第079話 洞穴の作戦
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第079話 洞穴の作戦

第3章 印の輪郭

雨が、世界の音を太らせていた。  かさを叩く粒の重さが変わり、足元の泥が一歩ごとに深くなる。  草鞋わらじふちから泥水がにじみ上がり、指の間へぬるりと絡んだ。  こよいは息を吐くたび胸の奥が冷え、濡れたそでが腕に貼りつく感触に眉をしかめながら、あさひの背中だけを見失わないように走った。

吸い込む空気は湿って重く、喉を通ると鉄みたいな味が残る。  沢の音が近い。  雷の光が一瞬だけ木の幹を白くし、その刹那に見えた道は、もう道の形をしていなかった。  踏み出した足が沈み、抜くたび「ずぶ」と音がして、身体の遅れが生まれる。

「全力で走れ。止まったらみ込まれる」

あさひの声は短く、喉をこするようだった。  こよいは返事のかわりに、喉の奥で息を一度噛み、泥を蹴った。  草鞋わらじの裏が滑って、身体が横へ流れる。  踏み直した石の角が足裏に刺さり、痛みが遅れて熱に変わった。

背後で、地面が鳴った。  重いものが踏みつけるたび、腹の底が持ち上がる。  跳ねた泥水が背へ叩きつけられ、冷たい飛沫しぶきが首筋を走った。  振り返らなくても分かる。

あの眼が、雨の向こうでこちらを見ている。

「こっちだ。岩の裂け目に入る」

久遠くおんが岩壁を指さした。  そこは人ひとりがやっと通れる暗い割れ目で、内側から冷えが吹き出してくる。  三人は肩をすぼめ、互いの濡れた布が擦れる音を残しながら滑り込んだ。  岩が背と腕を削るように当たり、冷たいざらつきが皮膚へ残る。

こよいは巾着きんちゃくを胸へ寄せ、硬い結び目があばらのあたりに当たる痛みで、まだ自分の形が崩れていないのを確かめた。  次の瞬間、入口が水で洗われた。  濁流だくりゅうが岩肌を叩く音が洞の中で膨れ、白いきりが足元を舐めていく。  きりは肌にまとわりつき、唇に触れると土の味がした。

息を吸うと、土と石の匂いが喉へ沈み、湿りが肺の内側へ貼りつく。  外の雨はまだ怒っているのに、この中の滴りだけは妙に規則正しく、天井から落ちる水が「とん」と地面を叩くたび、時間が刻まれるみたいだった。  しずくが首筋へ落ちるたび、背中の筋がびくりと縮む。  暗いのに、耳だけが勝手に働いて、遠い咆哮ほうこうと近い滴りを分けてしまう。

「……生きてるか」

あさひが低く言った。  こよいは頷こうとして、肩が震えて止まった。  着物が水を吸って重く、肌の上で冷えた布が擦れる。  脇と腰のあたりだけ冷えが強く、骨に触れるみたいに痛い。

歯が鳴りそうになるのを抑え、そでを絞ると、指の間から冷たい水が落ちた。  握る力を入れ直すたび、指先の感覚が遠のいていく。  久遠くおんが荷から布を引き抜き、無言でこよいの肩へかける。  完全に乾いてはいない。

それでも、布の重みが背を押さえ、震えが少しだけ収まった。  こよいは浅い呼吸を一度長くし、喉の奥で熱を探す。  あさひは帯を解き、剣を抜いたまま布でつかと刃を拭いた。  濡れた金属の匂いが洞に薄く広がり、こよいはその匂いで、外の雨の鉄臭さを思い出す。

久遠くおんは盤を出し、暗がりで針の揺れを確かめる。  金の針は落ち着かず、細かく震え続けていた。  洞の中にいるのに、雨の乱れがここまで染み込んでくる。  それが分かるだけで、背中が冷える。

洞の奥には、小さな石像があった。  鼻先は欠け、文字はない。  けれど、こけすすの跡が残っていて、ここで誰かが火を守った気配がする。  こよいは足元の白い小石をひとつ拾い、冷たい硬さをてのひらで確かめてから、そっと像の前へ置いた。

両手を合わせると、指の泥が乾きかけてざらつき、そのざらつきが、まだ自分が戻ってこられる側にいることを教えた。

けたか。……外、静かになったか」

あさひが入口の光を盗み見た。  外は白い雨の壁で、形がない。  遠くで、あの空洞くうどう咆哮ほうこうが低く響く。  洞の床を流れる細い水が、外の雨に合わせて増えたり引いたりして、こよいの足首を冷やした。

