山を下ると、次の峠に差し掛かった。 そこには、一軒の茶屋があった。 今度は雷に焼かれていない、無事な建物だ。
「……誰もいないな」
あさひが様子を窺いながら中に入った。 土間にはテーブルと椅子が並び、奥には厨房がある。 掃除が行き届いていて、埃ひとつない。でも、人の気配がない。 炉の灰はまだ温かく、湯気の匂いがほのかに残っている。 誰かがさっきまでここで働いていた。 それなのに、姿だけが見えない。 壁には帳面が吊られており、日付と簡単な走り書きが残っていた。
「雨荒ぶる。峠に近づくな」
「雷、畑焦げる」
短い文字が、ここ数日の嵐の酷さを物語っている。 こよいは帳面をそっと閉じ、持ち主の無事を祈った。 隣には旅人帳が置かれていた。
「水が甘い」「道が滑る」「雷に注意」――短い感想が続く。
最後の頁だけ、墨が滲んで読みにくい。
「山の上で、白い光を見た」とだけ書かれていた。
こよいは胸がざわつき、帳面を元の位置に戻した。 帳面の下には、山道の簡単な地図が挟まっていた。 峠の先に「旧鉱山」と小さく書かれている。
こよいは指でその文字をなぞり、嫌な予感を覚えた。 あさひもそれを見て、唇を引き結んだ。
「寄らずに通るつもりだったが、状況次第だな」
あさひの声は低く、警戒が滲んでいる。 こよいは頷き、胸の灯に手を当てた。 また観測者がいるなら、避けては通れない。
「すみませーん」
こよいが声をかけたが、返事はない。 厨房を覗くと、火が消えた竈と、洗ったばかりの食器があった。
「……また、神隠し?」
こよいは身構えた。 あの村のことを思い出したからだ。
「いや、違う」
あさひが、テーブルの上を指差した。 そこには、一枚の紙が置かれていた。
『旅の方へ。茶と団子を用意してあります。代金は箱へ』
丁寧な字で書かれている。 その横には、伏せた湯呑が並んでいた。
「……無人販売所か」
あさひが苦笑した。
「随分と不用心だな」
「でも、ありがたいね」
こよいは、急須からお茶を注いだ。 まだ温かい。 ついさっきまで、誰かがいた証拠だ。 湯呑を両手で包むと、温もりが掌に移った。 こよいは礼を言うように、湯気に向かって小さく頭を下げた。 湯の香りはやさしく、口に含むとほのかな苦味が広がる。 こよいは目を閉じ、故郷の囲炉裏の匂いを思い出した。 旅の途中で味わう一杯は、ただの茶ではなく、心の支えだった。
団子は、よもぎの香りがした。 一口食べると、甘い餡の味が口いっぱいに広がる。 疲れが溶けていくようだ。
「……美味しい」
「ああ」
二人は、静かに団子を食べた。 窓の外には、夕暮れの山並みが広がっている。 平和な時間。 風の神が巾着の中でほっと息を吐き、火の側で丸まった気配がした。 こよいはその気配に笑い、団子を小さく割って巾着の前に置いた。
「少しだけ、どうぞ」
風がふわりと動き、団子の香りが散った。 湯呑の湯気が、ゆるく揺れている。 温かさが指先から肩まで伝わり、心の緊張がほどけていく。
「こういう場所があると、旅は続けられるね」
あさひは短く頷き、残りの団子を口に運んだ。 言葉少なでも、同じ温度を分け合っている。 外の雨は弱まり、屋根を打つ音が少し静かになっていた。 茶屋の柱が軋むたびに、古い木の匂いが漂う。 湯呑の中の湯は、いつの間にか半分になっていた。
ふと、こよいは気配を感じた。 茶屋の奥。住居スペースの方から。
「……誰か、いる?」
そっと近づいて、障子の隙間から中を覗いた。 誰もいない。 ただ、仏壇に線香が供えられていた。 煙が、まっすぐに立ち上っている。
その遺影を見て、こよいは息を呑んだ。
「……この人」
写真の中の老女は、優しく微笑んでいた。 その顔は、旅の途中で見かけた誰かに似ていた。 深い瞳。目元のしわの形まで。 姉妹だろうか。それとも、他人の空似だろうか。 こよいは胸がきゅっと縮み、写真の前で手を合わせた。
「……もし、この人も連れて行かれていたら」
言葉が喉で止まる。 あさひは黙って肩に手を置き、こよいの背を支えた。 こよいは懐から銭を取り出し、仏壇の前にそっと置いた。 お礼と、祈りの代わりだ。
「いつか、姉妹がまた会えますように」
静かな願いが、線香の煙に溶けていった。
「どうした」
あさひが来た。
「……ううん、なんでもない」
こよいは障子を閉めた。 見てはいけないものを見た気がした。 あるいは、知ってはいけない悲しみを。 部屋の隅に、小さな髪飾りが置かれていた。 桜の形をした簪。見覚えがある。 以前どこかで見た気がする形だ。 こよいは胸が締め付けられ、そっと髪飾りに触れた。 冷たい。そこには人の温もりだけが欠けていた。 簪のそばに、小さな包みが置かれている。 中には古い手紙が一枚だけ入っていた。
「山を越えて姉の元へ行きます。嵐が治まったら戻ります」
字は震えていて、最後の行で途切れている。 こよいはそっと手紙を戻し、仏壇に向かって深く頭を下げた。
代金を箱に入れ、茶屋を出た。 振り返ると、茶屋の窓に明かりがともっていた。 誰がつけたのかわからない。でも、その明かりはとても温かく、そして寂しげだった。 戸口の鈴が、小さく鳴った。 風のいたずらか、それとも誰かの見送りか。 こよいは一度だけ頭を下げ、静かに背を向けた。 外へ出ると、空気がひんやりとして頬を刺す。 地面の泥は乾き始め、足音が少し軽くなっていた。 茶屋の戸がゆっくり閉まり、背後で小さな音を立てた。
「……行こう」
こよいは前を向いた。 旅は続く。 出会いと別れを繰り返しながら。 山の空気が冷え、夕暮れが近づいていた。 茶屋の明かりは、背後で小さく揺れている。 こよいはその温かさを胸にしまい、次の道へと歩き出した。 峠の風は乾き、雨の匂いが少し薄くなる。 代わりに、土と鉄の匂いが混じってきた。 こよいは不思議に思い、足を止めて遠くの山肌を見た。 木々の色が途切れ、岩が露出した場所がある。
「……あそこ、景色が違う」
あさひも同じ方向を見て、眉をひそめた。 日が傾き、山影が伸びていく。 暗くなる前に峠を越えようと、二人は足を速めた。 茶屋の温かさが背中から遠ざかり、代わりに冷たい風が頬を撫でた。 道の先で、山肌の色が黒く変わっていく。木の匂いが消え、鉄の匂いが強くなる。 こよいは巾着を握り直した。あさひは一度だけ頷き、歩調を落とさず進む。 遠くでフクロウが鳴いた。その声が、峠の深さを知らせていた。
