宿の布団に入っても、こよいはなかなか眠れなかった。 目を閉じると、瞼の裏にあの硝子の瞳が浮かび上がってくる。 透き通った、けれど何も映さない青色。 助けを求める掠れた声。
そして、その瞳と同じ色を湛えた、久遠の左目。 階下からは、安酒の饐えた匂いと野草の湿った香りが、薄い障子の隙間を縫って這い入ってくる。 客たちの笑い声はもう遠く、代わりに古い梁が夜気に冷えて軋むミシリという音だけが、断続的に響いていた。
静けさが深まるほど、胸の奥の不安が揺らめく。
『運び屋』と言い放たれた時の、あの視線が消えない。
彼は一体、何者なのだろうか。 ただの薬屋の孫などではない。 久遠の周りの空気は、観測者の気配に近い、不自然なほど澄んだ匂いがする。 歩幅は子供のそれと変わらないのに、月光に落ちる影は微塵も揺れない。
少年らしい幼さを残した声の中に、刃のような冷徹さが同居している。 そのちぐはぐさが、こよいの胸をざわつかせた。 寝返りを打つと、乾いた畳がザラリと肌を擦った。
隣の布団では、あさひが規則正しい寝息を立てている。 その安らかな呼吸だけが、この夜の唯一の錨だった。 ふと、障子の向こう側が、不自然に明るんだ気がした。
月明かりにしては、青白すぎる。 山の稜線が黒い切り絵のように夜空を分断し、その向こうで、巨大な何かが胎動している気配があった。 こよいは静かに起き上がり、息を殺して障子を滑らせた。
宿の小さな庭には、松の枝が黒々と広がり、石灯籠が沈黙を守っていた。 虫の声ひとつしない。 風さえも止まっている。
その庭の中央。 月光を真っ向から受ける平らな石の上に、一つの人影が鎮座していた。 少年だ。 久遠だった。
彼はあぐらをかき、膝の上に奇妙な機械を載せていた。 真鍮色の歯車が幾重にも組み合わさった箱。天球儀のようでもあり、羅針盤のようにも見える。 その中心から、細い青色の光線が天に向かって真っ直ぐ伸びていた。
近づくと、歯車がカチ、カチと噛み合う音がした。焦げた油の匂いと、機械の不自然な熱が鼻を突く。
「……月が、歪んでいる」
久遠の独り言が、夜気に乗って聞こえた。 こよいは引き寄せられるように、縁側から裸足で庭に降りた。 草を踏む音に、久遠がゆっくりと首を巡らせる。
驚きの欠片もなかった。 最初から、こよいが来ることを知っていたかのような沈黙。
「……お前か」
「何をしてるの?」
こよいは、膝の上で不気味に脈動する機械を指差した。 そこから伸びる青い光線は、天球の支配者のように君臨する満月を、正確に射抜いている。
「星読みの盤だ」
久遠は短く答えた。 細い指でダイヤルを微調整すると、カチリと音が鳴り、光線の密度が増した。 金属の冷たい匂いが、夜の土の匂いと混ざる。 月の満ち欠けの裏に潜む神気の流れを引き摺り出すための道具。銀色の月をまっすぐ貫くその光線に、こよいは背筋が冷えた。
「星の配置、月の満ち欠け、そこで大気に溶けた神気の澱みを測る。……観測者が、神を捕らえるために作り上げた、忌々しい知恵の結晶だ」
観測者。 その言葉に、こよいは息を呑んだ。 やはり、彼は、あの連中と。
「やっぱり……あなたは、観測者の仲間なの?」
「仲間だと?」
久遠は、自嘲気味に口の端を歪めた。
「冗談じゃない。俺は、奴らの歪んだ欲望が生み出した、最高傑作の『作品』だ」
「作品……?」
久遠は、左目に指先を這わせた。 月光を閉じ込めた義眼が、怪しい光を放つ。
「この目は、神気の色を見るために硝子と術式を眼窩に埋め込まれた義眼だ。……俺は物心つく前に親から引き離され、奴らの実験台の上で育った」
