吊り橋の板は、水を吸いすぎて黒かった。 こよいが足を置くと「ぎし」と沈み、遅れて縄が鳴る。 音の端が霧に吸われる前に、腹の底へ刺さった。 板の上に溜まった雨が草鞋へまとわりつき、踏むたび冷たい水が指の間を撫でる。
木の表面はぬめり、腐りかけた繊維が柔らかく沈んで、足裏だけが妙に熱を持つ。 こよいは巾着を胸へ寄せ、結び目の硬さを確かめるように押さえた。 押さえた掌に月の冷えが走り、背中には風の軽さが触れる。 あさひの背中は近い。
揺れに合わせて肩がわずかに動く、その動きだけが頼りだった。 久遠の気配は後ろで静かに動き、橋の揺れの拍に合わせて、呼吸の位置まで揃えてくる。 欄干の縄には、白い布の切れ端がいくつも結びつけられていた。 雨に洗われて灰色に変わり、結び目が固い。
指で触れると布が冷え、湿りが皮膚に貼りつく。 ここを渡った誰かが、戻れないと思いながら結んだのかもしれない。 祈りは軽い布なのに、結び目だけが重い。 こよいは喉の奥で息をひとつ整え、視線を足元へ戻した。
板の隙間から見える水が近すぎて、眩暈みたいに身体が揺れる。 揺れを誤魔化すように、腹の底へ力を入れた。
「焦るな。橋の声だけ聞け」
あさひの声は低く、雨音の隙間へ滑り込んだ。 こよいは頷き、橋の軋みと自分の歩みを合わせる。 濁流の咆哮が下から立ち上がり、板の隙間から白い泡が見える。 水の匂いは甘くない。
鉄の苦さと、腐った木の臭いが混じり、舌に渋い味が残った。 息を吸うと胸の奥が冷え、吐くと唇が濡れる。 濡れた唇に風が当たり、ちりっと痛んだ。 こよいは瞬きを一度だけして、雨粒を落とす。
落としても、すぐ次が来る。 久遠は最後尾で、縄の張りを目で追っている。 こよいは背中に気配を感じる。
見張られている、という怖さと、守られている、という安心が同じ場所で擦れて、胸の灯が小さく熱くなった。 久遠の吐く息が一拍だけ重くなり、次に戻る。 その重さの違いで、彼が何かを見たのが分かった。 橋の中ほどへ来たとき、風が一度止んだ。
止んだ瞬間の静けさが、耳の奥へ貼りつく。 川の音だけが太く残り、自分の鼓動が逆に聞こえる。 次の刹那、横殴りの突風が頬を殴り、雨が針みたいに刺さった。 笠が引っ張られ、首筋がひやりと晒される。
橋が大きく揺れ、足裏の板がずれる。 こよいの腹がひゅっと浮き、喉が乾く。 手すりの縄へ指をかけると、濡れた繊維が滑り、指の腹の感覚が一瞬だけ消えた。 巾着の中で風の神が鋭く鳴いた。
警告。 こよいは反射で巾着を押し当てる。 布越しに月の冷えが走り、硝子が小さく震えた。
『……きた。うえ……した……』
硝子の神の声は細く、冷たい。 言い終える前に、濁流の音が沈んだ。 沈んだ音の底で、何かが息を吸う。 こよいはその吸い込みに引かれるように視線を落とし、見てしまった。
水が盛り上がっている。 壁みたいに。 壁の縁が丸く光り、雨粒がそこへ吸い寄せられていく。 吸い寄せられる音まで聞こえる気がして、こよいは耳の奥を押さえたくなった。
冷たい空気が一気に薄くなり、胸を吸うと肺がきしむ。 巾着の中で月が震え、風が短く鳴く。
「止まれ。戻れ」
久遠の声が張りつめる。 次の瞬間、濁流が天へ跳ねた。 水の弧の奥に、影がいる。 中心に、ひとつの眼が光る。
あれが雨の神の眼なのか、杭の光なのか、分からない。 ただ見られた感触だけが皮膚を撫で、背中の汗が冷えた。 眼は瞬きもしないのに、こちらの呼吸の揺れだけを数えている気がした。 こよいは喉の奥で息を噛み、なるべく音を立てないように吐いた。
橋の下から衝撃が来た。 板が「めき」と鳴り、全体が跳ね上がる。 こよいの身体が浮き、手が縄から離れかける。 胃が遅れて持ち上がり、喉まで冷えた水が上がってくる感覚がした。
