翌夜。三人は再び山頂の祭壇へ立った。 こよいは硝子の瞳を高く掲げ、渾身の光を放った。
閃光。 世界が真っ白に染まった。 ビードロから放たれた光が、赤い結界を切り裂いた。 衝撃波が空間を揺らし、こよいは膝を突いた。
肺を圧迫していた重さが、一瞬だけ軽くなる。 凍り付いていた夜が、ほんの刹那、解き放たれた。 月光が呼吸を取り戻し、こよいの胸の冷えが溶け始める。
「今だ! 一気に押し切れ!」
あさひの声が爆風の向こうから響いた。 裂け目から、純粋な銀色の光が滴り落ちる。汚れていない、本物の月光だ。 月の神が、かすかに脈打った。
空間が一瞬だけ、澄んだ匂いを取り戻した。 祭壇を囲んでいた面の兵たちが、月光に触れて霧散していく。 枯れ草が青く揺れ、乾いた石が湿り気を取り戻す。 浄化の光が、確かに届いたのだ。
「やった……! 届いたんだ!」
だが、喜びは長く続かなかった。 黒い狩衣の男が杖を振り下ろし、黒い鈴を打ち鳴らす。 裂け目に向かって赤い光が集まり、傷口が縫い合わされるように復元されていく。 結界は、まだ死んでいなかった。
結び直されるたびに、月の神の呼吸が浅くなるのが巾着を通じて伝わってきた。
「貴様らの矮小な抵抗など、所詮はこの大いなる観測の塵に過ぎん」
男の声には感情がなかった。
「月は決して返さん。これは新しき時代の、生け贄となるべき礎なのだからな」
こよいは震える手で硝子の瞳を握り直した。 まだ熱い。掌が焼けるようだ。
『……まだ、いける。わたし、まだ、たたかえる……』
ビードロの声が、意識の淵で響いた。
『……でも、このままじゃ、わたし、こわれてしまう。……こわい。ひとりは、こわいの』
「大丈夫。一人じゃないよ。ぼくが、あさひが、久遠くんが、みんながついているから」
こよいは唇を噛んだ。 風の神がビードロの熱を風で散らし、月の神が微かな光を送り続ける。 風の神が緩やかに熱を引き、月の神がその瞬間に光を注ぐ。二柱の呼吸が噛み合い、ビードロの光が前夜より一層鋭く収束していく。 神々の気配が絡み合い、こよいの胸の灯を燃え上がらせていく。
「くううっ……!」
だが、修復された結界の反発力は先ほどの比ではなかった。 赤い光の壁が一気に膨張し、こよいの身体を正面から弾き飛ばした。背中から地面に叩きつけられ、二度、三度と転がる。肺の空気が一瞬で抜けた。 口の中に土の味がする。視界が明滅し、手足の感覚が遠い。 硝子の瞳から冷たい光がほとばしり、握りしめた指の間から滑り落ちそうになる。 必死に掌を閉じた。 掌の中でビードロの脈動が不規則に乱れた。今の全力は代償を伴う。それでも裂け目の奥で、月の神の鼓動がほんの一瞬だけ強く打ったのを、こよいの指先が感じ取っていた。
「下がれ、こよい! これ以上は無謀だ!」
あさひが駆け寄り、こよいを庇った。 だが赤い光の鎖が剣を阻む。久遠も星読みの盤で綻びを探るが、針が乱れて解を示さない。
あさひの肩から血が滴る。久遠の手が小さく震えていた。 二人は風穴を開けるためだけに身を投げている。こよいには、その犠牲を無駄にする権利はない。
「……今は、退くしかない。このままでは全滅だ」
久遠が低い声で言った。
「今の一撃で月の神は目覚めた。術式を内側から乱す兆しは作った。だが外側の檻は想像以上に強固だ」
こよいは悔しさに歯を噛んだ。掌の火傷が脈打つように痛む。 無力さが胸に穴を開けている。あと少しだった。あと少しで届いたのに。 だが、ここで無理をすれば全員が呑み込まれる。 もし次に失敗したら。ビードロが砕けてしまったら。 恐怖が首筋を這う。それでも、立ち止まるという選択肢はなかった。
『……ありがとう。こよい』
月の神の微かな声が届いた気がした。 痛みの叫びではない。救いに来た者への、確かな意志が滲む声。 結界の中で、月がまだ力強く拍動している。
月は、まだ、生きている。 まだ、その光の芯は死に絶えていない。
「待ってて。必ず、助け出すから」
こよいは小さく呟いた。火傷した掌を、もう一度だけビードロに添えた。冷たい硝子の肌が、微かに温もりを返してくれた気がした。 三人は山道を駆け下りた。 風の神がつむじ風で足跡を消し、追撃を阻む。 枝をかき分けるたびに肩の傷が走り、あさひがうめき声を押し殺す。 こよいはその背中を一瞥する余裕もなく、ただ足を前に出した。 山肌を照らす赤みが、ほんの少しだけ鈍っていることに気づいた。一撃の痕跡だった。
麓の木立の中に身を潜め、ようやく死の気配から逃れた。 肩が重い。心臓が激しく打つ。
あさひが傷口に布を巻く。久遠は星読みの盤を調整しながら、術式の流れを分析していた。布の端から血が滲み、久遠は一瞥もせずに針を動かし続けた。 こよいは巾着に耳を当てる。月の神の鼓動が、まだある。
「あれは失敗じゃない。浄化の兆しだ」
久遠が言った。
「結界の構造は理解した。天頂の結び目に光を収束させて叩く。だが焦点をもっと正確に絞る必要がある」
「次はしくじらねえ」
あさひが頷いた。 久遠は山頂を見据え、義眼を細めた。
「術式の焦点は星の運行で変動する。星の針と月の高度を合わせれば、内側から崩壊させる焦点が現れるはずだ」
こよいは赤い月を見上げた。 さっきの一撃で、赤色がほんのわずかだけ薄くなった気がした。 幻かもしれない。でも、それが唯一の希望だった。
「明日の夜。もう一度、あそこへ行こう」
こよいは、震える自分の声を必死で律しながら言った。
「今度こそ、月の神様をあの檻から連れ出すんだ。絶対に」
三人は月見台の町へ影を潜めて戻った。 町は静まり返っていた。誰も山頂の戦いを知らない。 だが町の灯は頼りなく、赤い月の下で怯えているように見えた。 こよいは巾着の底で微かに続く鼓動を確かめ、唇を引き結んだ。
