山頂の広場に、音が戻ってきた。 赤い柱が消えたあとの空は思ったより暗く、月明かりが石畳を薄く白くしている。 耳の奥ではまだ小さな耳鳴りが残っていて、静かなぶん、それが余計に目立った。 焦げた匂いがまだ鼻に残り、風が遅れて吹いて、煤と湿った土の匂いを混ぜて下へ運んだ。
髪に落ちた灰が指先にざらりと触れ、払うと冷たい粒が夜へ散る。 どこかで小石が転がり、音が一度だけ跳ねて消えた。 こよいは息を吐いた。 吐いた白い息が、すぐ夜へ薄く散っていく。
胸の灯が小さく揺れて、それでも消えなかった。
「……本当に、終わったんだね」
膝が笑って、その場にへたり込んだ。 土の冷たさが布越しに膝へしみて、遅れて指先が痛む。 口の中に焦げの粉が残っていて、唾を飲むと喉がひりついた。 掌の中のビードロは、さっきまでの熱が嘘みたいに消えて、ただの硝子の硬さだけが残っている。
こよいはその丸みを確かめるように握り直し、巾着へ入れた。 結び目を引く指が小さく震えて、紐がきし、と鳴った気がした。
「大丈夫か、こよい」
あさひの声が近い。 肩に置かれた手は温かく、剣を握っていた硬さがそのまま残っていた。 血の匂いも混じっていて、戦いが終わったことを逆に思い出させる。 袖口が湿っていて、触れたところだけ冷える。
「……うん。立てる。ちょっと、腰が抜けただけ」
言いながら、息が震えた。 こよいは呼吸を整えようとして、喉の奥の乾きに気づく。 舌先が冷えて、言葉がひっかかる。 足先の感覚が鈍くて、わらじの中の小石がどこにあるのかも分からない。
目の前に、銀の光が浮いていた。 月の神だ。 球の輪郭は澄んでいて、近づくほど冷たい。 けれど中心には、火種みたいな小さな熱がある。
こよいが指先を伸ばすと、月の神は自分から寄ってきて、手のひらに触れた。 表面は硝子みたいに滑らかで、冷たいのに濡れない。 ひんやりした温度が皮膚を鎮め、同時に胸の灯が静かに脈打った。
『……ありがとう』
『……こわかった。あかいひかりが、わたしを削っていた』
「もう、大丈夫だよ」
こよいは月の神へ視線を置いたまま、短く息を吸った。 泣きそうになるのを喉の奥で押さえ、言葉を落とす。
「ここには、もう檻はない」
久遠が後ろで鼻を鳴らした。 星読みの盤を懐にしまい込み、指先で縁を一度だけ叩く。 その音は小さいのに、静かな山頂ではやけに響いた。 左目の硝子が月光を拾って一瞬光り、久遠はそれを隠すみたいに瞬きをした。
「礼はいらねえよ。俺はただ、あいつらの記録を汚したかっただけだ」
あさひが笑う気配がした。 笑いながらも、息が少し苦しそうだ。
「素直じゃない。……助かったのは事実だろ」
久遠は返事をしない。 けれど横顔の棘は、少しだけ丸くなっている。 こよいはそれを見て、巾着を握った。 布の中で、風の神が小さく回る気配がした。
「……神様。これから、どうしたい?」
月の神は迷わなかった。 冷たい光が、こよいの指をそっと撫でる。
『……いく。あなたたちと』
『……ここは、傷が深い。わたしの光だけじゃ、守れない』
『……また、くる。かんそくしゃは、きっと』
『……だから、あなたの道の光になりたい』
巾着が淡く光った。 風の神と、ビードロが、同じ場所で息を合わせるように鳴る。
『……おいで』
『……いっしょに』
「分かった。一緒に行こう」
こよいは巾着の口を開いた。 指先に触れる紐は冷たく、結び目の硬さが旅の癖になっている。 月の神はふわりと浮き、吸い込まれるみたいに巾着の暗がりへ消えた。 中が一瞬だけ銀に満ちて、それから静かな温度へ落ち着いた。
腰に、新しい重みが増える。 ずしり、と確かな重さ。 けれど足を止める重さじゃない。 むしろ背骨のあたりが支えられるみたいで、呼吸が少しだけ楽になった。