「一時だけだ」

久遠くおんは盤を畳み、息を吐いた。  その息は白くならない。  洞の湿りが、吐いた熱をすぐ飲み込む。

「この山のことわりが、あいつのものになってる。……雨は目だ。外に出れば、一滴触れた瞬間に居場所を知られる」

あさひが舌打ちし、拳を岩へ当てた。  濡れた拳が石に滑り、いら立ちが余計に増す。

「斬っても戻る。水を斬ってるみたいだ。あんなの、どう相手しろってんだ」

こよいは巾着きんちゃくを抱え直し、指の間に結び目の硬さを感じた。  あの巨い影の胸に見えた黒いくいが、脳裏へ浮かぶ。  あれが縫い留めているのだ。

「……久遠くおんくん。あれは、本当に雨の神様なの?」

久遠くおんは少しだけ黙った。  答えを選ぶ沈黙ではなく、雨音の奥の何かを測る沈黙だ。  硝子ガラスの目が一度だけまばたき、雨の向こうへ焦点を合わせ直す。

「名はそう残ってる。だが今のあれは、怒りだけをくいで留められてる。……他の声は押し潰されて、動けない」

「怒りだけ……」

「一点を留めれば、その一点がふとる。ふとったぶん、他が死ぬ。……だから、あれは怒りの器だ」

こよいは胸の奥が熱くなるのを感じた。  熱はすぐ冷えに負けて薄くなる。  それでも残る。  外で泣いていたものを、見捨てられない。

巾着きんちゃくの底で、月の神が静かに震えた。  硝子ガラスの冷えが布越しに伝わり、こよいの指先が少しだけ落ち着く。  冷たさは嫌な冷えじゃない。  火の熱とは別の、澄んだ冷えだ。

『……まだ、死んでいない』

『怒りの奥で、ほんとうのこころが……ないている』

その声は小さいのに、洞の滴りより確かだった。  こよいは息を吸い、吐いた。  吐いた息が唇を濡らし、冷たく戻る。

「ぼくが、その声を見つける」

あさひは一度だけ笑った。  短く、苦い笑いだ。

「やっぱりそう言うか。……なら、やるしかねえ」

久遠くおんがチョークを取り出し、湿った土に線を引いた。  白い粉がにじみ、線がすぐ薄くなる。  久遠くおんは眉を寄せ、何度も描き直す。  指先が泥で汚れても気にしない。

線を引くたび、雨の音が一瞬遠のく気がして、こよいはそれが怖かった。  静かになるのは、息を止められる前触れに似ている。

くいは胸の中心にあるはずだ。……あれを断てば、留めが緩む。ことわりが戻れば、雨も戻る」

「近づけねえ」

「だから連携だ」

久遠くおん巾着きんちゃくを見た。  こよいは見返し、指で結び目を押さえる。  風は背へ触れる。  硝子ガラスは冷える。

月は胸の奥で静かに沈む。

「風で一筋のなぎを作る。硝子びいどろで返す。月で一瞬、静けさへ引き戻す。その隙に、あさひがくいを断つ」

あさひが頷いた。  頷きの動きで、濡れた髪が額へ張りつく。  こよいはそれを見て、妙に落ち着いた。  動ける。

まだ手がある。

「夜明けまでここで休む。火は消すな。……冷えたら、指が動かなくなる」

あさひが枯れ枝を集め、火を小さく保った。  炎の色が洞の壁を赤く照らし、三人の影が揺れる。  滴りが火のそばで蒸気になり、白い息みたいに立ち上る。  こよいはてのひらをかざし、しびれていた指先に、痛いほどの熱が戻るのを耐えた。

熱が戻るほど、さっきまで見えなかった傷が見える。  てのひらの皮が少しけ、岩のざらつきが残した細い線が赤い。  外の雨は止まらない。  けれど洞の中では、火のはぜる音と、水の落ちる音が、呼吸の間を埋めてくれる。

こよいは巾着きんちゃくを胸へ引き寄せ、冷えと温もりを同じ場所で抱えたまま、目を閉じた。  耳の奥では、遠い咆哮ほうこうがまだ残っている。  それでも、いまは数を数える。  滴り、息、火。

小さい音だけを手のひらで集めるみたいにして、心をばらけさせない。  眠りは浅い。  けれど、明ける前に、少しでも息を貯める。  胸のともしびが消えないように、喉へ残る鉄の味を唾で流し、もう一度だけ深く吸った。

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