第051話 雨の気配
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第051話 雨の気配

第2章 鈴の導き

森の朝は早かった。  木々の隙間から青白い光が差し込んでくる。つゆが葉を濡らし、空気は冷たく湿っている。焚き火の灰を踏むと、かすかに熱が残っていた。  こよいは濡れた草鞋わらじを直し、巾着きんちゃくの結び目を確かめた。風の神が小さく動き、朝の湿り気に戸惑っているようだった。  草鞋わらじひもが湿って緩みやすく、こよいは何度も結び直した。雨が来る前に山を越えたい。胸の中に焦りが少しだけ生まれる。

「……雨が降るな」

あさひが空を見上げてつぶやいた。  雲の流れが速い。西の空から鈍色にびいろの雲が広がってきている。森の匂いが変わっていた。土と草の匂いに混じって、水気を含んだ重い匂いがする。

「急ぐぞ。雨が降る前に、山を越えたい」

「うん」

こよいは巾着きんちゃくを腰に結び直し、あさひの後を追った。  昨日までの乾いた風とは違う、湿った風が頬を撫でる。  巾着きんちゃくの中の風の神が、少しだけ落ち着かない様子で動いている。  風が湿気を含み、髪が肌に張り付く。こよいはそでで額を拭き、足を速めた。  木々の上で雲が流れ、光が遮られる。森の色が一段暗くなり、足元の影が長く伸びた。雨の気配が、景色の色まで変えていく。

『……あめ、くる』

『……つよい、あめ』

「強い雨?」

『……うん。そらが、ないてる』

風の神の言葉通り、昼前にはポツリポツリと雨粒が落ちてきた。  最初はまばらだったが、すぐに本降りになった。ザーザーと、森全体を叩くような激しい雨。枝が揺れ、葉の裏が白く光る。

「ちっ、思ったより早いな」

あさひが舌打ちした。  山道はすぐにぬかるみ、足を取られるようになった。草鞋わらじが泥に沈み、冷たい水が足袋たびに染み込んでくる。肩の荷が重くなり、息が荒くなる。

「こよい、大丈夫か」

「……うん、平気」

こよいは笠を目深に被り、雨粒を避けた。  視界が悪い。数メートル先も見通せないほどの雨足だ。  雨音にかき消されて、お互いの声も届きにくい。  風の神の声も、雨に打ち消される。巾着きんちゃくを押さえても、風は落ち着かないまま揺れていた。  雷が遠くで鳴り、森全体が震えた。こよいは肩をすくめ、足元を確かめるように進んだ。泥が跳ね、足袋たびが重くなる。

「雨宿りできる場所を探そう」

あさひが叫んだ。  このまま歩き続ければ、体力を奪われて遭難そうなんしかねない。

しばらく歩くと、道の脇に小さなおおどうが見えた。  古びた木造の建物。入り口の扉は外れているが、屋根はある。柱には古い札が貼られ、文字が雨でにじんでいる。  札の文字はほとんど読めないが、かすかに「守り」の字が残っていた。ここも昔は誰かに守られていたのだろう。

おどうはりには蜘蛛くもが張り、雨の粒がそこに絡まって光っていた。こよいはそっと手で払う。小さな祈りの場所に、今は雨の音だけが満ちている。

「あそこだ!」

二人は泥にまみれながらおおどうに駆け込んだ。  中は薄暗く、ほこりっぽい。けれど、雨は防げる。こよいは笠を脱ぎ、濡れた着物のそでを絞った。冷たい水が滴り落ちる。体中が冷え切っている。  床には小さな木彫りのきつねが倒れていた。こよいはそれを起こし、隅にそっと置いた。祈りの形は分からないが、倒れたものを起こしたくなった。  きつねの木肌は湿っていて冷たい。こよいはてのひらで温めるように触れ、静かに手を合わせた。