あさひが膝を落として縄を掴んだ。 指の筋が浮き、濡れた縄が肉に食い込む。 縄のけばが掌の皮を削り、その痛みが雨の冷えより先に走った。
「戻れ。手を離すな」
怒鳴り声で、こよいの足が戻る。 戻そうとして、板がずれる。 隙間が広がり、下の白い泡が近い。 冷たい飛沫が顔を打ち、目の端が痛む。
板の端に足を乗せた瞬間、木が柔らかく沈んで「ぱき」と嫌な音がした。 こよいが踏み外しかけた瞬間、月の光が足元を照らした。 眩しい光じゃない。 薄いのに、輪郭だけを切り出す光だ。
こよいはその線に沿って足を置く。 置く、と自分に言い聞かせる。 踏み込めば、橋ごと折れる。 久遠が背中から押した。
押す力が強い。 重心が戻る。 こよいは息を吐き損ね、喉の奥が鳴った。 肋がきしむ。
巾着の結び目が胸へ当たり、硬さが痛みになる。 痛い。 けれど、いま痛みがあるのは生きている証だ。 岸へ転がり込むように戻ったとき、土が土として受け止めてくれた。
膝が泥へ沈み、冷えが骨へ来る。 こよいは肩で息をし、濡れた前髪を払おうとして、指が震えてうまくいかない。 あさひが後ろを一度だけ振り返り、橋がまだ繋がっているのを確かめる。 その視線が戻る速さで、限界が近いのが分かった。
久遠は岸へ着くなり、噛みしめていた唇を緩めた。 久遠は口の端を拭い、雨に混じって赤い筋が薄く流れた。 久遠が橋を見たまま言う。
「……渡らせない。拒絶だ。雨の神の絶望か、それを縛る構築の意思か」
こよいは橋の向こうを見ようとして、霧に遮られた。 見えないのに、気配だけはある。 遠くの断崖に、重い影が立った気がした。 眼の光が一度だけ瞬き、次の雷で輪郭がほどける。
影は、最初からいなかったみたいに霧へ消えた。 消えたあとも、冷たい圧だけが残る。 胸が押され、息が浅くなる。
「……あそこにいるのに」
声が掠れた。 悔しさが喉へ詰まる。 あさひが濡れた息を吐き、剣の柄を握り直す。 握り直した指の関節が白い。
怒りを握っているみたいだった。
「仕方ねえ。迂回だ。上か下か、浅い場所を探す」
こよいは巾着を抱え直し、結び目の硬さで手を落ち着かせる。 雨はまだ止まらない。 けれど、止まれないのは自分たちも同じだ。
三人は川沿いの細い道へ戻り、泥を踏む音を小さくして歩き出した。 足元の石は濡れて滑り、踏むたび「かつ」と乾いた音が混じる。 その音が増えるほど、地盤が変わる。 どこかに浅瀬がある。
そう自分に言い聞かせながら、こよいは霧の向こうの影を、心の中でだけ見続けた。 橋の軋みが背後で遠のくほど、かわりに川の息が近づく。 水はまだ怒っていて、石を叩く音が荒い。 けれど、その荒さの中に時々、少しだけ軽い音が混じった。
流れが岩に当たって砕ける場所と、砂へ広がって薄くなる場所の違い。 久遠はその違いを拾うように歩き、あさひは崩れない足場だけを選んで先へ出る。 こよいは二人の背を追いながら、冷えた指を一度握って開き、感覚が戻っているか確かめた。 指の腹に残った縄のけばがひりつき、そこへ雨が当たって痛みが増す。
巾着の中で硝子の神が、まだ震えている。 震えが消えないのは、向こうが生きているからだ。 こよいは息を吐き、胸の灯をもう一度だけ静かに整えた。 背後の霧へ一瞬だけ目を向け、渡れなかった橋の位置を心の中に刻んでから、また前を見た。
そのとき、川の音がほんの少しだけ軽くなった。 泡の潰れる音が近い。 石じゃなく砂利が鳴っている気がして、こよいは耳を澄ませる。もしかしたら、浅い場所がある。
そう思えた瞬間だけ、冷えた胸の奥に小さな熱が戻った。
