似ている。 似ているだけかもしれない。 けれど、似ているという感覚が怖い。
怖いから、目を逸らす。 逸らして、足元へ戻す。 雨の匂いはまだ鉄の苦さを残している。 舌に渋い味が張りつく。
口を動かすと唇が裂けそうで、こよいは一度、舌先で唇を濡らした。 濡らしたところへ風が当たり、ちりっと痛む。 寒さじゃない痛みは、まだ動ける証みたいで、こよいはその痛みを捨てずに持っていく。 足元の水が増えた。
小さな水たまりが続き、踏むたび「ぴちゃ」と浅い音がする。 音が浅いのはいい。 深くなると、底が見えなくなる。 見えない底は、迷いと同じだ。
『……ここ、ねむってる……』
月の神の声が、巾着の奥で震えた。 眠っている。 動かない理。 こよいは巾着を押さえ、結び目の段差を指でなぞる。
段差の硬さが、意識を縫い留める。
「迷わない。……迷っても、戻る」
こよいは自分に言い聞かせた。 言葉にすると、胸の灯が少しだけ安定する。 あさひの数が続く。 久遠の足音が続く。
縄の擦れる音が続く。 それらが続くかぎり、道も続く。 けれど、森は優しくない。 枝葉に溜まっていた大粒の雫が、突然、首筋へ落ちた。
氷みたいな冷たさが背骨を走り、こよいは肩をすくめる。 声は出さない。 出せば呼吸が乱れる。 乱れた呼吸は、霧に掴まれる。
雷が鳴り、光が一瞬だけ幹を白くした。 その刹那に見えた先の景色は、さっきと同じようで、少し違う。 違いが分からないのが、いちばん怖い。 こよいは縄の張りを確かめ、前に引かれる力に身を預けた。
「止まるな」
あさひの声が短く飛ぶ。 こよいは頷き、足を置いた。 置いた足の下で、腐葉土が柔らかく沈む。 沈む感触が遅れて返り、体の重さが一拍ずれる。
ずれを縄で戻し、戻った分だけ息を整える。 雨の音はまだ多い。 けれど、その音のどこかで、風が一度だけ止まった気がした。 止まったのは一瞬だった。
けれど一瞬で十分だった。 葉の揺れが消え、霧の流れが止まり、雨粒が真っ直ぐ落ちた。 横から叩いていたはずの雨が、いまは定規で引いた線みたいに落ちる。 こよいはその変化に喉が乾き、唾を飲んだ。
飲んだ音が、やけに大きく聞こえる。 あさひの数も、そこで途切れた。
「……境い目だ」
久遠が言った。 こよいは足元を見た。 泥の上に落ちた葉が、風に動かない。
落ちたばかりの雨粒が、跳ねる前に吸われる。 吸われるのに、水の匂いが薄い。 湿っているのに、どこか乾いた感じがする。 理が、きれいに拭かれてしまったみたいだった。
あさひが縄を短く手繰り、こよいの位置を確かめる。 縄のけばが濡れて重く、掌の皮に貼りついた。
「何がある」
「固定の匂いが濃い。……ここから先は、道そのものが嘘になる」
久遠の声は淡い。 淡いのに、刃がある。 こよいは巾着を抱え、結び目の硬さを押さえた。 胸の灯が小さく熱を持ち、すぐ冷えに押される。
その押し返しが、いま自分が生きている証みたいで、こよいは息を吐いた。 少し進むと、木の間に石が立っているのが見えた。 人の背より高い石柱で、表面は苔に覆われ、雨で黒く光っている。 近づくほど冷気が濃くなり、頬の皮膚が引きつった。
こよいが指で触れると、石は芯まで冷たく、ざらりと砂の感触が残った。 苔の湿りが指の腹に移り、そこだけ温度が変わる。 石柱の根元には、古い縄の切れ端があった。 紙片も、折れた枝も、泥に埋もれている。
誰かがここを「境」として扱っていた痕だ。 こよいは短く手を合わせた。 祈りは長くできない。 長くすれば、迷いが入り込む。
「……経蔵は、この先だ」
あさひが低く言った。 声はいつもより硬い。 久遠は石柱の向こうを見たまま頷く。
「近い。けど、簡単じゃない」
こよいは巾着に指を添え、神々の気配を確かめた。 月は冷えたまま震え、風は息を潜め、硝子は小さく鳴く。 怖さが胸に溜まる。 溜まるけれど、足は止まらない。
止まれば、道が消える。
「行こう」
言うと、声が雨に薄く溶けた。 あさひが一歩先へ出る。 久遠が最後尾で縄の張りを保つ。 こよいは石柱を越えた。
越えた瞬間、自分の足音が、さっきより一段大きく聞こえた。 世界が静かになったわけじゃない。 自分が、世界の中で目立つようになっただけだ。 その先の森は、息が詰まるほど整っていた。
雨粒は落ち続けるのに、枝はほとんど揺れない。 葉の表も裏も同じ角度で濡れていて、光が薄く反射する。 霧はあるのに流れず、濡れた空気がそこに貼りついたまま動かない。 こよいは一歩進むたび、肩口が冷えるのに、なぜか汗だけが引かないことに気づいた。
冷えと熱が同じ場所で擦れて、身体が落ち着かない。
「聞こえるか」
あさひが小さく聞いた。 こよいは耳を澄ませる。 川の音は遠くなった。 雨の音は近い。
けれど、そのどちらとも違う低い唸りが、どこかにある。 唸りは森そのものの喉の奥から出ているみたいで、方向が掴めない。 久遠が首を振った。
「音じゃない。……歪みだ。こっちを向いてる」
こよいの背中に、見えない視線が触れた気がした。 悪意だけじゃない。 何かを測る、冷たい手。 こよいは巾着を抱え、結び目の硬さで自分を縫い留める。
風が息を潜め、月が冷え、硝子が小さく鳴く。 三つが怖れているのが分かる。 怖れているのに、逃げようとしない。 こよいはその気配に合わせるように、息を短く、静かに整えた。
雨はまだ落ちる。 落ちるたび、音が薄い。 薄い音が続くほど、次の何かが近い。 こよいは手の甲で頬を拭った。
濡れた袖が肌に貼りつき、冷えが残る。 鼻の奥で雷の匂いがするのに、風は動かない。 雨粒が一つ、葉の先で膨らみ、重くなってから落ちた。 落ちるまでの間が長い。
長いのに、誰もそれを待っていない。 待つ余裕がない。 あさひがまた数を数えようとして、やめた。 数がここでは役に立たないのが分かったからだ。
こよいは縄の張りだけを頼りにし、土の冷えを足裏で確かめた。 次の一歩の先で、空気がさらに固くなる。 そこが、もっと深い境い目だと、肌が先に知ってしまう。 胸の灯が一度だけ熱くなり、すぐ静かに収まった。
消えない。 まだ歩ける。 雨が降っている限り、道はある。
