翌日、月見台の町は異様な静けさに包まれていた。 空は晴れているはずなのに、陽光が届かない。景色から色が抜け落ち、すべてが灰色に沈んでいる。 朝の市が立つ時間なのに、大通りには人影がなかった。 暖簾は動かず、煮炊きの匂いもしない。町全体が息を殺していた。
「……色が、消えてる。世界が、死んでいくみたい」
こよいは宿の窓から外を見下ろし、声を失った。 木々の緑も壁の土色も色あせ、湖の水面は光を失って澱んでいる。 昨日まで鮮やかだった染物屋の暖簾さえ、色が抜けて白茶けていた。
路地に出ると、通りの端で小さな子どもが座り込んでいた。 虚ろな目で地面の砂をなぞっている。その影が、不自然に薄い。 こよいが声をかけても顔を上げなかった。まるで声が聞こえていないように、同じ動作を繰り返している。 井戸端では女が水を汲もうとして、桶を落としたまま動かなくなっていた。目だけが赤い空を見上げている。
「土地の根源的な生命力――『神気』が、容赦なく吸い上げられているんだ」
背後から久遠が現れた。 夜通し星読みの盤と睨み合っていたのだろう、目の下に深い隈が刻まれている。
「神気が吸い上げられている。儀式が月の神だけでなく、この土地の命まで喰い始めた」
久遠の義眼が青く明滅し、大気の揺らぎを分析している。
「昨日より加速している。このままでは町が枯れる」
こよいは背筋が凍った。昨日の一撃が観測者を刺激し、儀式の出力を上げさせたのだ。 助けようとした行動が、町をさらに追い詰めている。その事実が胃の底に石のように沈んだ。 足裏から伝わる土の感触が頼りない。地面から生命が抜け落ちていく。 胸が痛む。巾着の中で風の神が怯えるように悲鳴を上げ、ビードロがカチリと不安げに鳴った。 神々の感情がこよいの意識を揺さぶり、膝が崩れそうになる。
『……いたい。こわい。からだが、ひかりに、とけていく……』
『……かなしい。だれも、いない。くらい、さむい……』
月の神の思念が、昨日より鮮明に流れ込んできた。助けを求める声ではない。もう終わりを悟った者の声だ。
『……もう、いいんだよ。こよい。……これ以上、だれかがきずつくのは、みたくない』
『……わたしは、このまま消えてしまえばいい。……だから、あなたは、にげて』
『……にげて。あさひさんと、くおんくんといっしょに。とおくへ。……しあわせな、ひかりのあるばしょへ……』
「……だめ。そんなこと、絶対に言わせない」
こよいは激しく首を振った。
「消えていい神様なんて、いないよ。……諦めないで」
涙が頬を伝い、冷たい石畳に落ちた。 こよい自身の悲しみではない。月の神が溜め込んできた孤独が、こよいの身体を借りて溢れ出している。 幼い頃、霧の夜に迷子になった自分を導いてくれたのは、あの月明かりだった。あの光が消えたら、世界は帰り道を失う。
こよいはその場にうずくまった。助けたいという願いと、死ぬのが怖いという恐怖が、胸の中で激しくぶつかり合っていた。 昨日の戦いで見た、赤い結界に弾き飛ばされたときの衝撃が蘇る。あの力にもう一度立ち向かえるのか。今度は弾き飛ばされるだけでは済まないかもしれない。
「こよい」
あさひの手が、震える肩に置かれた。
「あっちの感情に引っ張られるな。神の悲しみに飲まれたら、お前まで戻れなくなる」
その手は温かかった。傷だらけの指先なのに、体温だけが確かだった。
「……でも、あんなに悲しい声が……」
「分かってる。だから引き摺り出すんだろ。そのために、俺たちがここにいる」
こよいは袖で涙を拭い、頷いた。あさひの手の温もりが、胸の揺れを少しずつ鎮めていく。 巾着の中で、風の神がそっと震えを止めた。ビードロも静かになった。こよいが立ち上がろうとしているのを、神々が感じ取ったのだ。
「……うん。行こう。月の神様を助けに」
こよいは巾着を握り直した。中でビードロが微かに脈打っている。昨夜、砕けても構わないと答えたあの小さな神の覚悟が、冷たい硝子を通して掌に伝わってくる。あさひの体温とその熱が、こよいの胸の奥で重なった。
夜が来た。 昨日よりもさらに禍々しい赤い月が昇る。月光が触れた屋根瓦が赤く濡れ、影が歪んで壁を這った。 町の灯りが一つ、また一つと消えていく。最後まで灯っていた角の提灯が、風もないのに揺れて落ちた。 人々は戸を閉ざし、暗い畳の上で怯えていた。
「……時間だ」
久遠が立ち上がった。
「行くぞ。今夜、すべてを終わらせる」
三人は宿を出た。 石畳は氷のように冷たい。町には人影がなかった。戸の隙間から怯えた視線が覗き、すぐに閉ざされる。 宿の女将が、無言で三つの握り飯を差し出してくれた。手が震えていた。こよいは深く頭を下げ、それを懐に収めた。 こよいは草鞋の紐を固く結び直した。昨日の傷が足首に残っている。痛みが、逆に身体を醒ましてくれた。
あさひは刀の位置を確かめ、久遠は星読みの盤を胸元に収めた。 余計な言葉は要らなかった。三人の足音だけが、死んだ町に響く。
町の境を過ぎると、空気が変わった。町の中の澱んだ冷えが、ここでは粘り気のある重さに変わっている。山頂へと吸い上げられる神気の流れが、肌を這うように押し寄せてくる。こよいは襟元を押さえ、その圧に逆らうように歩を速めた。
森の入り口で、風が止んだ。風の神が嵐に備えて息を殺したのだと、こよいは悟った。 赤い月が雲を裂き、血のような光が道を照らす。
「行こう。月の神様が待ってる」
三人は山道を登り始めた。 湿った土の匂いが濃くなる。昨日と同じ道のはずなのに、木々が一回り痩せて見えた。枝先の葉が縮れ、幹を伝う樹液が赤黒く変色している。山そのものが、儀式に喰われ始めていた。 月の神の呼吸が、一歩ごとに近づいてくるのを感じた。昨日より弱い。けれどまだ確かに、鼓動がある。 巾着の中の神々が、こよいの背中を押し続けてくれている。 山頂はまだ遠い。それでも、足は止まらなかった。