「火を焚くぞ」

あさひが、おおどうの隅にあった枯れ木を集めた。  湿気ていてなかなか点かなかったが、何度か火打ち石を叩くと、ようやく小さな炎が上がった。  火の匂いが広がり、湿った空気が少しだけ軽くなる。  炎が濡れた木を焦がし、ぱちぱちと弾ける音が耳に残る。こよいは手をかざし、冷えた指先に戻る熱を確かめた。  火が揺れるたびに、壁にかかった影が揺れる。風の神が巾着きんちゃくの中で小さく震え、雨の音に反応しているのが分かった。  屋根を叩く雨音が途切れず続き、時折大きな水滴がはりから落ちてくる。こよいは肩をすくめ、火が消えないように木を寄せた。

「……すごい雨だね」

こよいは入り口から外を見た。  雨のカーテンが、森を白く塗りつぶしている。滝のような雨音。木々が揺れ、地面が水を吸ってぬかるんでいく。

『……ちがう』

巾着きんちゃくの中から、風の神の声がした。

『……これは、ただのあめじゃない』

「え?」

『……だれかが、なかされている』

「誰が?」

『……あめのかみさま』

その言葉に、こよいは胸の奥がざわついた。これから向かう道は、また新しい神の痛みに繋がっている。

雨の神様。  こよいは空を見上げた。  この激しい雨は、神様の涙なのだろうか。誰かが、神様を泣かせているのだろうか。

「……観測者かんそくしゃ?」

「かもしれないな」

あさひが火を見つめながら言った。

「奴らは天候てんこうさえも制御せいぎょしようとする。……無理やりにでもな」

雨音が、悲鳴のように聞こえてきた。  こよいは巾着きんちゃくを強く抱きしめた。湿った空気の中で、風の神が小さく震えている。  外では雷が遠くで鳴り、光が森の影を一瞬だけ切り裂いた。こよいはその光に、別の泣き声が混じっている気がした。  雨の匂いが濃くなり、胸の奥がざわつく。誰かが泣いているなら、放ってはおけない。こよいは火の前で静かに拳を握りしめた。  雨脚はさらに強くなり、おおどうの屋根が震える。雨粒がはりを伝い、床に小さな水たまりができた。こよいは着物のすそを持ち上げ、火が濡れないように気を配った。雨が落ちる音の中に、確かに誰かの声が混ざっている。

「雨が弱まったら、向かう」

あさひが低く言った。こよいはその言葉に頷き、巾着きんちゃくを胸に抱える。雨の向こうの神に、まだ届かないとしても、心だけは先に向かっていた。  雨の向こうで、弱い雷が光った。山の向こうで誰かが助けを求めている。その感覚が、こよいの胸を強く打った。  雨粒が肩に落ちるたびに、こよいの背中が少しずつ冷える。それでも、心は熱かった。泣いている神がいるなら、見過ごせない。

この雨の向こうに、助けを求めている誰かがいる。  それが雨の神なら、見過ごすことはできない。

こよいは火の揺らぎを見つめ、静かに頷いた。  次に向かうべき場所が、もう心の中で決まり始めていた。  雨の向こうに、泣き声がある。なら、行くしかない。こよいはそう思い、巾着きんちゃくを胸に抱えて目を閉じた。  風の神が小さく「うん」と呟いた気がした。こよいはその声に応えるように、深く息を吐いた。

あさひは無言で立ち上がり、外の雨を一度だけ見た。視線は遠く、次の道を確かめている。こよいはその背中を見て、同じ方向を見る覚悟かくごを決めた。  雨はまだ激しいが、いつか必ず止む。その時に山を越える。こよいは火の残りを見つめ、雨の向こうの道を心の中で描いた。  雨の音が遠くで低くうなり続け、こよいの決意だけが静かに燃えていた。  巾着きんちゃくの中で風が小さく回り、雨の神の涙に耳を澄ます。こよいはその音を覚え、必ず辿り着くと心に誓った。  雨の向こうで、山の輪郭りんかくが淡く浮かんでいる。

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