峠を越えると、嘘のように雨が小降りになった。 雷鳴も遠ざかり、雲の切れ間から薄日が差してくる。 けれど、道は最悪だった。
岩の隙間から水があふれ、道というより細い川だ。 足を置くたびに泥が盛り上がり、膝にまで跳ね上がる。 こよいは袖を絞り、冷えた指に息を吹きかけた。 風の神は小さく回り、体に張りつく水滴を少しだけ飛ばしてくれる。
粘土質の赤土が水を吸って、底なし沼のようになっている。 一歩踏み出すたびに、足首まで泥に埋まる。 引き抜こうとすると、重い音がして、体力を削り取っていく。
「……はぁ、はぁ」
こよいは、泥だらけの手で膝をついた。 草鞋はもう限界だ。紐が切れかけている。 着物の裾も泥で重く、鉄の鎖を引きずっているようだ。
「大丈夫か」
あさひが手を差し出した。 彼も泥だらけだが、足取りはしっかりしている。
「……うん。歩ける」
こよいは、あさひの手を借りて立ち上がった。 手のひらの温もりが、冷え切った体に染みる。
「無理するな。……この先に見晴らしの良い岩場がある。そこで休もう」
岩場に着くと、こよいは座り込んで草鞋を脱いだ。 足の裏がふやけて、白くなっている。豆が潰れて痛々しい。 岩陰には細い水の流れがあり、こよいは布を濡らして足を拭いた。 冷たい水が染みたが、痛みが少し和らいだ。 風の神が小さく息を吹きかけ、湿った足先を乾かしてくれる。 あさひは布切れを渡し、指の間に巻くように言った。
「短い歩幅で行け。無理に踏ん張ると、傷が深くなる」
こよいは頷き、布を巻き直した。 岩場の上から谷を見下ろすと、霧が薄く流れていた。 遠くの集落の屋根が、雲の間から一瞬だけ見える。 人の気配は小さいが、確かに生きている景色だった。 こよいは胸の奥で、そこにも風を届けたいと思った。
「これを塗れ」
あさひが、竹筒に入った軟膏をくれた。
「長にもらった薬だ。効くぞ」
緑色の、薬草の匂いがする軟膏。 塗ると、じわりと熱を持って、痛みが和らぐ。
「……ありがとう」
こよいは、新しい草鞋に履き替えた。 予備はあと一足しかない。 旅は、消耗との戦いだ。物も、体力も、気力も。 袋を覗くと、干し餅は半分ほどになっていた。 水筒はまだ重いが、雨の日が続けば火が起こしにくい。 こよいは指折りで残りの食糧を数え、胸の中で慎重な配分を決めた。 干し果物を一つだけ取り、あさひに差し出す。 あさひは一口で噛み、短く頷いた。
「食えるうちは進める。食えなくなったら、止まる」
その言葉は厳しいが、旅の現実だった。
「……ねえ、あさひ」
「ん?」
「あさひは、どうしてそんなに強いの?」
あさひは、剣を布で拭きながら考えた。
剣の刃には泥がこびりついている。 あさひはそれを丁寧に落とし、刃の曇りを確かめた。
「師匠は雨の日に稽古をさせた。剣は濡れるし、足場は滑る。だが、だからこそ体の使い方が分かる」
「嫌だった?」
「嫌いだった。でも、今は助かってる」
雨が降るたび、師匠の背中が思い出される。
「強くねえよ。……ただ、慣れてるだけだ」
「慣れてる?」
「泥道を歩くことも、雨に打たれることも、一人で寝ることもな。……ガキの頃から、そうやって生きてきた」
あさひの横顔に、影が差した。 師匠を奪われ、故郷を失い、一人で生きてきた時間。 その重みが、彼を強くしたのだ。
「……ぼくも、強くなれるかな」
「なってるさ」
あさひは、こよいを見た。
「最初にお前に会った時より、ずっといい顔をしてる」
「ほんと?」
「ああ。……目は口ほどに物を言うってな。お前の目は、もう『逃げる目』じゃない。『探す目』だ」
探す目。 神様を。真実を。神雧を。
「でも、見つけられなかったら?」
こよいは小さく呟いた。 答えを恐れている自分が、まだ心の奥にいる。
あさひは剣を布で拭き、ぽつりと言った。
「見つけられない日があっても、探し続ければ道は消えない」
「止まったら終わる。それだけだ」
こよいは胸の灯に手を当てた。 灯は小さく揺れ、けれど消えはしない。 この灯がある限り、足は前に出る。
「村にいた頃は、こんな風に歩くこともなかった」
こよいは自分に言い聞かせるように呟いた。 畑の端まで歩くだけで息が切れていた。 それでも今は、山の道を越えている。 胸の灯は、少しずつ大きくなっているのだ。
こよいは、空を見上げた。 雨上がりの空に、虹がかかっていた。 七色の橋。 その向こうに、何かが待っている気がした。
「昔、師匠に言われた」
あさひが小さく呟いた。
「目を逸らすな。怖くても、見続ければ道が見えるってな」
こよいは頷き、虹の端を目で追った。 雲の切れ間が広がり、山の稜線がはっきりと見える。 雨の向こうに、確かな地面がある。 風が濡れた髪を揺らし、こよいは肩の水気を払った。 しおりのことがふと頭をよぎる。 あの子は今も、同じ空の下で、ぼくを見守ってくれているのだろうか。 こよいは空に向かって小さく頷き、前を向いた。
「行こう」
こよいは立ち上がった。 足は痛い。泥は重い。でも、心は軽かった。
歩き出すと、道の先で小さな沢が行く手を塞いでいた。 雨で増水し、石の上を水が滑る。 あさひは先に渡り、腕を伸ばした。 こよいは息を止め、踏み石に足を乗せる。 滑りそうになるたび、風の神が背中を押し、体を支えた。 渡り終えると、こよいはほっと息を吐いた。 背中の荷が濡れて重くなっている。 あさひが縄を締め直し、荷を持ち上げるのを手伝った。 小さな作業でも、二人でやれば早い。
二人は、泥の道をまた歩き始めた。 虹の下を。 希望に向かって。 足元はまだ重く、痛みも残る。 それでも心の中には、先へ進む風が吹いていた。 道の先に、古い道標が立っているのが見えた。 雨に削られた文字が、かろうじて「茶屋」と読める。
休める場所が近い。 こよいは歩幅を整え、次の峠へ向かった。 鳥の声が一つだけ戻り、森の奥で短く鳴いた。その声に、こよいは少し笑った。 風の神も同じように小さく鳴き、雨上がりの匂いを吸い込んだ。
