第082話 渡れない橋
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第082話 渡れない橋

第3章 印の輪郭

砂利の音は、すぐには近づかなかった。  歩いても歩いても、川は怒りを緩めない。岩を叩く音が鉛のように重く、濁った飛沫しぶきひざの下まで跳ねてくる。  草鞋わらじひもに泥が絡み、一歩ごとに足が重くなった。

こよいは巾着きんちゃくを胸に押さえたまま歩いている。  川のへんを歩くたび、冷気が足首あしくびから這い上がる。草鞋わらじの底を水がめるように通り、濡れた革が足に貼りつく。  雨はかさを叩くけれど、川の音のほうが太い。岩を砕く音と濁流だくりゅうが岸を削る音が混じり、耳の奥でひとつのうなりになる。  歩くたびに草鞋わらじひもが少しずつ緩み、結び直す指が冷えていく。指先の感覚が鈍るほど、てのひら巾着きんちゃくの重さが鮮明になる。

巾着きんちゃくの中で、硝子びいどろの神がまだ震えている。  橋を離れてから、震えは小さくなったが消えない。水の気配が近いせいだ。川が曲がるたびにきりの厚さが変わり、そのたびに硝子びいどろの震えの質も変わる。

こよいはその震えを、てのひらで読んでいた。  強く震えるときは、雨の神が近い。弱くなるときは、離れている。震えが止まらないのは、この川のどこかに、まだ雨の神がいるということだ。

あさひが足を止めた。  川のふちに、崩れた石積みが半分水に沈んでいる。

「……せきだ。壊れてるが、昔は水を分けてた」

久遠くおんがしゃがみ、石の表面に指を当てた。  こけの下に、刻まれた溝がある。指でなぞると、溝の底に砂がまっていた。  硝子ガラスの目が細く光る。

「水路の跡だ。このせきから町の方へ水を引いていた。今は埋まっているが、痕跡こんせきが残っている」

「雨の神の……?」

「分からない。ただ、ここに水を整える仕組みがあったのは確かだ。崩れて久しい」

久遠くおんは立ち上がり、指先の泥を雨に流した。  崩れたせきの向こうに、川幅が少し広がっている場所があった。流れが分散し、水面の荒れが鈍くなっている。  けれどまだ浅くはない。ひざで済む深さではなかった。  こよいは水際みずぎわから一歩下がり、崩れた土の柔らかさを足裏で確かめた。ここを踏み抜けば、川まで滑り落ちる。崩れたせきは渡り場にはなれない。

三人はまた歩き出した。  雨がかさを叩く音が単調になる。同じ音が繰り返されると、耳が慣れて聞こえなくなる。代わりに、川の音の細部が聞き取れるようになった。  石に当たる音、砂利を擦る音、泡が潰れる音。それぞれが違う高さで鳴っている。  川が曲がるたびに音の質が変わる。直線では岩が激しく鳴り、カーブでは泡の音が増える。こよいはてのひらの震えを追いながら、川のどこに変化があるかを探った。

あさひが立ち止まり、川の向こう岸をにらんだ。

「砂の色が変わった。下に行くほど、濁りが薄れる」

こよいはあさひの視線の先を見た。川面かわもの濁りが、ほんの少しだけまくを薄くしている。岩の影がぼんやりと見える深さだ。

「浅くなってるの……?」

「まだだ。けれど崩れた石が水を散らしてる場所がある。あそこなら踏めるかも」

こよいは巾着きんちゃくに手を当て、硝子びいどろの震えがどう変わるか確かめた。震えの質は変わらない。けれど、長さが少しだけ伸びた。

久遠くおんは前を向いたまま、低く言った。

くいことわりを固定している限り、神の感情も固定される。怒りは怒りのまま、悲しみは悲しみのまま、変わることを許されない。それが構築の仕組みだ」

「だから、近づけなかった」

「ああ。神自身が拒んでいるのではなく、固定された感情が壁になっている。壁を壊すには、くいに触れるしかない」

くいに触れる。  そのために、まず川を渡らなければならない。  渡るために、浅い場所を探している。  こよいは足元の泥を踏み、冷たい水が草鞋わらじの隙間から染みるのを感じながら、もう一歩進んだ。  川面かわもに目を落とすと、くいに触れるまでの距離が足の数で測れた。まだ遠い。けれど、遠いほどに壁のない場所があるかもしれない。

川沿いの道は途切れかけていた。  岸の土が崩れ、木の根がき出しになっている。根の下から水がにじみ、小さな滝になって川へ落ちていた。滝の音は川の怒号どごうに比べれば微かだが、その微かさの中に、柔らかさがあった。

こよいは足を止めた。  滝の水に、巾着きんちゃくの中の神々が応えている。  脈が変わった。今までの硬い脈ではない。少しだけ長く、少しだけ温かい脈。

「……ここの水、さっきまでと違う」

久遠くおんが振り返った。  硝子ガラスの目が滝を映し、青く揺れる。

「……地下水だ。川の水じゃない。山の奥から染み出してきた、古い水だ」

「構築の影響は」

「薄い。川の本流ほど強くない。この水脈すいみゃくは、くいの支配から外れかけている」

こよいは滝の水をてのひらで受けた。川の水とは違う。鉄の苦さがなく、冷たさが柔らかい。てのひらに残る湿りが、雨のそれとは違う温度だ。

あさひが地面を踏み、感触を確かめた。  土が少し硬くなっている。砂利が混じり始めていた。  滝の水が川に合流する場所は、流れが分散して浅くなる。それは自然のことわりだ。  こよいは一歩ごとに足裏で砂利の質を確かめながら、てのひらに残る滝の水の柔らかさを忘れないようにした。砂利が増えるたびに、渡れる場所が近づく。

「近いな。もう少し先だ」

あさひの声に、初めて確信が混じった。  こよいは頷き、巾着きんちゃくを押さえ直した。  硝子びいどろの震えが、また変わっていた。  おびえではない。  呼ばれている震え。

『……ちかい。……みず、よんでる……』

硝子びいどろの神の声が、巾着きんちゃくの底から細く聞こえた。  こよいは喉の奥で「うん」と返し、冷えた指を握り直した。  雨は止まない。  川は怒っている。  けれど、地下から染み出す古い水が、怒りの隙間に道を作り始めていた。

三人は滝の水を目印にして、川沿いを下った。  足元の砂利が増えるたびに、こよいの胸のともしびが小さく応えた。

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