峠を越えると、景色が一変した。 緑の山肌が削り取られ、岩が剥き出しになっている。 巨大な穴がいくつも開き、錆びたレールが地面を這っている。 土埃の中に、朽ちたトロッコが倒れていた。 車輪は歪み、木箱は空のまま散らばっている。 かつて人が暮らしていた小屋がいくつもあり、窓は板で塞がれていた。 風が吹くと、看板がカタカタと鳴り、遠い昔の声がかすかに聞こえる気がした。 坑口の脇には石積みの小さな祠があり、鉱夫たちが安全を祈った跡が残る。 供え物の皿は割れ、そこに雨水が溜まっていた。 こよいは一度だけ手を合わせ、土の神に無事を願った。
「……鉱山?」
「ああ。昔は銅が掘れたらしい」
あさひが言った。
「今はもう廃坑だがな」
「どうして閉じたの?」
「崩落が続いたって聞いた。……それと、変な光が出るようになってから人が寄り付かなくなった」
変な光。 こよいは胸の中で、その言葉を反芻した。 観測者が来てから光るようになったのか。 それとも、光が出たから観測者が来たのか。
坑道の入り口には、木の板が打ち付けられ、『立入禁止』の札が下がっている。
風が吹くたびに、板がガタガタと音を立てる。 板の隙間からは冷たい空気が漏れ、湿った匂いが鼻を刺した。 こよいは肩をすくめ、巾着を握り直す。
「……嫌な感じがする」
こよいは、巾着を押さえた。 風の神が、不安そうに震えている。
『……なか、くろい』
『……おとが、する』
「音?」
耳を澄ませると、坑道の奥から微かな音が聞こえた。 カン、カン、カン。 つるはしで岩を叩くような音。 それとも、機械が動く音だろうか。 その音に混じって、金属が擦れる甲高い響きがした。 人の話し声は聞こえない。 誰が、何のために叩いているのか。
こよいは壁に耳を当てた。 石の奥から、微かなうめきが伝わってくる。 言葉にならない声。 それは、地面そのものの痛みのように感じた。 胸の灯が震え、こよいは唇を噛む。 カン、カンという音が一定の間隔で続く。 まるで鼓動のように、地の奥が脈打っている。 こよいはそのリズムを覚え、進むべき方向を確かめた。
「誰もいないはずだよね?」
「ああ。だが、観測者なら話は別だ」
あさひは、入り口の板を剣でこじ開けた。
「調べるぞ。奴らが何か企んでいるかもしれない」
板が外れると、乾いた埃が舞い上がった。 こよいは袖で口元を覆い、咳をこらえる。 外の雨音が遠のき、坑道の中に静寂が満ちた。
中は真っ暗だった。 湿った空気と、カビの匂い。 足元には水たまりがあり、天井から雫が落ちてくる。 壁には古いランプの跡があり、煤が黒く残っていた。 坑道の脇には崩れた支柱があり、いつ崩れてもおかしくない。 こよいは息を浅くし、足音を抑えた。 水たまりの縁に、新しい靴跡が残っている。 まだ崩れていない土が、ついさっき踏まれたばかりの形だ。 こよいは目線であさひに知らせ、二人はさらに慎重に進んだ。 足跡は規則正しく並び、人ではない歩幅だった。 観測者の機械の足かもしれない。 こよいは背筋を伸ばし、息を細く整えた。
「明かりを」
あさひが松明に火をつけた。 揺らめく炎が、坑道の壁を照らす。 炎の影が大きく揺れ、壁に人影のような形が映る。 こよいは思わず背後を振り返ったが、そこには誰もいなかった。 壁には無数の傷跡があり、かつてここで働いていた人々の苦労が偲ばれる。 坑道の曲がり角には、祈祷札が貼られていた。 色褪せた札には「土守」の文字が読み取れる。
忘れられた祈りが、こんな場所にも残っていた。 足元には古いつるはしが転がり、柄は乾いてひび割れている。 木箱の中には空の飯盒があり、名を彫った印が残っていた。 誰かの生活の跡が、静かに積もっている。 こよいは指で札をなぞり、短い祈りを心の中で唱えた。 風の神が小さく応え、坑道の空気がわずかに柔らいだ気がした。 けれどその柔らかさはすぐに、機械の振動にかき消されていく。
奥へ進むにつれて、音が大きくなってきた。 カン、カン、カン。 そして、もっと低い、重低音。 ブゥゥゥン……という、発動機のような音。 振動が足裏から伝わり、地面が微かに震えている。 風の神は巾着の中で身を縮め、警戒の音を立てた。 坑道の空気は次第に乾き、鼻の奥がつんとする。 雨の匂いは消え、代わりに金属と油の匂いが強くなる。 こよいは胸がざわつき、灯を守るように袖の中で手を握った。 風の神の気配が薄くなり、風がここでは通りにくいことが分かった。 こよいは息を吸い込み、風が届かない闇に立ち向かう覚悟を固めた。 あさひは背中越しに短く「行くぞ」と囁き、こよいは静かに頷いた。
闇は濃く、前方の音だけが頼りだ。 それでも足は止まらなかった。 あさひの背が小さく揺れ、闇へ溶けていく。こよいはその背に続き、静かに足を踏み出した。
「……機械だ」
こよいは確信した。 この奥に、観測者の機械がある。
「間違いないな」
あさひは低く答えた。
「ここで何かを掘ってる。……地脈か、神か」
こよいは喉を鳴らし、巾着を胸に寄せた。 風の神は小さく震え、坑道の奥を警戒している。 二人は互いに目を合わせ、頷いた。 進むしかない。
曲がり角を抜けると、古いレールが二股に分かれていた。 一方は崩落で塞がれ、もう一方には新しい電線が伸びている。 金属の線が闇の中へと導いているのが分かった。 こよいは壁に手を当て、微かな振動を感じ取る。 脈打つような動きが、地面の奥から伝わってきた。
「……生きてる」
こよいが囁くと、あさひは頷き返した。 ここで奪われているものは、確かに命だ。
「隠れろ」
あさひが松明を消した。 暗闇の中で、二人は息を潜めた。
向こうから、光が近づいてくる。 懐中電灯のような、白い光。 そして、足音。 カツ、カツ、カツ。 金属の靴底が水たまりを踏み、冷たい跳ねが頬に当たる。
観測者だ。 ここにも、彼らはいたのだ。
あさひはこよいの肩を押し、壁の影に身を寄せた。 二人は息を殺し、松明の火種を袖で包む。 光が近づき、足音が通り過ぎる。 観測者たちは何かを運んでいるのか、低い唸り声と金属の擦れる音が混じった。
「出力、上昇」
「地脈の流速、安定」
機械的な声が坑道に反響し、耳に刺さる。 こよいはその無機質さに背筋が冷えた。
「……今だ」
あさひが口の動きだけで合図した。 こよいは頷き、風の神に頼んで足元の水を静めてもらう。 しずかな風が水面を押さえ、音が消えた。
二人は暗闇の奥へと滑り込む。 その先に、観測者の目的があると確信しながら。 背後で足音が遠ざかり、やがて坑道は再び静寂を取り戻した。 滴る水の音が戻り、心臓の鼓動だけが大きく響く。 風の神が小さく回り、暗闇の奥へ進む道を示した。あさひは剣を抜きかけ、また納めた。 二人は目を合わせ、無言で次の闇へ歩き出した。
