第081話 吊り橋の拒絶
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第081話 吊り橋の拒絶

第3章 印の輪郭

吊り橋(つりばし)の板は、水を吸いすぎて黒かった。  こよいが足を置くと「ぎし」と沈み、遅れて縄が鳴る。  音の端が霧(きり)に吸われる前に、腹の底へ刺さった。  板の上に溜(た)まった雨が草鞋(わらじ)へまとわりつき、踏むたび冷たい水が指の間を撫でる。

木の表面はぬめり、腐りかけた繊維が柔らかく沈んで、足裏だけが妙に熱を持つ。  こよいは巾着(きんちゃく)を胸へ寄せ、結び目の硬さを確かめるように押さえた。  押さえた掌(てのひら)に月の冷えが走り、背中には風の軽さが触れる。  あさひの背中は近い。

揺れに合わせて肩がわずかに動く、その動きだけが頼りだった。  久遠(くおん)の気配は後ろで静かに動き、橋の揺れの拍に合わせて、呼吸の位置まで揃えてくる。  欄干(らんかん)の縄には、白い布の切れ端がいくつも結びつけられていた。  雨に洗われて灰色に変わり、結び目が固い。

指で触れると布が冷え、湿りが皮膚に貼りつく。  ここを渡った誰かが、戻れないと思いながら結んだのかもしれない。  祈りは軽い布なのに、結び目だけが重い。  こよいは喉の奥で息をひとつ整え、視線を足元へ戻した。

板の隙間から見える水が近すぎて、眩暈(めまい)みたいに身体が揺れる。  揺れを誤魔化すように、腹の底へ力を入れた。

「焦るな。橋の声だけ聞け」

あさひの声は低く、雨音の隙間へ滑り込んだ。  こよいは頷き、橋の軋(きし)みと自分の歩みを合わせる。  濁流(だくりゅう)の咆哮(ほうこう)が下から立ち上がり、板の隙間から白い泡が見える。  水の匂いは甘くない。

鉄の苦さと、腐った木の臭いが混じり、舌に渋い味が残った。  息を吸うと胸の奥が冷え、吐くと唇が濡れる。  濡れた唇に風が当たり、ちりっと痛んだ。  こよいは瞬(まばた)きを一度だけして、雨粒を落とす。

落としても、すぐ次が来る。  久遠(くおん)は最後尾で、縄の張りを目で追っている。  こよいは背中に気配を感じる。

見張られている、という怖さと、守られている、という安心が同じ場所で擦れて、胸の灯(ともしび)が小さく熱くなった。  久遠(くおん)の吐く息が一拍だけ重くなり、次に戻る。  その重さの違いで、彼が何かを見たのが分かった。  橋の中ほどへ来たとき、風が一度止んだ。

止んだ瞬間の静けさが、耳の奥へ貼りつく。  川の音だけが太く残り、自分の鼓動が逆に聞こえる。  次の刹那(せつな)、横殴りの突風が頬を殴り、雨が針みたいに刺さった。  笠(かさ)が引っ張られ、首筋がひやりと晒(さら)される。

橋が大きく揺れ、足裏の板がずれる。  こよいの腹がひゅっと浮き、喉が乾く。  手すりの縄へ指をかけると、濡れた繊維が滑り、指の腹の感覚が一瞬だけ消えた。  巾着(きんちゃく)の中で風の神が鋭く鳴いた。

警告。  こよいは反射で巾着(きんちゃく)を押し当てる。  布越しに月の冷えが走り、硝子(びいどろ)が小さく震えた。

『……きた。うえ……した……』

硝子(びいどろ)の神の声は細く、冷たい。  言い終える前に、濁流(だくりゅう)の音が沈んだ。  沈んだ音の底で、何かが息を吸う。  こよいはその吸い込みに引かれるように視線を落とし、見てしまった。

水が盛り上がっている。  壁みたいに。  壁の縁(ふち)が丸く光り、雨粒がそこへ吸い寄せられていく。  吸い寄せられる音まで聞こえる気がして、こよいは耳の奥を押さえたくなった。

冷たい空気が一気に薄くなり、胸を吸うと肺がきしむ。  巾着(きんちゃく)の中で月が震え、風が短く鳴く。

「止まれ。戻れ」

久遠(くおん)の声が張りつめる。  次の瞬間、濁流(だくりゅう)が天へ跳ねた。  水の弧(こ)の奥に、影がいる。  中心に、ひとつの眼が光る。

あれが雨の神の眼なのか、杭(くい)の光なのか、分からない。  ただ見られた感触だけが皮膚を撫で、背中の汗が冷えた。  眼は瞬(まばた)きもしないのに、こちらの呼吸の揺れだけを数えている気がした。  こよいは喉の奥で息を噛み、なるべく音を立てないように吐いた。

