第078話 雨の巨人
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第078話 雨の巨人

第3章 印の輪郭

月見台(つきみだい)を離れてから、空は一度も少しもほどけなかった。  雲は低く張りつき、湿りが肌の上に薄い膜を作る。  歩くほど袖口が冷え、笠(かさ)の内側に溜まった息がぬるく戻ってきた。  土の匂いに混じって、鉄の錆(さび)みたいな臭いがする。

雨の前の匂いのはずなのに、どこか焦げた渋さが舌に残り、喉の奥が乾いているのか濡れているのか分からなくなる。  沢は昨日より膨らみ、石の間を白く泡立てて走っていた。  水が石を叩く音が、腹の底へ遅れて響く。  こよいは裾(すそ)をたくし、足裏で石の滑りを確かめながら、一歩ごとに重心を置き直す。

濡れた草鞋(わらじ)が皮膚に吸いつき、足首の骨に擦れるたび、じわりと痛む。  足先が冷え、爪が薄く痺(しび)れた。  あさひが前で足を止めた。  雨の前の風が、枝の隙間をえぐるように鳴る。

こよいはその音の残りを耳の奥で拾いながら、巾着(きんちゃく)へ指を添えた。  布の結び目が冷たく硬く、指先が少し痺(しび)れる。  まだ降っていないのに、肩口だけが先に濡れた気がして、こよいは襟(えり)を寄せた。

「……来るな。この風、ただの嵐じゃねえ」

言い終えたあさひの喉が、短く鳴った。  息を呑んだのが分かる。  こよいの頬を伝うのは雨じゃなく汗で、冷えがそこへ追いつく前に拭う余裕がない。  こよいは頷くかわりに、口を結び直し、胸の奥の灯を一度だけ押さえた。

ぽつり、と鼻先に落ちた雫(しずく)が、針みたいに冷たかった。  次の瞬間、雨は音に変わった。  笠(かさ)を叩く粒が一斉に増え、地面で弾ける泥の匂いが濃くなる。  袖(そで)はすぐに重くなり、裾(すそ)から吸った水が腿(もも)を冷やす。

足を置いたところから泥水が滲(にじ)み上がり、草鞋(わらじ)の縁へぬるりとまとわりついた。  沢の音も太くなって、近いところで石が転がった。  音が転がるたび、足裏の芯が揺さぶられる。  足元の地面が、柔らかく沈む。

「急ぐぞ。地盤が緩む前に岩へ出る」

あさひは振り返らずに言い、踏む場所だけを選んで上へ上へと導いた。  こよいは背中を見失わないよう目を細め、呼吸を短く区切って追う。  滑った足が一度だけ横へ流れ、慌てて木の幹に手をついた。  濡れた樹皮はざらつき、冷たさが掌(てのひら)に刺さる。

雨が頬を叩くたび、顔の熱が奪われる。  握った巾着(きんちゃく)の中で、三つの気配が擦れ合って小さく鳴った。  久遠(くおん)は最後尾で、外套(がいとう)の裾(すそ)を風に叩かれながらも歩調を落とさない。  濡れた髪が額へ貼りついても払わず、ただ視線だけを動かす。

左目の硝子(ガラス)が雨粒の光を拾って、ひやりと青く瞬いた。  鼻を鳴らし、吐く息を細くする。  ぬかるみに足を取られないよう、歩幅だけが妙に正確だった。

「雨の匂いじゃない。……理(ことわり)が腐ってる」

言葉が冷たく落ちた。  こよいは思わず舌先で空気を確かめる。  確かに、口の中に鉄の味が残る。  あさひが歯を噛み、濡れた柄(つか)を握り直した。

滑りを嫌って、指を食い込ませる。

「観測者(かんそくしゃ)の仕業か」

「だろうな。雨で足を止めて、ひとつ所に追い込む」

「雨まで弄(もてあそ)ぶのかよ」

三つの声が雨音に削られ、こよいの耳には断片として届く。  こよいは返事をせず、代わりにあさひの柄(つか)を自分の袖(そで)で拭った。  濡れた布が冷たい木に貼りつき、指先の感覚が鈍い。  拭うたび袖(そで)の水が掌(てのひら)へ戻ってきて、皮膚の温度を持っていく。

それでも、滑りが少しだけ消えた。  巾着(きんちゃく)の奥で、月の神が震えていた。  怖(おそ)れている震えというより、何かを聞き取ろうとして、割れる寸前の硝子(ガラス)みたいに細かく揺れている。  揺れは布越しにこよいの胸へ伝わり、鼓動の間に、もう一つ細い拍が混じるようだった。

