雷鳴は、朝まで続いた。 空を引き裂くような轟音と、眼球を焼くような閃光。 こよいは一睡もできなかった。
「……止まないね」
「ああ。異常だ」
あさひは、お堂の入り口で腕組みをしていた。 その目は、雨の向こう側を睨みつけている。
「普通の嵐なら、通過すれば終わる。だが、こいつは居座っている」
「まるで、この山全体を閉じ込めようとしているみたいにな」
「閉じ込める……」
こよいは、山吹宿での「見えない壁」を思い出した。
あれと同じことが、ここでも起きているのだろうか。
『……あつい』
風の神が言った。
『……かみなりの、ねつが、つたわってくる』
雷の神。 どこかにいるのだろうか。 怒り狂って、雷を落とし続けているのだろうか。
「……行こう」
あさひが決断した。
「ここにいても埒が明かない。雨の中だが、進むぞ」
「うん」
二人は、再び雨の中へと飛び出した。 泥道はさらにぬかるみ、川のようになっている。 足を滑らせないように、慎重に歩く。 衣は重く、草鞋は水を含んで足に貼りつく。 雨粒が頬を叩くたび、冷えが骨まで染みてくる。 こよいは息を吐き、風の神に頼んで足元の水を少しだけ押し流してもらった。 薄い風の筋が、ぬかるみの表面を撫でる。 それでも泥は深く、歩くたびに脚が引き戻された。
頭上で、雷が鳴り響く。 バリバリッ! すぐ近くの杉の木に落ちた。 火花が散り、焦げた匂いが漂ってくる。
「走れ!」
あさひが叫んだ。 悠長に歩いていたら、直撃を受けるかもしれない。
二人は、泥まみれになりながら山道を駆け上がった。 雷は、まるで二人を狙っているかのように、執拗に追いかけてくる。 空を見上げると、雲の奥で青白い光が絡み合っている。 こよいはその光の向きに、怒りの芯があると感じた。 あさひは耳を澄ませ、雷の落ちる間隔を測る。 短い静寂の間に、二人は斜面を駆け抜けた。 風の神が小さく鳴き、雷の衝撃を少しだけ逸らした。 雷の余波で地面が裂け、泥が跳ねる。 こよいは足を滑らせたが、あさひが腕を掴み、転倒を防いだ。 転がった石が谷へ落ち、遠くで湿った音がした。 森の鳥が一斉に飛び立ち、獣の悲鳴が風に混じる。 自然のすべてが、この怒りから逃げようとしていた。
「……なんで!」
こよいは叫んだ。
「なんで、こんなに怒ってるの!」
答えは、風の中にあった。 風の神が、怯えながらも教えてくれた。
『……とられたから』
『……たいせつなものを、とられたから』
大切なもの。 それは、神としての誇りか、自由か。 それとも、仲間か。 こよいは胸の灯を抱え、雨の音に耳を澄ませた。 怒りの奥に、寂しさが混じっている。 誰かに見つけてほしい、という声が確かにある。 それを聞いて、こよいは一層強く願った。
「必ず見つける。怒りも、悲しみも、ちゃんと受け止める」
観測者は、神々から何を奪っているのだろう。 ただ力を利用するだけではない。もっと根本的な、存在の根幹に関わる何かを、奪い続けているのかもしれない。
こよいは、水路の神と出会った時のことを思い出した。 閉じ込められ、身動きもできず、ただ泣いていた小さな神様。 あの時はまだ知らなかった。 奪われる痛みが、こんなにも大きいことを。 こよいの胸に、怒りと決意が同時に灯る。
『……かなしい』
風の神が小さく呟いた。 こよいは巾着を握りしめ、風の神に頷き返した。
「……許せない」
こよいは、雨に濡れた顔を拭った。 怒りが湧いてきた。 神様を泣かせ、怒らせ、こんな嵐を起こさせるなんて。
