足音は、村が見えた瞬間に消えた。
夕暮れの山道をずっと歩いていた。後ろからついてくる足音に慣れていた。落ち葉を踏む規則正しいリズム。距離は変わらない。ただ、ずっとそこにいた。 振り返る。誰もいない。それは、ずっとそうだった。 けれど、今度は、足音すらない。 風の音と、自分の息だけが、耳に残っている。
前を向くと、木々の間に明かりが見えた。 家だ。 複数の家。煙突から煙が立ち上り、窓に灯りがともっている。 村だった。
「……ひと、いる」
巾着の中から、空き地の神の声。
「……あったかい」
祠の神の声が続く。
村の入口には、木製の門が立っていた。鳥居に似た形。その横に、看板がある。
「峠の宿」。
宿があるなら、泊まれる。屋根の下で眠れる。 足が、自然と早くなった。
村に入ると、石畳の道が続いていた。 両側に茅葺き屋根の家が並んでいる。窓から明かりが漏れ、夕餉の匂いが漂ってくる。味噌と、焼き魚と、炊きたての米の匂い。 腹が鳴った。昼から、干し餅を一つ食べただけだ。
広場に出ると、井戸があった。その脇に、女が立っていた。 五十過ぎの、小柄な女。藍染めの前掛け《まえかけ》をして、手拭いを頭に巻いている。桶の水を、杓で掬っている最中だった。 女は、こよいを見た。 一瞬、目が止まる。何かを確かめるような視線。 けれど、すぐに表情を崩した。
「旅の子かい」
しわがれた、けれど温かい声。
「泊まるなら、うちにおいで。峠の宿だよ」
宿屋は、二階建ての古い建物だった。 土間を上がると、囲炉裏の火が赤く燃えている。女将が茶を淹れてくれた。温かい。指先から、冷えが溶けていく。
「一人かい」
「……はい」
「どこから来た」
「……霧原町」
女将の手が、一瞬止まった。けれど、何も聞かなかった。
夕食は、食堂で取った。 味噌汁と、焼き魚と、漬物と、温かい飯。久しぶりの、ちゃんとした食事だった。 他に客はいなかった。村人が数人、食事をしていた。こよいをちらりと見るが、話しかけてはこない。
「あんた、境に行くのかい」
隣の卓にいた老人が、不意に声をかけてきた。
「……はい」
「そうかい」
老人は、それだけ言って、自分の飯に戻った。
部屋は、二階の六畳間だった。 古いが、清潔な畳。押し入れから布団を出して敷く。薄い綿布団だが、昨夜の草の上よりずっといい。 窓から、村の明かりが見える。 巾着を、枕元に置いた。
「……やすめる」
「……うん」
神々の声は、穏やかだった。 こよいは、目を閉じた。
朝、目が覚めたとき、最初に感じたのは静けさだった。
静かすぎる。 鶏の声がない。人の話し声がない。足音がない。 障子を開けると、朝日が差し込んでいた。いつもの朝だ。 けれど、何かがおかしい。
廊下に出た。誰もいない。
「すみません」
声をかける。返事がない。 階段を降りる。帳場に誰もいない。囲炉裏の火は消えている。灰だけが、冷たく残っている。
「……いない」
巾着が、急に重くなった。
「……きえた」
祠の神の声が震えている。
外に出た。 広場に誰もいない。井戸の釣瓶が、途中で止まっている。誰かが水を汲もうとして、途中でやめた。 道端に、草履が片方だけ落ちていた。 民家の戸が、開きっぱなしになっている。
食堂に走った。 暖簾をくぐる。 卓の上に、朝餉が並んでいた。
食べかけの飯。箸が置いてある。 味噌汁が、まだ湯気を立てている。 茶が、まだ温かい。 漬物が、一切れ齧ったまま、皿の上に残っている。
竈を見た。火が、まだ燃えている。薪がくべられたばかりだ。飯釜の蓋が開いて、湯気が立っている。
ついさっきまで、誰かがいた。 ついさっきまで、朝食を食べていた。 それなのに、誰もいない。 いや、気配はある。誰かが座っているような、空気の歪みがある。 目に見えない何かが、そこで食事を続けているような感覚。
「……にげて」
巾着の中から、空き地の神の声。
「……はやく」
祠の神の声が続く。急いでいる。
何かがいる。 見えない。けれど、いる。 空気が重い。息苦しい。背中に、視線を感じる。
こよいは、走り出した。
広場を駆け抜ける。西口の門が見える。あそこを抜ければ、山道に出られる。 足が、もつれそうになる。転びそうになる。 振り返らない。振り返ったら、何かが見えてしまいそうで。
門をくぐった。 石畳が終わり、土の道になる。 上り坂。息が切れる。足が重い。けれど、止まらない。背中の視線が、肌に張り付いている。
百歩、二百歩。 村から離れる。 竹笹の音だけが、風に鳴っていた。 背後の気配は、もう感じない。
ようやく、足を止めた。 肩で息をしながら、振り返る。
村が、霧に沈んでいた。
白い靄が、村の中心から広がっている。茅葺き屋根が、ゆっくりと白に飲まれていく。井戸が見えなくなる。宿屋の二階が、霧の中に消えていく。 昨夜、温かく迎えてくれた村が。 女将の声が。老人の言葉が。囲炉裏の火が。 全部、白に溶けていく。
カチン。
金属的な音が、遠くで響いた。 聞いたことのある音だ。 霧原町が沈んだとき、同じ音がした。
「……おわった」
巾着の中から、祠の神の声。
「……また」
空き地の神の声が続く。
「……はかられた」
測られた。 村が、測定されて、固定された。 霧原町と同じだ。
村は、もう動かない。 白い霧の下で、永遠に朝食を食べ続けている。食べ終わることなく。立ち上がることなく。
こよいは、前を向いた。 涙が、頬を伝っていた。 いつ泣き始めたのか、分からない。
「……いかないと」
声が震えた。喉の奥が、熱かった。
「……うん」
「……いかないと」
神々の声が、小さく応える。
山道を、歩き始めた。 背後で、霧に沈んだ村が、朝日に照らされて光っている。 白く、冷たく、動かない光。 振り返らなかった。 ただ、歩いた。道が山道から尾根道へと変わっていく。風が強くなり、木々がまばらになっていく。足の裏に石の感触が増す。 昼前には、もう村の匂いはしなかった。