『……なみだ。これは、なみだ……』

『だれかが、まだ、泣いているの』

『……みずが、にげようとしてる。ここは、こわい』

こよいは喉の奥で息を整え、雨に負けない声量だけを残した。

「この山に、まだ神様がいるの?」

風の神が巾着(きんちゃく)の中で「ヒュウ」と強く回った。  雨が横から叩き、風が急に向きを変える。  笠(かさ)の縁が引っ張られ、首筋がひやりと晒(さら)される。  山の理(ことわり)が、誰かに掴(つか)まれて振り回されているみたいだ。

こよいは胸の灯が一度、熱く脈打つのを感じた。  熱はすぐ冷えに負けて薄くなる。  それでも消えない。  冷えた指が震えても、巾着(きんちゃく)から離さない。

『あめ、じゃない。……これは、いかり』

『むりやり、ふらされているの。そらが、身を削って……』

言葉が終わるより早く、足元の水が不自然にざわついた。  沢の流れが一瞬だけ躊躇(ためら)い、次に逆巻くように音を立てる。  地中で何かが岩を転がす音がする。  こよいは立ち止まり、耳を澄ませる。

雨音の奥に、別の規則が混じった。  重く、遅い。  大地を踏むたび、腹の底が揺れる。  揺れに合わせて、巾着(きんちゃく)の中の三つが同じ瞬間に黙り、次の瞬間にざわっと息をした。

「……あさひ、久遠(くおん)くん。止まって」

あさひが振り返る。  眉間の皺(しわ)に雨が溜(た)まり、指で払っても追いつかない。

「どうした。今止まったら滑るぞ」

こよいは唇を噛んだ。  冷えで歯が鳴りそうになるのを抑え、前を指さす。

「前から……大きいのが、来てる」

久遠(くおん)が盤を取り出し、雨空へ掲げた。  盤の金の針は定まらず、狂ったように震える。  久遠(くおん)の呼吸が一拍だけ乱れ、すぐ戻る。

「反応が多すぎる。……空間ごと、ひとつの神性にされてる」

白い雨の壁の向こうで、山の一部が動いた。  輪郭(りんかく)は霧みたいに曖昧(あいまい)なのに、中心にだけ、ひとつの眼がはっきり光っている。  眼は瞬(まばた)きもしない。  見られている、という感触が皮膚の上を撫で、背中の汗が冷えていく。

眼の周りに黒いひび割れが走り、そこから濁った水が糸になって落ちる。  落ちた水は地面へ吸い込まれず、逆に空へ引かれるみたいに舞い戻って、影の周りへまとわりついた。  水が集まって、形を無理やり保っている。  雨粒が吸い寄せられるたび、空気が薄くなる気がした。

匂いは泥よりも、濡れた鉄と焦げに近い。  胸を吸うと、肺がきしむ。  こよいは唇の内側を噛んで、震えを止めた。  あさひが剣を抜いた。

鞘(さや)から離れた刃が雨を切り、鍔(つば)の冷えが一瞬、金属の匂いを強くした。

「観測者(かんそくしゃ)の泥人形(どろにんぎょう)か。……それとも神を捏(ね)ねたか」

月の神が、震えながら違うと言った。

『……ちがう。あれは、あめのかみ』

『この山を守っていた子の……なれの果て』

落雷(らくらい)が空を白く裂いた。  光の刹那(せつな)、影の胸のあたりに、黒い杭(くい)が一本だけ見えた。  杭(くい)は雨より黒く、周りの光を吸い込むみたいで、見た瞬間に目の奥が痛む。  あれが固定(こてい)の楔(くさび)だ、とこよいは腹で分かった。

思い出すのは、苔(こけ)だらけの空き祠(ほこら)の冷えだ。  呼ばれなくなれば消える。  その前に、呼び直さなければならない。  水の巨人は一歩踏むたび、沢の水を引き寄せる。

雨粒まで腕へ吸い寄せられ、鎧(よろい)みたいに重なる。  近づくだけで息が詰まり、空気が濁る。  こよいの膝(ひざ)が笑いかけたが、巾着(きんちゃく)の中の風がひとつ鳴き、月が冷え、硝子(びいどろ)が小さく応えた。  その三つの気配が背中を押す。

こよいは紐(ひも)に指をかけた。  濡れた結び目は滑り、指先は冷えで思うように動かない。  爪で結び目の段差を探し、布の湿りを噛むように引く。  痛みが指へ走って、逆に感覚が戻る。

冷えた雨が睫毛(まつげ)を重くし、視界は白いのに、眼だけが濃い。  巾着(きんちゃく)の底で硝子(びいどろ)の神が、雨の巨い呼吸を数えるみたいに小さく鳴いた。  月の冷えが掌(てのひら)へ流れ、風が背中へ触れた。  あさひの足が半歩前に出て、盾になるように位置を変える。

久遠(くおん)は盤を懐へ戻し、硝子(ガラス)の目だけで距離を測った。  それでも、視線だけは巨人の眼から離さない。  呼吸は荒い。  胸の灯(ともしび)は小さい。

けれど、消えない。

「助けよう。……あの神様を、このままにしない」

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