久遠の声は淡々としていた。 だが、機械を握る拳が白くなるほど強く震えているのを、こよいは見逃さなかった。
「毎日、針とメスが俺の身体を刻む。……神の姿をより鮮明に捉えるために、人間の部分を少しずつ削ぎ落とされていく。痛みを感じる神経さえも、観測の邪魔だと言われた」
「ひどい……そんなの、あんまりだ……」
「ああ。……だが、俺はそこから逃げた。地下の研究施設で爆発事故が起きた時にな。死にかけていたところを、あの婆さんに拾われた」
久遠は、星読みの盤を再び空へ向けた。 青い光が月を貫く。
「だが、逃げたところで終わりじゃない。この目は俺の身体に根を張って離れない。奴らが刻んだ烙印だ」
「そして今、奴らが再びこの地に現れ、動き出している。……この月見台を囲む、あの山頂の社で」
「……そこで、何をする気なの?」
「月の神を、高高度から地に堕とすつもりだ」
月の神。 こよいは弾かれたように空を見上げた。 満月が、どす黒い赤色を帯び始めている。
「月光に宿る神気を、制御可能なエネルギーに強制置換する実験だ。神の意志を剥ぎ取り、ただの電池にする。……成功すれば、この一帯の夜は死ぬ。月の神は二度と輝かない」
「そんなこと……そんな酷いこと、絶対にさせない!」
こよいは叫んだ。 巾着の中で、風の神が激しく身悶えするのが分かった。 神様を、道具として使い潰す。見過ごせるはずがなかった。
「当然だ。止めるぞ」
久遠は、音もなく立ち上がった。 星読みの盤を懐にしまう。
「俺は、奴らを許さない。奴らの未来をこの手で灰にする。……それが、この目とともに生きる唯一の理由だ」
その瞳の奥で、冷たい硝子越しに青い炎が揺らめいていた。 冷酷で、けれど熱い、命を懸けた怒り。
「……お前はどうする?」
久遠の視線が、こよいを射抜いた。
「集め手なんだろう。神が汚されるのを黙って見るのか? それとも踏み込むのか?」
「見捨てない……見捨てられるわけないよ!」
こよいは、震える声で即答した。 裸足のまま一歩前に出て、久遠の青い目を真っ直ぐに見つめ返す。
「ぼくも行く。神様が、あんな風に壊されていくのは……もう嫌なんだ」
「それに、ビードロも助けたい」
「ビードロだと?」
「あの硝子の瞳のことだよ。……あの子も、ずっと暗い檻の中で助けてって言ってた。ぼくには、あの子の悲鳴が聞こえたんだ」
「……ふん。そうか。あいつ、そんな名前で呼ばれたがっていたのか」
久遠は、一瞬だけ表情を緩めた。 初めて見せる、人間らしい顔だった。
「なら、すぐに準備をしろ。……あいつを、この檻から連れ出す」
「連れて行くって……ビードロを?」
「ああ。あいつはただの義眼じゃない。あらゆる光を意志で『反射』し、増幅させる力を持った神の欠片だ」
反射。 それがどう役に立つのか、今のこよいには分からない。 けれど、久遠の目には計算がある。
「あの剣の男も呼べ。術式の突破は無理だろうが、囮くらいには使える」
「囮だなんて……あさひに失礼だよ!」
「文句を言う暇があるなら足を動かせ。使えるものは全部使う。……それが、人間が観測者に勝つ唯一の方法だ」
厳しい言葉の裏に、覚悟の重みがあった。 一人で戦い続けてきた少年が、初めて他者に背中を預けようとしている。
「うん! すぐに呼んでくるよ!」
こよいは縁側を蹴って部屋へ走った。 あさひを起こさなければ。 天を仰げば、赤黒く変色した月が輝いている。
裸足の裏に冷たい板の感触。心臓が激しく打つ。 胸の灯が揺れていた。もう、昨日には戻れない。