峠の頂上が見えてきた。 木々の背が低くなり、風が強くなる。 古い石碑が道端に倒れており、雷に焦げた跡が黒く残っていた。 こよいはそれを跨ぎ、足を止めずに進む。 一歩ごとに、雨の重みが肩から落ちていくようだった。 そこには、小さな茶屋があった。 雨戸が閉ざされ、ひっそりとしている。
「あそこまで行けば!」
あさひが指差した瞬間、茶屋の屋根に雷が落ちた。 ドォォォン! 屋根が吹き飛び、炎が上がる。
「……っ!」
雨の中なのに、火は消えない。 神の怒りの炎だ。
熱が一瞬、顔を焼いた。 湿った空気の中で炎だけが乾いている。 こよいは袖で口元を覆い、煙を避けた。 風の神が短い風を起こし、火の粉を遠ざける。 茶屋の梁が崩れ、火花が雨に散って消えた。
「迂回するぞ!」
あさひが進路を変える。 茶屋には近づけない。 炎と雷の結界が、そこにあるかのようだった。
裏手の獣道に入ると、木々が一層濃くなった。 枝が風に揺れ、濡れた葉が顔を打つ。 こよいは袖で目を拭いながら、足場の安全を確かめた。
「……これ、いつまで続くのかな」
「雷の神が収まれば、終わる」
「収まるって、どうすれば……」
あさひは答えず、前を見た。 答えは、まだ見えていない。
獣道は狭く、片側は急な崖になっていた。 足を踏み外せば、そのまま濁流へ落ちる。 こよいは息を整え、足裏で地面の硬さを確かめながら進む。 あさひは先を歩き、危ない場所では手を伸ばした。
「焦るな。雷は落ち続けるが、落ちる場所は選べる」
あさひの言葉に、こよいは頷く。 怒りの中でも冷静でいること。 それが、神の怒りを鎮めるための第一歩なのかもしれない。
風の中に、かすかな匂いが混じる。 雨の匂いに、焦げた金属の匂いが重なっていた。 こよいは眉をひそめ、観測者の気配を探す。 遠くの谷に、白い光が点滅しているのが見えた。 耳を澄ますと、低い機械音が山肌を震わせている。 ここからでは近づけない。 あさひは視線で谷を指し、後で戻ることを示した。 こよいはその光を目に焼き付け、必ず止めると心に刻んだ。
「……いる」
「今は相手にできない。抜けるぞ」
二人は尾根へと登った。 岩肌を伝う雨が冷たく、手が痺れる。 それでも上へ進むと、雲の厚みが少しだけ薄くなっていく。 雷鳴はまだ止まないが、音が遠くへずれていくのが分かった。
「向こう側なら、雨が弱いかもしれない」
こよいは頷き、最後の急斜面をよじ登った。 峠の風が背中を押し、二人は雲の縁へ飛び込んだ。 背後で雷が落ち、轟音が尾を引く。 前方には、薄い光の帯が見えた。 雲の向こうに、別の空気が待っている。 こよいは一度だけ振り返り、荒れた空に向かって小さく手を合わせた。 あさひはその手を軽く引き、無言で先へ促す。 こよいは頷き、雲の境目に足を踏み入れた。 雨粒が少しだけ細くなった気がした。 湿った風が頬を撫で、雷の匂いがわずかに薄れていく。 こよいは肩の力を抜き、次の一歩を確かめるように踏み出した。 あさひは前を指差し、小さな岩陰に身を寄せるよう合図した。 嵐の中心から離れつつあることを、二人は肌で感じた。 それでも後ろには怒りの気配が残り、雷鳴が追いかけてくる。 こよいは立ち止まらず、ただ前を見た。 風の神が小さく鳴き、進むべき方向を確かめるように回った。 こよいはその合図を頼りに、濡れた岩を越えた。 手のひらが冷え切っていたが、心だけは熱かった。 二人はその熱を頼りに、峠を越えていった。