橋の下から衝撃(しょうげき)が来た。  板が「めき」と鳴り、全体が跳ね上がる。  こよいの身体が浮き、手が縄から離れかける。  胃が遅れて持ち上がり、喉まで冷えた水が上がってくる感覚がした。

あさひが膝(ひざ)を落として縄を掴(つか)んだ。  指の筋が浮き、濡れた縄が肉に食い込む。  縄のけばが掌(てのひら)の皮を削り、その痛みが雨の冷えより先に走った。

「戻れ。手を離すな」

怒鳴り声で、こよいの足が戻る。  戻そうとして、板がずれる。  隙間が広がり、下の白い泡が近い。  冷たい飛沫(しぶき)が顔を打ち、目の端が痛む。

板の端に足を乗せた瞬間、木が柔らかく沈んで「ぱき」と嫌な音がした。  こよいが踏み外しかけた瞬間、月の光が足元を照らした。  眩(まぶ)しい光じゃない。  薄いのに、輪郭(りんかく)だけを切り出す光だ。

こよいはその線に沿って足を置く。  置く、と自分に言い聞かせる。  踏み込めば、橋ごと折れる。  久遠(くおん)が背中から押した。

押す力が強い。  重心が戻る。  こよいは息を吐き損ね、喉の奥が鳴った。  肋(あばら)がきしむ。

巾着(きんちゃく)の結び目が胸へ当たり、硬さが痛みになる。  痛い。  けれど、いま痛みがあるのは生きている証だ。  岸へ転がり込むように戻ったとき、土が土として受け止めてくれた。

膝(ひざ)が泥へ沈み、冷えが骨へ来る。  こよいは肩で息をし、濡れた前髪を払おうとして、指が震えてうまくいかない。  あさひが後ろを一度だけ振り返り、橋がまだ繋がっているのを確かめる。  その視線が戻る速さで、限界が近いのが分かった。

久遠(くおん)は岸へ着くなり、噛みしめていた唇を緩めた。  久遠(くおん)は口の端を拭い、雨に混じって赤い筋が薄く流れた。  久遠(くおん)が橋を見たまま言う。

「……渡らせない。拒絶だ。雨の神の絶望か、それを縛る構築の意思か」

こよいは橋の向こうを見ようとして、霧(きり)に遮られた。  見えないのに、気配だけはある。  遠くの断崖(だんがい)に、重い影が立った気がした。  眼の光が一度だけ瞬(まばた)き、次の雷で輪郭(りんかく)がほどける。

影は、最初からいなかったみたいに霧(きり)へ消えた。  消えたあとも、冷たい圧だけが残る。  胸が押され、息が浅くなる。

「……あそこにいるのに」

声が掠(かす)れた。  悔しさが喉へ詰まる。  あさひが濡れた息を吐き、剣の柄(つか)を握り直す。  握り直した指の関節が白い。

怒りを握っているみたいだった。

「仕方ねえ。迂回(うかい)だ。上か下か、浅い場所を探す」

こよいは巾着(きんちゃく)を抱え直し、結び目の硬さで手を落ち着かせる。  雨はまだ止まらない。  けれど、止まれないのは自分たちも同じだ。

三人は川沿いの細い道へ戻り、泥を踏む音を小さくして歩き出した。  足元の石は濡れて滑り、踏むたび「かつ」と乾いた音が混じる。  その音が増えるほど、地盤が変わる。  どこかに浅瀬がある。

そう自分に言い聞かせながら、こよいは霧(きり)の向こうの影を、心の中でだけ見続けた。  橋の軋(きし)みが背後で遠のくほど、かわりに川の息が近づく。  水はまだ怒っていて、石を叩く音が荒い。  けれど、その荒さの中に時々、少しだけ軽い音が混じった。

流れが岩に当たって砕ける場所と、砂へ広がって薄くなる場所の違い。  久遠(くおん)はその違いを拾うように歩き、あさひは崩れない足場だけを選んで先へ出る。  こよいは二人の背を追いながら、冷えた指を一度握って開き、感覚が戻っているか確かめた。  指の腹に残った縄のけばがひりつき、そこへ雨が当たって痛みが増す。

巾着(きんちゃく)の中で硝子(びいどろ)の神が、まだ震えている。  震えが消えないのは、向こうが生きているからだ。  こよいは息を吐き、胸の灯(ともしび)をもう一度だけ静かに整えた。  背後の霧(きり)へ一瞬だけ目を向け、渡れなかった橋の位置を心の中に刻んでから、また前を見た。

そのとき、川の音がほんの少しだけ軽くなった。  泡の潰れる音が近い。  石じゃなく砂利が鳴っている気がして、こよいは耳を澄ませる。もしかしたら、浅い場所がある。

そう思えた瞬間だけ、冷えた胸の奥に小さな熱が戻った。

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