第006話 見えない道
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第006話 見えない道

第1章 霧の序章

道標の文字は、かろうじて読めた。

「→境」

右へ傾いた木の板に、墨で書かれた文字。風雨に晒されて、半分以上が消えかけている。  さかい。  その言葉の意味を、こよいは知らなかった。けれど、母が「ここにいちゃいけない」と言った。町は霧に沈んだ。後ろには戻れない。

なら、前に進むしかない。

山道は、思っていたより歩きやすかった。  踏み固められた土の道。両脇にはならくりの木が茂り、朝日が木の間から斜めに差し込んでいる。木漏れ日が、道の上に金色の斑模様まだらもようを作っている。  鳥が鳴いている。風が葉を揺らしている。  普通の山道だ。  何も、おかしくない。

けれど、足が重い。  昨夜、ほとんど眠れなかった。丘の上で、草の上で、膝を抱えて夜を明かした。体のあちこちが痛い。かばんの肩紐が食い込んで、肩がきしむ。

「……だいじょうぶ?」

巾着きんちゃくの中から、空き地の神の声。

「……うん」

声が掠れた。嘘だった。

一時間ほど歩くと、石段が見えた。  苔むした石段が、道の真ん中を横切るように伸びている。二十段ほど。上に行くほど崩れていて、草に埋もれている。  両脇には、石灯籠いしどうろうの台座だけが残っていた。灯籠本体は、どこにもない。

「……なに、これ」

「……むかし、みち」

ほこらの神の声。

「……だれかが、とおった」

誰かが通った道。  今は、誰も通らない道。

石段を登り切ると、道は再び山の中に続いていた。  木々が鬱蒼うっそうと茂り、日差しが遮られる。涼しい。けれど、心細さが増す。  振り返ると、来た道が木々の間に消えている。  前を向く。進むしかない。

昼前に、開けた場所に出た。  大きな岩が、道の脇にあった。平らな上面。座れそうだ。  こよいは、岩の上に腰を下ろした。  足が悲鳴を上げていた。靴の中がじっとりと湿っている。昨夜、小川を渡ったときに濡れたのが、まだ乾いていない。  かばんを下ろす。肩が軽くなる。

「……やすむ」

独り言のように呟いた。

かばんを開けた。  干しほしもちを取り出す。油紙に包まれた、硬い米の塊。噛むと、じわりと味が出る。  竹の水筒から水を飲む。冷たい。喉が鳴る。  少し、落ち着いた。

かばんの底を探っていると、指に紙の感触があった。  取り出すと、折りたたまれた紙だった。黄ばんでいる。古い。  広げると、地図だった。  墨で描かれた、簡素な地図。山と道と、いくつかの地名。

霧原町きりはらちょう」という文字が、端にあった。その下に、小さく「始まりの地」と書き添えられている。

道が、南西に伸びている。

「石段の遺構いこう」「休憩岩場」と読める場所を過ぎて、その先に。

さかい」。

大きな文字で、そう書かれていた。  その下には、「集め手の宿」という言葉。

「……かあさん」

声が震えた。  この地図は、母が入れたのだ。いつ手に入れたのか。なぜ持っていたのか。分からない。  けれど、母は知っていた。この道のことを。「さかい」という場所のことを。

地図の余白に、走り書きがあった。

「道は見えるものとは限らない」

その意味は、分からなかった。

巾着きんちゃくが、わずかに揺れた。

「……ちず?」

空き地の神の声。

「……うん。かあさんが、入れてた」

「……さかい」

ほこらの神の声が、ゆっくりと続く。

「……きいた、こと、ある」

「……なに」

「……とおい、ところ」

「……でも、いける」

遠い。けれど、行ける。  こよいは、地図を折りたたんで、かばんに戻した。  目的地ができた。名前のある場所。向かうべき方角。  それだけで、少し、足が軽くなった気がした。

午後、道が変わった。  広葉樹こうようじゅの森が、杉林すぎばやしに変わった。まっすぐに伸びた幹が、等間隔に並んでいる。誰かが植えた林だ。けれど、手入れをする者はもういない。  光が届かない。薄暗い。  足元は、杉の落ち葉で赤茶色に染まっている。踏むと、かさりと乾いた音がする。  空気が冷たい。肌がざわつく。

そのとき、世界が歪んだ。

足元が傾いた。  いや、傾いていない。道は真っ直ぐだ。けれど、斜めになっている。木々が、左に傾いて見える。いや、右か。分からない。  視界の端が、揺らいでいる。  耳鳴りがした。高い音。周囲の音が、遠くなる。  金属のような匂いが、鼻をついた。

「……ゆがんでる」

巾着きんちゃくが、ひやりと冷たくなった。

「……ここ、ゆがんでる」

ほこらの神の声。

「……とおりすぎて」

空き地の神の声が、急いている。

こよいは、足を止めずに歩いた。  足元がおぼつかない。吐き気がする。けれど、止まってはいけない気がした。  五歩、十歩、十五歩。  突然、感覚が戻った。

振り返ると、杉林すぎばやしは、ただの杉林すぎばやしだった。  何も、おかしくない。  けれど、首筋に汗が流れていた。心臓が、まだ速く打っている。

「……なに、あれ」

「……しらない」

「……でも、ある」

「……ときどき、ある」

その言葉の意味を、こよいは完全には理解できなかった。  けれど、地図に書かれていた言葉を思い出した。

「道は見えるものとは限らない」

夕暮れ前、鳥居とりいの残骸を見つけた。  片方の柱だけが残っている。もう片方は、根元から折れて、道の脇に倒れている。横木は、三つに割れて草に埋もれていた。  かつて、ここに何かがあった。  誰かが、ここを通った。祈った。手を合わせた。  今は、誰もいない。  こよいは、残った柱に手を触れた。冷たい石の感触。長い時間を経てきたものの、静かな重さ。

「……やすまない?」

空き地の神の声。

「……もうすこし、いく」

日が暮れる前に、少しでも先へ。

鳥居とりいを過ぎると、道は再び細くなった。  夕日が、横から差し込んでいる。影が、長く伸びている。  足元の落ち葉を踏む音が、やけに大きく響く。  かさり。かさり。かさり。

そのとき、気づいた。

足音が、一つ多い。

こよいは、立ち止まった。  足音も、止まった。  振り返る。  誰もいない。  木々と、影と、夕日の光。それだけだ。

目を凝らす。耳を澄ます。  風の音。遠くで、鳥が鳴いている。  それだけだ。

「……きこえる」

巾着きんちゃくの中から、ほこらの神の声。

「……でも、みえない」

空き地の神の声が続く。

「……なにか、いる」

こよいは、前を向いた。  歩き出す。  かさり。かさり。  自分の足音。  そして。  ザッ。ザッ。ザッ。  後ろから、確かに聞こえる。落ち葉を踏む音。規則正しい、歩行のリズム。  振り返る。  誰もいない。

足音は、近づきも、離れもしなかった。  ただ、ついてくる。  見えない何かが、後ろを歩いている。

こよいは、振り返るのをやめた。  前を向いて、歩く。  足音は、ずっと後ろにいた。

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