「……夜が明ける。今のうちに離れよう」
あさひが東の空を見て言った。 黒の端が薄くなり、冷たい風の匂いが変わり始めている。 久遠も短く頷いた。
「賛成だ。もうこの山に、俺の用はない」
下り道は硬かった。 石が足裏へ噛み、足裏がじんと痛む。 砕けた小枝が踏まれて乾いた音を立て、風がその音をすぐ奪っていく。 肩の力が抜けた途端、背中が重くなって、息が浅くなるのが分かった。
途中で湧き水をすくい、手と顔を洗った。 水は氷みたいに冷たく、指が一瞬痺れる。 その冷たさが、頭をはっきりさせた。 遠くで夜鳥が一度だけ鳴いて、森がまだ眠っていることを教える。
町へ戻るころ、空が薄く染まった。 一番鶏の声が遠くで響き、眠っていた家の匂いが少しずつ立ち上がる。 焚き木の残り香と、土の湿りと、人の気配の匂い。 こよいは深く息を吐き、巾着を抱え直した。
布越しに月の神の冷えがあり、風の神の軽さがあり、硝子の硬さがある。 三つの違う重みが、ひとつの腰の位置で揃っていた。 宿の引き戸を押すと、板が小さく鳴った。 指先に木のささくれの感触が残る。
女将が顔を上げる。 目の下に疲れがあるのに、声は震えた。
「……ああ。無事で、よかった」
こよいは頷いた。 言葉にすると崩れそうで、ただ呼吸だけが熱い。 女将の手が一度だけ宙で迷って、それからこよいの肩のあたりへ触れかけ、そっと引っ込んだ。 台所の方から湯が沸く音がして、湿った木の匂いがふっと混じる。
あさひは無言で肩の布を締め直し、久遠は行灯の火を小さく落として、影を薄くした。 畳へ座ると、冷たさが背中に回った。 湿った畳の匂いがして、ようやく安心が来る。 こよいは巾着を膝へ置き、指先で口を撫でる。
月の神の温度が、布越しに静かに伝わってくる。
「……もう、大丈夫だよ。ゆっくり休んでね」
巾着の底で、風が小さく鳴いた。 硝子がかすかに返事をした気がした。 月の神の呼吸が、それに重なる。 こよいは目を閉じた。
息を吐くたび、体の芯の硬さがほどけていく。 まぶたの裏に、銀の月がゆっくり浮かび、赤い色の残りが潮の引くみたいに薄くなっていった。 隣の部屋では、久遠がまだ起きている気配がした。 盤に触れる指先の音が、時々、畳を通して薄く聞こえる。
迷いを噛みしめる音。 こよいはそれを聞きながら、眠りの底へ沈んだ。 朝。 格子窓から淡い光が差し、空は薄い青だった。
身体の節々が重く、起き上がると畳が軋む音がした。 伸ばした腕の内側がつっぱり、昨日の熱が抜けていくのが分かる。 鳥が二度鳴き、町が起きる音が遠くで混ざる。 こよいは巾着に手を当てた。
冷たい。 確かに、そこにある。
「……一緒に行こう。新しい世界を見に」
廊下に出ると、あさひと久遠の足音が交差し、荷をまとめる音がしていた。 木の板がきしみ、紐が擦れる音が朝の静けさを塗り替える。 こよいは胸の灯へ手を当て、揺れを整える。 戸を開けると、朝の空気が頬を撫でた。
霧の匂いに、炊き出しの湯気の匂いが混じる。 冷えた空気を吸って、吐く。 息が白くなる。 頬の皮膚がきゅっと縮むのに、胸の灯は温かいままだ。
あさひが近づき、短く言った。
「……行こう。道が待ってる」
久遠は無言で頷き、こよいも頷いた。 巾着の重みを握り直し、石畳へ一歩を刻む。 石は夜の冷えをまだ溜めていて、足の骨へ冷たさが上ってくる。 遠くで桶を置く音、店の戸を開ける音、人の朝の声が重なり、町が生きているのが分かった。
冷たい朝の中に、胸の奥の熱が小さく残っている。 それだけで、歩けた。 巾着の奥で、月の呼吸が耳の奥で鈴みたいに静かに続いた。
