第075話 月の解放
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第075話 月の解放

第3章 印の輪郭

閃光(せんこう)。  世界が白に呑まれた。耳が痺(しび)れ、焦げた金属の匂いが肺を満たす。  こよいは息を吐き切り、足元の感覚が一瞬消えた。

掌(てのひら)の中で、ビードロが限界を超えた熱を放ち続けている。指先が焼ける。それでも離さなかった。

銀色の光が一本、赤い結界(けっかい)の頂点に楔(くさび)のように突き刺さった。  結界(けっかい)の表面が歪(ゆが)み、術式の幾何学(きかがく)の線が浮き上がっては崩壊していく。  空気がぱちぱちと鳴り、檻(おり)の奥から月の神の細い息遣いが聞こえた。

「何っ……!? 馬鹿な、計算が……すべての数値が、反転しているだと……?」

黒い狩衣(かりぎぬ)の男が、初めて声を裏返した。

「記録にない変動だ! 観測不能のエネルギーが、術式の回路を逆行しているぞ!」

杖が振り上げられ、黒い鈴が甲高く鳴る。だがその音は、崩壊する結界(けっかい)の軋(きし)みに呑み込まれた。  男の周囲に展開されていた防御の術式が火花を散らし、一枚、また一枚と剥(は)がれ落ちていく。

「管理下に置いた神の力を……逆流させているのか!?」

久遠(くおん)が、血の味のする口で短く笑った。

「当たり前だ。歪(ゆが)めた分だけ、そのまま叩き返してやる」

久遠(くおん)の左目が青く燃え、星読みの盤の針が狂ったように回り始めた。  盤の歯車が噛み合う音が甲高く鳴り、久遠(くおん)の鼻から一筋の血が垂れた。義眼(ぎがん)を酷使した代償だ。それでも指先は止まらなかった。  バヂヂヂヂッ。  赤い結界(けっかい)の表面に、蜘蛛(くも)の巣のような亀裂が走った。  割れ目から過剰な熱が噴き出し、足元の草が一瞬で灰になる。こよいの草鞋(わらじ)の底が焦げ、鉄の匂いが鼻を衝(つ)いた。

「臨界点(りんかいてん)だ! 退避しろ!」

あさひが叫んだ。面の男たちがたじろぐ。  熱風がこよいの頬を焼き、視界が赤く歪んだ。膝が笑っている。倒れそうだった。  そのとき、天の頂から澄み切った声が落ちてきた。

『……わたしは、確かに、ここにいる』

『……管理される名のない光なんかじゃない。わたしは、世界を照らす月そのもの』

檻(おり)の中の光の球体が、本来の輝きを取り戻し始めた。  濁っていた光が透き通り、真珠のような高貴さが戻る。月の拍動が正しいリズムを刻むたびに、こよいの胸の灯(ともしび)も温かく返った。

「こよい! 無事か!」

あさひの声が掠(かす)れている。肩の傷から血が滴り、柄(つか)を握る手が赤く染まっていた。  それでも剣は振るわれ続けた。片膝をつきながら、なお三体の泥人形を薙(な)ぎ払う。

「今だ! 檻(おり)を断ち切れ!」

あさひが最後の泥人形を蹴散らし、こよいへの道を開けた。

「……うん。もう、大丈夫だよ」

こよいはビードロを掲げ、結界(けっかい)の裂け目に向けた。

『……もっと、つよく。おもいを、わたしに預けて』

月の神の光がビードロに繋がった。

「この檻(おり)を壊して。月の神様を、外へ!」

パリン、と透明な音が響いた。  結界(けっかい)の骨格が折れた音だ。衝撃波(しょうげきは)がこよいの身体を弾き、地面に叩きつけた。  土の冷たさが頬に触れる。痛い。けれど、この痛みは勝利の痛みだ。

砕けた赤い光の破片が降り注ぎ、すぐに白い煙となって消えた。  崩壊した結界(けっかい)の向こうから、銀色の月光が堰(せき)を切って溢れ出す。  その光が、こよいの火傷した肌を冷やすように撫でた。氷のように冷たいのに、痛くない。清らかで、慈愛に満ちていた。

「うあ……光が……目が、洗われるみたいだ……!」

涙が一滴、こぼれ落ちた。  面の男たちが月光を浴び、輪郭(りんかく)から崩れていく。砂のように静かに散り、白い面だけが地面に転がった。

隊長格の男の影が揺らいだ。

「……我らの観測記録が……塵(ちり)に還るというのか……」

その声は形を成す前に消えた。白い面が一つ、乾いた音を立てて地に落ち、ひびが入って二つに割れた。  山頂(さんちょう)に静寂が戻った。

止まっていた風が動き出す。焦げた匂いに代わって、夜露(よつゆ)に濡れた木の葉の匂いが混じり始めた。  森の奥で、一羽の鳥が澄んだ声で鳴いた。  祭壇(さいだん)の上に、柔らかな光の球体がふわりと浮かんでいた。月の神だ。  球体はゆっくりとこよいの元へ近づき、傷ついた手の甲にそっと触れた。冷たい。けれどその冷たさが、火傷の痛みを静かに鎮めてくれる。  光は躊躇(ためら)わず、傷口に沿うように沈み込んだ。まるでこちらを選んだと言いたげに。

「……終わったんだね」

こよいはその場にへたり込んだ。腕が震え、膝が笑い、身体中の力が一度に抜けていく。  ビードロは熱を失い、静かな硝子(びいどろ)の球体に戻っていた。表面に細い傷が一筋走っている。限界まで戦った証だ。こよいはそれを丁寧に巾着(きんちゃく)へ戻した。

「ありがとう、ビードロ」

返事はない。けれど巾着(きんちゃく)の底で、硝子(びいどろ)がカチリと小さく鳴った。

あさひが剣を鞘(さや)に納めた。カチリという音が、勝利の幕引きを告げる。  立ったまま肩で荒い息をしている。傷口の血はまだ止まっていなかったが、口元だけが笑っていた。  久遠(くおん)は盤を胸に抱え、重い息を吐いた。鼻血の跡を袖で雑に拭い、何事もなかったように目を閉じた。  こよいは久遠(くおん)の横顔を見た。義眼(ぎがん)の奥で、暴れ続けていた計算の光が静かに収まっている。

こよいは空を見上げた。  赤い呪いは消えていた。銀の満月が、静かに輝いている。

「……救えたんだね。月の神様を」

堪えていた涙が落ちた。月の神がこよいの頬にそっと寄り添い、慈しむように触れた。

「一緒に行こう、月の神様。ぼくの巾着(きんちゃく)の中へ」

「もう、誰にも奪わせない。約束するよ」

久遠(くおん)が鼻で息を吐いた。

「……勝手に仲間にするなよ。運び屋(はこびや)なんて割に合わない商売だ」

口調は辛辣(しんらつ)だったが、硝子(ガラス)の左目の光は柔らかかった。  あさひは短く笑い、肩の止血布を締め直した。

月光が傷ついた山肌に広がり、焼かれた土を冷やしていく。森の奥で、生き物たちの気配が戻り始めた。  こよいは巾着(きんちゃく)をそっと押さえた。新たに宿った月の神の重みが、指先に伝わる。

こよいは立ち上がった。身体はまだ震えている。  それでも、歩みはもう止まらなかった。

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