山頂の広場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。 重い。立っているだけで体力が削られていく。 天を衝く赤い光の柱が、視界を塗り潰していた。
風は止まり、音だけが澄み渡っている。 こよいは喘ぐように息を吸い、喉が乾ききっていることに気づいた。 焦げた金属のような匂いが漂っている。
その光の暴虐の只中に、それは浮かんでいた。 淡く、けれど気高く輝き続ける、巨大な真珠のような球体。 月の神だ。 赤黒い光の檻の中に、縛り上げられている。
球体の表面は薄い霧のように頼りなく揺れていた。 かつて夜空を照らしていた月光とは似ても似つかない、弱々しい光。消えかけの命だ。
「苦しんでる……月の神様が、泣いてる……」
こよいは胸を押さえた。 月の神の悲鳴が、意識に直接流れ込んでくる。 言葉ではない。剥き出しの痛みと、消えていくことへの恐怖。 こよいの膝が震えた。胸の灯が消えそうに乱れる。 巾着の中で、風の神とビードロが同胞の苦痛に感応してざわめいた。
「ようやく姿を現したか。不法侵入者諸君」
祭壇の正面。 術式の中心で、一人の男が振り返った。 白い面は他の観測者と同じだが、装束が違う。黒い狩衣。隊長格だ。 右手に黒い杖を握っている。先端に歪な鈴が垂れ、揺れるたびに嫌な気配が広がった。
「これ以上の観測の妨害は、世界の損失に繋がる。……直ちに、彼らを排除せよ」
男が杖を振った。 周囲の地面から、次々と人影が立ち上がる。十人、二十人。 白い面に鈍い武器。呼吸も体温もない、泥人形のような兵士たち。 規則的な足音だけが広場に響く。
「ふん、数だけは揃えてきやがったな!」
あさひが剣を抜いた。 刀身が赤い光を跳ね返し、銀色の閃光が闇に走る。
「ここは俺が受け持つ。お前らは儀式を止めろ!」
あさひが敵陣に飛び込んだ。 剣閃が弧を描き、槍を受け流し、装甲を切り裂いて道をこじ開けていく。 白い面をかすめるたびに、鮮血ではなく黒い霧が噴き出す。 人間の叫びはない。土塊が崩れるような音だけが響いた。
「行くぞ、こよい! 俺に遅れるな!」
久遠が、混乱の隙間を縫って祭壇へと駆け出した。 こよいも、その背中に必死で食らいつく。
「愚かな。ネズミ一匹、逃がす必要はない」
黒い狩衣の男が指を鳴らした。 祭壇の足元から、赤い光の鎖が蛇のように這い出し、こよいの足を狙う。 触れた草木が瞬時に炭化していく。
「きゃああっ!」
避けきれなかった。灼熱の鎖が足首に巻き付く。 焼ける。激痛が走った。
「風の神様! お願い!」
こよいは悲鳴を上げた。
『……まかせな!』
風の神の声とともに突風が吹き荒れ、足首の鎖を断ち切った。 風の刃が赤い光を霧散させる。
「小癪な……神の力を使役する者か」
男が杖を構え直した。 先端に巨大な火の玉が膨れ上がる。自然の火ではない。 神の力を術式で模倣した、偽りの神火。熱く見えるのに、気配は氷のように冷たかった。
「模倣しただけの力か。反吐が出る」
久遠がこよいの前に出た。 星読みの盤を操作する。針が回転し、青い光が放射された。 久遠の左目が同じ色に共鳴する。呼吸が浅く、鋭い。
「術式の制御がお粗末だ」
盤から放たれた光線が、火の玉の「術の結び目」を撃ち抜いた。 大爆発。爆風がこよいの頬を熱く撫でる。 黒煙が晴れると、久遠が不敵に笑っていた。
「俺の目は神気の流れを捉える。お前の術の隙間は丸見えだ」
「……貴様、あの時の逃亡体か。不快な記憶が蘇るな」
男の声に、初めて驚きが混じった。
「廃棄処分された失敗作が、生き延びていたか」
「ああ。お前らを潰すためにな」
二人が対峙する隙に、こよいは祭壇へ走った。 赤い光の中心で、月の神が消えかけている。
あと少し。手を伸ばせば届く。 だが、見えない壁がこよいの手を弾き返した。結界だ。
「……待ってて! 今、ここから出してあげるから!」
こよいは硝子の瞳を掲げた。ビードロ。
『……映す。世界の歪みを、この瞳にすべて映し出す』
ビードロの声が空間を震わせた。
『……あつめて、かえす。にせものの光、ぜんぶ跳ね返す』
硝子の瞳が赤い光を吸い込み始めた。 結界のエネルギーが渦を巻いて瞳の奥へ消えていく。 球体が赤く熱を帯びる。こよいの手が焼けるように熱い。
それでも放さない。 風の神が冷たい風を送り、月の神が微かな光で支えてくれている。 三柱の神の意志が、こよいを通して一つに結ばれていく。
「……いけえええっ!」
こよいは叫んだ。 凝縮された光を、結界に向けて放つ。 青白い光の奔流が結界に突き刺さった。
赤い檻が裂け、衝撃波が吹き荒れる。 こよいは吹き飛ばされ、石の地面に背中を打った。視界が白くなる。
結界の一部は砕けた。 だが赤い光がうねり、傷口を塞ぐように結び直されていく。
「……くそっ、まだ足りないのか……」
久遠の苦悶の声が響いた。 男が杖を掲げ、詠唱する。結界がさっきより硬く再生されていく。
あさひがこよいの腕を掴み、引き戻した。
「一時退却だ! このままじゃ、奴の術式に飲み込まれるぞ!」
こよいは唇を噛んで頷いた。生きて戻ること。それが月の神を救う道だ。 久遠が星読みの盤から青い光の霧を放ち、追撃を遮る。
走り出す前に、一度だけ月の神を見上げた。 光の球体が、まだ微かに脈打っている。
『……必ず。また、助けに来るから。待ってて』
三人は闇へ駆けた。 背後で赤い光が咆哮を上げる。 山道を下り、北の廃道を目指して闇を駆けた。
木々の影に滑り込むと、夜の冷たさが肌に返ってきた。
「必ず戻る」
こよいは心の中で誓い、森を走った。 足が滑り、膝をつく。あさひの手がすぐに伸びてきた。 背後の赤い光がまだ追ってくる。月の神の声はもう聞こえない。
だがその静寂こそが、「待っている」という合図だった。 こよいは巾着を握りしめ、胸の灯を確かめた。 まだ消えていない。それだけが頼りだった。
北の廃道へ逸れたのは、深夜を回ってからだった。枯れ木の根元に身を潜め、誰もが言葉も出ずに肩で息をした。夜が明けるまで、泥のように眠った。
