夜明けは、雨の匂いを薄く伸ばしたまま来た。 肩が重い。 それでも、まだ歩ける。 洞の出口に立つと、空は鉛色で、雲の底が低い。
昨夜ほどの叩きつけではない。 けれど止む気配もない。 霧が足首へまとわりつき、濡れた草の冷えが草鞋の裏から上ってくる。 吐く息は短く白くなり、笠の内側に湿って戻って頬を冷やした。
雨粒が唇に当たり、舌に触れると少しだけ土の味がする。 こよいは濡れた前髪を掻き上げ、襟元の湿りを指で絞った。 布が指に張りつき、冷たさだけが残る。 指先の皺に泥が入り、爪の端が鈍く痛む。
火の匂いが背中にまだ薄くついていて、洞の中の小さな温もりが遠い気がした。 あさひは草鞋の紐を締め、久遠は荷の重心を確かめる。 誰も余計な言葉を足さない。 息の出入りと、雨の音だけで、もう十分だった。
「……準備はいいか。ここから先は迷うな」
あさひが低く言う。 こよいは頷き、巾着の口が固いことを指で確かめた。 濡れた紐は滑るのに、結び目だけは石みたいに硬い。 段差が爪に当たり、痛いほど現実が戻る。
巾着の中で、風が短く鳴いた。 月は冷え、硝子は小さく息をした。 三つの気配が重なったまま、じっと静かだ。 静かすぎて、逆に怖い。
こよいは喉の奥で唾を飲み、胸の灯を一度だけ押さえた。 洞を出ると、川の音がすぐ近かった。 昨夜までは雨に隠れていたはずの音が、いまは怒号みたいに響く。 濁り水が岩へ当たって砕け、泡が潰れる音が混じる。
こよいはその音の太さに、胸の奥がすこし縮むのを感じた。 水が流れる音じゃない。 引きちぎる音だ。 吐いた息が白くほどけ、すぐ雨へ溶ける。
霧の向こうに白い服の影はない。 けれど、見えない目が理の隙間でこちらを数えている気がして、背中の汗が冷える。 久遠の盤が胸元で小さく鳴り、針の震えが布越しに伝わってきた気がした。 袖の内側を伝う水が肘へ溜まり、曲げるたび冷たさが骨へ刺さった。
道は泥に沈み、足が思うように上がらない。 草鞋が吸われ、抜くとき「ずぶ」と嫌な音がする。 泥が指の間へ入り、爪の根が冷えで痺れてくる。 頬を撫でる風は刃物みたいに冷たく、濡れた枝の青い匂いが鼻を刺した。
こよいが足を滑らせかけたとき、あさひの腕が迷わず支えた。 握られた腕の上からでも分かる硬さと熱が、一瞬だけ戻る。 すぐ冷えに負けて消える。 それでも、その一瞬で息が戻った。
「無理すんな。足だけ見ろ」
あさひは前を向いたまま言った。 こよいは「うん」と喉だけで返し、頷きのかわりに呼吸を整えた。 視線を落とすと、泥の上を流れる薄い水が、まるで道を消そうとしているみたいに走っていた。 川辺へ出ると、流れはもう沢じゃなかった。
黒い水が腹を膨らませ、白い泡を牙みたいに並べて下へ走る。 枯れ葉と枝が渦を描き、ところどころに白い淀みが溜まっている。 泡の間から、石が転がる影がちらりと見えた。 音だけが先に来て、目が追いつかない。
こよいは水の匂いの中に、鉄の苦さを嗅いだ。 湿った空気が肺に重く、舌の上に渋い味が残る。 喉を動かすと、骨の奥まで冷えが鳴った。 巾着の底で硝子の神が震えた。
あの流れが同じ水の気配を持っているせいで、胸の中へ悲鳴みたいに届く。
『……いたい。くるしい……』
こよいは喉の奥で息を整え、指先で巾着を押さえた。 布の湿りと、結び目の硬さが、神を留める錨になる。 押さえるたび、月の冷えが掌へ回り、風が背へ触れ、硝子が喉の奥で小さく鳴く。 怖さは消えない。
けれど、怖さのまま握り続けられる。
「雨の神様は……この奥にいるんだね」
「神気が濃すぎる。近づくほど、理が噛んでくるぞ」
あさひは上流の霧を睨み、地図を指で押さえた。 濡れた紙が指に貼りつき、剥がすとき小さな音がする。
