雨が、世界の音を太らせていた。 笠を叩く粒の重さが変わり、足元の泥が一歩ごとに深くなる。 草鞋の縁から泥水が滲み上がり、指の間へぬるりと絡んだ。 こよいは息を吐くたび胸の奥が冷え、濡れた袖が腕に貼りつく感触に眉をしかめながら、あさひの背中だけを見失わないように走った。
吸い込む空気は湿って重く、喉を通ると鉄みたいな味が残る。 沢の音が近い。 雷の光が一瞬だけ木の幹を白くし、その刹那に見えた道は、もう道の形をしていなかった。 踏み出した足が沈み、抜くたび「ずぶ」と音がして、身体の遅れが生まれる。
「全力で走れ。止まったら呑み込まれる」
あさひの声は短く、喉を擦るようだった。 こよいは返事のかわりに、喉の奥で息を一度噛み、泥を蹴った。 草鞋の裏が滑って、身体が横へ流れる。 踏み直した石の角が足裏に刺さり、痛みが遅れて熱に変わった。
背後で、地面が鳴った。 重いものが踏みつけるたび、腹の底が持ち上がる。 跳ねた泥水が背へ叩きつけられ、冷たい飛沫が首筋を走った。 振り返らなくても分かる。
あの眼が、雨の向こうでこちらを見ている。
「こっちだ。岩の裂け目に入る」
久遠が岩壁を指さした。 そこは人ひとりがやっと通れる暗い割れ目で、内側から冷えが吹き出してくる。 三人は肩をすぼめ、互いの濡れた布が擦れる音を残しながら滑り込んだ。 岩が背と腕を削るように当たり、冷たいざらつきが皮膚へ残る。
こよいは巾着を胸へ寄せ、硬い結び目が肋のあたりに当たる痛みで、まだ自分の形が崩れていないのを確かめた。 次の瞬間、入口が水で洗われた。 濁流が岩肌を叩く音が洞の中で膨れ、白い霧が足元を舐めていく。 霧は肌にまとわりつき、唇に触れると土の味がした。
息を吸うと、土と石の匂いが喉へ沈み、湿りが肺の内側へ貼りつく。 外の雨はまだ怒っているのに、この中の滴りだけは妙に規則正しく、天井から落ちる水が「とん」と地面を叩くたび、時間が刻まれるみたいだった。 滴が首筋へ落ちるたび、背中の筋がびくりと縮む。 暗いのに、耳だけが勝手に働いて、遠い咆哮と近い滴りを分けてしまう。
「……生きてるか」
あさひが低く言った。 こよいは頷こうとして、肩が震えて止まった。 着物が水を吸って重く、肌の上で冷えた布が擦れる。 脇と腰のあたりだけ冷えが強く、骨に触れるみたいに痛い。
歯が鳴りそうになるのを抑え、袖を絞ると、指の間から冷たい水が落ちた。 握る力を入れ直すたび、指先の感覚が遠のいていく。 久遠が荷から布を引き抜き、無言でこよいの肩へかける。 完全に乾いてはいない。
それでも、布の重みが背を押さえ、震えが少しだけ収まった。 こよいは浅い呼吸を一度長くし、喉の奥で熱を探す。 あさひは帯を解き、剣を抜いたまま布で柄と刃を拭いた。 濡れた金属の匂いが洞に薄く広がり、こよいはその匂いで、外の雨の鉄臭さを思い出す。
久遠は盤を出し、暗がりで針の揺れを確かめる。 金の針は落ち着かず、細かく震え続けていた。 洞の中にいるのに、雨の乱れがここまで染み込んでくる。 それが分かるだけで、背中が冷える。
洞の奥には、小さな石像があった。 鼻先は欠け、文字はない。 けれど、苔と煤の跡が残っていて、ここで誰かが火を守った気配がする。 こよいは足元の白い小石をひとつ拾い、冷たい硬さを掌で確かめてから、そっと像の前へ置いた。
両手を合わせると、指の泥が乾きかけてざらつき、そのざらつきが、まだ自分が戻ってこられる側にいることを教えた。
「撒けたか。……外、静かになったか」
あさひが入口の光を盗み見た。 外は白い雨の壁で、形がない。 遠くで、あの空洞な咆哮が低く響く。 洞の床を流れる細い水が、外の雨に合わせて増えたり引いたりして、こよいの足首を冷やした。
