山道は、昨日よりも険しい空気を纏っていた。 道なき道を、久遠の先導で進む。 表の参道には、見張りが立っているからだ。 昨日の衝撃で倒れた枝が折り重なり、踏むたびに濡れた土の匂いが立つ。
夜気は冷たく、息が白くなる。 赤い月の光だけが、木々の影を鋭く切り取っていた。
「ここからは、音を立てるな」
久遠が囁いた。
「奴らは音に敏感だ。……結界の影響で、視覚よりも聴覚に頼っている可能性がある」
久遠の言葉に、こよいは喉を鳴らした。 自分の心臓の音すら大きく感じる。 三人は、獣道を進んだ。 落ち葉を踏まないように、慎重に足を運ぶ。
風の神が、こよいの周りに風の膜を作ってくれている。 衣擦れの音さえも、風の音に紛れさせてくれる。 湿った苔の上を歩くと、足裏が吸い付くように重くなる。 その重さが、今はありがたかった。
軽い足取りは、逆に音を立ててしまうからだ。
「……ありがとう、風」
心の中で礼を言うと、巾着が温かくなった。 中腹まで来た時、光が見えた。 懐中電灯のような光ではない。 赤い提灯のような、ぼんやりとした明かり。
見張りがいる。 光は霧に溶け、輪郭が揺らいでいる。 提灯の中に火があるのか、それとも術の灯なのか判然としない。 こよいは息を止め、久遠の背中だけを見た。
白い面をつけた男が二人。 木立の間に立っている。 手には杖。
「……どうする?」
あさひが目配せした。
「やるか?」
「いや、気づかれていないなら、やり過ごそう」
久遠が首を振った。
「無駄な戦闘は避ける」
久遠は、懐から小さな石を取り出した。 それを、見張りとは逆の方向へ投げた。 石は斜面を転がり、わざと木の根に当てて乾いた音を立てる。 久遠はその音の反響を確かめるように、耳を澄ませた。
カサッ。 乾いた音が響く。 見張りたちが、一斉にそちらを向いた。
「……?」
その隙に、三人は背後を駆け抜けた。 息を殺して。 影のように。 しばらく進むと、また見張りがいた。
今度は四人。 道が狭く、避けて通れそうにない。 彼らの足元には細い赤い糸が張られ、わずかな振動でも伝わる仕掛けが見えた。 その糸を踏めば、山全体に警めが走るだろう。
こよいの喉が鳴りそうになり、慌てて唇を噛んだ。 風の神が小さく震え、草を撫でるようにして音を散らす。 久遠は指を二本立て、待て、と合図した。 面の男たちが一歩動くたびに、赤い糸が小さく脈を打った。
「……ここは、やるしかないか」
あさひが剣に手をかけた。
「待って」
こよいが止めた。
「ビードロが、何か言ってる」
『……みえない』
硝子の瞳の声。
『……わたしが、みえなくする』
こよいは、硝子の瞳を掲げた。 月光を吸い込んだ硝子が、周囲の景色を歪める。 光の屈折。 こよいたちの姿が、背景の木々に溶け込んだように見えた。
視界がわずかに揺れ、手の輪郭が薄くなる。 こよいは自分の指先を見て、不思議な感覚に戸惑った。 確かにここにいるのに、ここにいないような感覚。
「……すげえ」
あさひが自分の手を見た。 透けて見える。
「迷彩か」
三人は、透明人間になって見張りの前を通り過ぎた。 男たちは、目の前を誰かが通ったことに気づかない。 ただ、風が吹いたとしか思っていないようだ。 その風に紛れて、久遠の息が小さく笑った。
緊張の糸が少しだけ緩む。 こよいは一歩ごとに足を確かめる。 土の湿り気が指先に伝わり、今いる場所が現実だと教えてくれる。 透明になっても、心までは透けていない。
胸の灯は熱いままだった。
「……すごいよ、ビードロ」
こよいは、硝子の瞳を撫でた。 冷たい硝子が、誇らしげに輝いた気がした。 山頂が近づいてきた。 赤い光が、木々を透かして見えている。
儀式は、佳境に入っているようだ。 赤い光は昨日よりも濃く、空の端まで染めている。 こよいの胸の灯が震え、月の神の声が奥でかすかに泣いた。 風が止み、鳥の影が消えた。
世界が山頂の方へと引かれていく感覚がある。 久遠は一度だけ振り返り、こよいの目を見て頷いた。
「覚悟はいいな」
こよいは小さく息を吸い、「うん」と答えた。
「行くぞ」
久遠が言った。
「ここからは、隠れていられない。総力戦だ」
こよいは深く息を吸った。 覚悟を決める。 月の神を、必ず助ける。 赤い光のうねりは、耳ではなく骨で聞こえる音だった。
山頂に近づくほど、風が薄くなり、息の白さが濃くなる。 こよいは袖口で口元を拭き、冷たい夜気を胸に吸い込んだ。 久遠は足を止め、耳を澄ませた。
「……面の男たちの数が増えている」
彼の言葉に、あさひが短く頷く。
「なら、ぼくが先に出る」
こよいは一歩前に出ようとしたが、久遠が掌で制した。
「今はまだ隠れて行け。焦るな」
こよいは巾着を握り直す。 硝子の神の冷たさが掌に伝わり、月の神の温度がその下で揺れている。 風の神は小さく鳴き、道の先にある危険を告げるように震えた。
「大丈夫」
こよいは心の中で言った。
「すぐに終わらせるから」
山頂から、低く、一定のリズムで響く音が届いた。 太鼓のようで、心臓のようで、どちらでもない不吉な響き。 儀式はもう始まっている。 こよいは息を吸い込み、胸の灯を強くする。
足元の土が冷たいほど、覚悟は熱くなった。 木々の隙間から、赤い光が波のように揺れているのが見えた。 空気が硬く、喉が渇く。 指先が冷たいのに、胸の奥は熱い。
「行くぞ」
久遠が小さく言い、あさひが剣を構える。 こよいは二人の背中を追い、光の中へ足を踏み出した。
石畳に足が触れた瞬間、熱が足裏から伝わった。 結界の呼吸が近い。 広場の端が見え、赤い光の柱がゆっくりと回っているのが分かった。
怖さは消えない。 けれど、怖さの奥にある「助けたい」という気持ちはもっと強い。 こよいはその赤の中に、月の神の小さな光を探した。 見つけた瞬間、胸の灯が確かな温度で答えた。
遠くで誰かの叫びが聞こえた気がした。 こよいはそれを背に、前だけを見た。 巾着の中で風が小さく回り、足音に合わせて鳴いた。
