雨は、夜になっても止まなかった。 お堂の中は、焚き火の明かりで薄ぼんやりと照らされている。 壁に映る影が、炎のゆらめきに合わせて踊っている。
「……このお堂、何だろう」
こよいは、お堂の中を見回した。 奥には祭壇のようなものがあるが、仏像も神棚もない。 ただ、石で作られた小さな台座があるだけだ。
「古い社だな」
あさひが言った。
「山岳信仰の名残だろう。……神様はもういないみたいだが」
こよいは、台座に近づいた。 手を触れてみる。 冷たい。ざらざらとした石の感触。でも、どこか懐かしい感じがする。
『……いたよ』
風の神が言った。
『……ここにも、ともだちがいた』
「友達?」
『……ちいさな、つちのかみさま。……でも、もういない』
「……どこへ行ったの?」
『……かえった。……つちのなかに』
土に還った。 それは、死を意味するのだろうか。 それとも、眠りについただけなのだろうか。
「……寂しいね」
こよいは呟いた。 この世界には、忘れ去られた神様の痕跡が溢れている。 誰も祈らず、誰も思い出さず、ただ静かに消えていく神々。
「だから、集めるんだろ」
あさひが言った。
「お前が忘れないでいれば、神様は消えない。……神雧の場所まで連れて行けば、また会える」
「……うん」
こよいは、台座に向かって手を合わせた。もし、まだここに魂の欠片が残っているなら。 どうか安らかに。 そしていつか、神雧の場所で。
祭壇の脇に、煤で黒くなった木札が倒れていた。 こよいが起こしてみると、かすれた文字が見える。
「土守」「畑守」――短い名が、いくつも彫られていた。
「これ、名前かな」
「土地の神だな。昔は畑ごとに名を付けて祀っていたんだろう」
木札の裏には、小さな指の跡が残っていた。 祈りのたびに触れられた痕だ。 こよいは布でそっと拭い、もう一度台座の脇に立てかけた。 風の神が巾着の中で静かに回り、懐かしそうな気配が流れた。
「……忘れられた神様は、眠ってるだけなのかな」
「眠ってるのもいる。……けど、起こすには誰かが呼ばなきゃならない」
「呼ぶって……名前を覚えること?」
「そうだ。名前が消えれば、形も消える」
こよいは頷いた。 名前を覚えることは、命を繋ぐことだ。 神雧の場所へ連れて行くための道しるべでもある。
外では雨が竹を叩き、山が低く唸っていた。 屋根を流れる水は途切れず、床には薄い水溜まりができ始める。 あさひは入口に布を詰め、風の神は小さな風で雨粒を押し返した。 お堂の中には、焚き火の煙と湿った土の匂いが混じり合う。
その時。 ゴロゴロ……と、遠くで音がした。 雷だ。
「……近づいてくるな」
あさひが天井を見上げた。 雨音に混じって、雷鳴が次第に大きくなってくる。 光った。 一瞬、お堂の中が昼間のように明るくなる。
『……ひゃっ!』
巾着の中で、風の神が跳ねた。 怯えている。
「大丈夫だよ」
こよいは巾着を撫でた。
「ただの雷だよ」
『……ちがう。……ただの、かみなりじゃない』
風の神の声が震えている。
『……あれは、いかりだ。……かみさまの、いかり』
怒り。 雨の神の悲しみ。雷の神の怒り。 この嵐は、神々の感情が暴走しているものなのかもしれない。
「……観測者の仕業か」
あさひが剣に手をかけた。
「面倒なことになりそうだぞ」
バリバリバリ! 近くで雷が落ちた。 地面が揺れる。 お堂が軋み、埃が舞い落ちてくる。
「梁が持つか……」