「一時だけだ」
久遠は盤を畳み、息を吐いた。 その息は白くならない。 洞の湿りが、吐いた熱をすぐ飲み込む。
「この山の理が、あいつのものになってる。……雨は目だ。外に出れば、一滴触れた瞬間に居場所を知られる」
あさひが舌打ちし、拳を岩へ当てた。 濡れた拳が石に滑り、いら立ちが余計に増す。
「斬っても戻る。水を斬ってるみたいだ。あんなの、どう相手しろってんだ」
こよいは巾着を抱え直し、指の間に結び目の硬さを感じた。 あの巨い影の胸に見えた黒い杭が、脳裏へ浮かぶ。 あれが縫い留めているのだ。
「……久遠くん。あれは、本当に雨の神様なの?」
久遠は少しだけ黙った。 答えを選ぶ沈黙ではなく、雨音の奥の何かを測る沈黙だ。 硝子の目が一度だけ瞬き、雨の向こうへ焦点を合わせ直す。
「名はそう残ってる。だが今のあれは、怒りだけを杭で留められてる。……他の声は押し潰されて、動けない」
「怒りだけ……」
「一点を留めれば、その一点が肥る。肥ったぶん、他が死ぬ。……だから、あれは怒りの器だ」
こよいは胸の奥が熱くなるのを感じた。 熱はすぐ冷えに負けて薄くなる。 それでも残る。 外で泣いていたものを、見捨てられない。
巾着の底で、月の神が静かに震えた。 硝子の冷えが布越しに伝わり、こよいの指先が少しだけ落ち着く。 冷たさは嫌な冷えじゃない。 火の熱とは別の、澄んだ冷えだ。
『……まだ、死んでいない』
『怒りの奥で、ほんとうのこころが……ないている』
その声は小さいのに、洞の滴りより確かだった。 こよいは息を吸い、吐いた。 吐いた息が唇を濡らし、冷たく戻る。
「ぼくが、その声を見つける」
あさひは一度だけ笑った。 短く、苦い笑いだ。
「やっぱりそう言うか。……なら、やるしかねえ」
久遠がチョークを取り出し、湿った土に線を引いた。 白い粉が滲み、線がすぐ薄くなる。 久遠は眉を寄せ、何度も描き直す。 指先が泥で汚れても気にしない。
線を引くたび、雨の音が一瞬遠のく気がして、こよいはそれが怖かった。 静かになるのは、息を止められる前触れに似ている。
「杭は胸の中心にあるはずだ。……あれを断てば、留めが緩む。理が戻れば、雨も戻る」
「近づけねえ」
「だから連携だ」
久遠は巾着を見た。 こよいは見返し、指で結び目を押さえる。 風は背へ触れる。 硝子は冷える。
月は胸の奥で静かに沈む。
「風で一筋の凪を作る。硝子で返す。月で一瞬、静けさへ引き戻す。その隙に、あさひが杭を断つ」
あさひが頷いた。 頷きの動きで、濡れた髪が額へ張りつく。 こよいはそれを見て、妙に落ち着いた。 動ける。
まだ手がある。
「夜明けまでここで休む。火は消すな。……冷えたら、指が動かなくなる」
あさひが枯れ枝を集め、火を小さく保った。 炎の色が洞の壁を赤く照らし、三人の影が揺れる。 滴りが火のそばで蒸気になり、白い息みたいに立ち上る。 こよいは掌をかざし、痺れていた指先に、痛いほどの熱が戻るのを耐えた。
熱が戻るほど、さっきまで見えなかった傷が見える。 掌の皮が少し剥け、岩のざらつきが残した細い線が赤い。 外の雨は止まらない。 けれど洞の中では、火のはぜる音と、水の落ちる音が、呼吸の間を埋めてくれる。
こよいは巾着を胸へ引き寄せ、冷えと温もりを同じ場所で抱えたまま、目を閉じた。 耳の奥では、遠い咆哮がまだ残っている。 それでも、いまは数を数える。 滴り、息、火。
小さい音だけを手のひらで集めるみたいにして、心をばらけさせない。 眠りは浅い。 けれど、明ける前に、少しでも息を貯める。 胸の灯が消えないように、喉へ残る鉄の味を唾で流し、もう一度だけ深く吸った。