「この先に古い橋がある。渡れなきゃ迂回だ。……迂回は網に触る」
三人は川の縁を慎重に進んだ。 石に当たる音が鋭くなり、空気がさらに冷える。 風が止まる瞬間がある。 その沈黙の一拍が、耳の奥へ貼りついて離れない。
川沿いには祠の残骸が転がり、注連縄の切れ端が泥に貼りついていた。 こよいは一度だけ手を合わせる。 掌の泥は乾きかけてざらつき、祈りの短さが申し訳ない気がした。 けれど、立ち止まる時間はない。
遠くで雷が鳴り、音の遅れが山の大きさを思い出させる。 霧の向こうに、細い線が見えた。 橋だ。 木の板と縄だけの吊り橋が、暴れる流れの上に細くかかっている。
風が吹くたび「ぎ、ぎ」と鳴り、縄が湿って黒い。 近づくほど、縄の繊維のけば立ちが見えて、雨水がそこへ染み込んでいるのが分かる。 手で触れれば、たぶん皮が削れる。 腐った木の匂いが混じり、喉が嫌に渇いた。
板の隙間から奈落みたいな水が覗き、そこへ雨が叩き込まれて白く弾ける。 飛沫が上がるたび、冷たい粒が頬を打ち、目の端が痛む。 橋の向こう側は霧で消えているのに、霧の奥から時々、重い音が遅れて響く。 遠くで何かが動くたび、縄がわずかに震え、その震えが手すりから足元へ伝わってくる気がした。
こよいは自分の呼吸を数え、数が乱れないように鼻から吸って口から吐く。 吐く息は白く、すぐ消える。 消えるから、もう一度吐く。 こよいは橋の手前で息を止めかけ、すぐ吐き直した。
止めれば、冷えが勝つ。 胸の奥がきゅっと鳴り、指先が一度だけ震える。 巾着に指を添えると、月の冷えが掌へ流れ、風が背中を軽く押す。 押されるのは怖い。
けれど、押されないのも怖い。 こよいは足の裏へ意識を落とし、まだ地面が地面であるうちに、重心の置き方を思い出した。
「ここを渡れば……近づける。みんな、力を貸して」
月が小さく応え、硝子が微かに鳴いた。 こよいは橋を見つめたまま、足の裏の感覚だけを拾う。 いま自分が立っている地面は、まだ地面だ。 けれど一歩先は、揺れるものだ。
揺れは、心まで持っていく。
「行くしかねえな」
あさひが先に板へ足をかけ、揺れを確かめる。 板が沈むたび、縄が「ぎり」と短く鳴って、音の端が霧に吸われた。 あさひは一歩目だけ強く踏み、二歩目は軽く置く。 橋の癖を読む歩き方だ。
久遠は最後尾に回り、こよいの肩を守る位置を取った。 濡れた縄へ指を添え、滑りを確かめてから離す。 触れた指先に、繊維のけばと冷えが残った。
「一歩ずつだ。自分の重心を信じるな。……揺らぎは俺が抑える」
こよいは冷たい空気を肺の奥まで吸い、片足を上げた。 濡れた板が「みし」と沈む。 足裏に木の繊維の柔らかさと、腐りかけた硬さが同時に当たる。 川の咆哮がすぐ耳元まで近づき、霧が足首へ絡む。
橋がわずかに揺れた拍子に、内臓が遅れて動く感じがして、こよいは腹を固くした。 手すりの縄へ指をかけると、冷たい水が指の腹に溜まり、滑って力が入らない。 こよいは爪で縄のけばを噛むように捉え、ほんの少しだけ握る。
「……分かった。置く、だけ。踏み込まない」
声は雨に削られる。 けれど自分の口で言うと、足が聞く。 あさひの背が少しだけ低くなる。 久遠の気配が、背中の斜め後ろで動く。
こよいは歯を噛み、次の足場だけを見る。 二歩目を置くと、板の隙間から冷たい飛沫が上がって頬を打ち、目の端が痛んだ。 瞬きを一度だけして、また前を見る。 橋の向こうは見えない。
見えないまま、渡る。 渡りながら、雨の神の泣き声を、もう一度だけ聞き取るつもりで。 落ちれば、声も一緒に濁って消える。 だから落ちない。