あさひは天井を見上げ、柱の揺れを確かめた。 こよいは焚き火の側に土を寄せ、火の粉が飛ばないように囲った。 風の神が薄い壁を作り、火が消えないように護っている。
雷鳴が続いた。 一度光るたびに、こよいの影が壁に大きく伸びる。 影の縁が揺れて、どこか別の世界が覗いた気がした。
「……雨の神、ここにいるのかな」
「いるなら、近い」あさひは短く答えた。「雷は山の向こうに落ちている。中心はあっちだ」
こよいは目を閉じ、雨の音に耳を澄ませた。 叩きつける音の奥に、すすり泣くような細い響きがある。 誰かが怒り、誰かが悲しんでいる。 それが重なり合って、この嵐になっている。
「……ごめん」
小さな声が、雨に混ざって聞こえた気がした。 こよいは巾着を胸に抱き、ただ頷いた。
夜は長く、雷は弱まる気配がない。 あさひは入口で見張りを続け、こよいは火の側で身を縮めた。 夢と現実の境で、こよいは何度も雨の神の名を呼んだ。
火が小さくなると、こよいは薪を足した。 湿った木はなかなか燃えず、風の神が息を吹きかけてようやく火が立ち上がる。 赤い光が揺れるたび、祭壇の陰に何かが映った。 それは石の欠片で、小さな鈴が埋まっていた。
こよいはそっと掘り起こし、鈴を掌に載せた。 錆びていたが、振ると微かな音が鳴る。
「まだ、聞いてくれるかな」
こよいは鈴を揺らし、土の神の名を心の中で呼んだ。 返事はない。 けれど、風が鈴の余韻を大事そうに守った。
あさひが背中越しに言った。
「雷は怖いか」
「……うん。でも、それ以上に悲しい」
「俺は雷が嫌いだ。あの日、落雷で師匠の家が燃えて——その混乱に乗じて、奴らは師匠を連れ去った」
あさひは淡々と語った。
「それ以来、空が光ると体が勝手に固くなる」
こよいは黙って火を見つめた。 炎の揺れに、あさひの過去が重なって見える。 誰も守れなかった夜。 だから今は、守るために立っている。
雨が少しだけ弱まった瞬間、こよいは外へ出ようとした。 あさひが腕を掴む。
「危ない」
「……少しだけ。雨の匂いを確かめたい」
戸を開けると、冷たい風が顔を打つ。 山の向こうで、青白い光が渦を巻いているのが見えた。 雲がそこに吸い寄せられている。 こよいは胸が締め付けられ、思わず一歩踏み出した。 その瞬間、雷が落ち、空が裂けた。 あさひが引き戻し、二人は再びお堂の中へ倒れ込んだ。
「……近い。雨の神は、きっと近い」
こよいは息を切らし、巾着を抱いた。 風の神が小さく鳴き、同意するように回った。
火の側に戻ると、あさひが水筒を差し出した。 こよいは一口だけ飲み、喉を潤す。 冷たさが胸の奥まで落ち、心が落ち着いた。
「あした、峠を越える」あさひが言う。「雨が止まなくても、動くしかない」
こよいは頷いた。 雨の神の気配は確かに近づいている。 このまま留まれば、怒りの中心を見失う気がした。
焚き火の火がゆらぎ、煙が天井に溜まる。 外の雨はなお激しく、お堂の屋根を叩き続けていた。 こよいは炭を一本取り、木札の裏に小さく名を書いた。 土守、と。 掠れた文字は頼りないが、忘れないという印だ。 あさひはそれを見て、無言で頷いた。
「記したなら、残る」
その言葉が、こよいの胸に静かに落ちた。 こよいは火の側に身を寄せ、あさひは入口に立ったまま夜を見張る。 短い交代の約束だけ交わし、二人は静かに嵐をやり過ごした。 雨音が一瞬だけ弱まり、遠くの山がぼんやりと見えた。 すぐに雷が空を裂き、また闇が戻る。 こよいはその闇に目を慣らし、朝の匂いを待った。
嵐の夜は、まだ始まったばかりだった。
