第484話 海の静まり
484

第484話 海の静まり

第16章 余白の終点

海(うみ)が止まっていた。

波がない。風もない。水面(みなも)は鏡のように平らで、空を映している。空には雲がなく、色もない。白でも青でもない、名前のつかない色がどこまでも広がり、その色がそのまま海面に落ちて、境界(きょうかい)が消えていた。

空と海(うみ)の境はなく、こよいは砂浜で動けなかった。

波も風も生き物も聞こえず、自分の呼吸と心臓だけが耳の奥で響いている。

「凪(なぎ)だ」

久遠(くおん)が言った。その声が、この場所で唯一の音(おと)だった。声は空気の中を真っ直ぐ進み、反射も吸収もされず、ただ遠くへ消えていった。

「ただの凪(なぎ)じゃない。海(うみ)そのものが記録(きろく)を止めている。波は水の運動(うんどう)の記録(きろく)だ。風は大気の運動(うんどう)の記録(きろく)だ。その両方が止まっている。この海(うみ)は、あらゆる運動(うんどう)の記録(きろく)を拒否している」

あさひが水際に近づいた。泡も漂流物もなく、海と砂の間には何の運動もなかった。久遠は「死ではなく、眠らされている」と筆談し、目録へ指をかけた。

紙が鳴らない。いつもなら頁(ページ)をめくるときに微かな音(おと)がする。紙が空気を切る音(おと)。だが今は、指が紙に触れても音(おと)がしない。音(おと)そのものが、この場所では生まれない。

久遠(くおん)は無言で頁(ページ)を開いた。

目録(もくろく)の文字は読める。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)も点(とも)っている。だが光が水面(みなも)に反射しない。蒼い光が海(うみ)に向かって放たれ、そのまま吸い込まれていく。反射がないということは、光もまた記録(きろく)として拒否されているということだ。

こよいは巾着(きんちゃく)を握った。

神々が脈打っている。だが、いつもより弱い。温もりはある。だが音(おと)がない。神々の脈動(みゃくどう)がこよいの掌(てのひら)に伝わってくるとき、いつもはかすかな振動音(しんどうおん)が伴う。それが今は聞こえない。

「神々が静かになってる」

こよいの声が震えた。

「消えかけてるんじゃない。この場所が、音(おと)を許さないだけだ。神々は生きている。ただ声を出せない」

久遠(くおん)が言ったが、その声にも確信がなかった。

三人は海岸(かいがん)を歩いた。

足音(あしおと)がしない。砂(すな)を踏んでいるはずなのに、靴底が砂(すな)に触れる音(おと)がしない。自分が歩いているという実感が薄れていく。視覚では足が動いている。触覚(しょっかく)では地面を踏んでいる。だが聴覚(ちょうかく)だけが欠けている。

こよいは自分の手を打った。掌(てのひら)と掌(てのひら)をぶつけた。衝撃(しょうげき)はある。皮膚が赤くなる。だが無音。音(おと)が生まれた瞬間に、何かに吸い取られている。

「聞こえない」

声に出したつもりだった。喉(のど)が動いた。息を吐いた。だが自分の声が聞こえない。

こよいは恐怖で立ち止まりかけた。

あさひが肩を叩(たた)いた。振り向くと、あさひが口を動かしている。何か言っている。だが音(おと)がない。唇(くちびる)の形を読もうとした。

『聞こえる』

あさひがゆっくりと口を動かした。

『聞こえるか』

こよいは首を振った。聞こえない。

あさひは眉(まゆ)をひそめ、久遠(くおん)を見た。久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じ、二人の前に立った。口を開き、何か言った。唇(くちびる)が動いたのは見えた。だが音(おと)がない。

三人とも、声を失っていた。

ここは声の届かない場所だ。返らぬ声の谷(たに)では反響(はんきょう)が奪われた。静かな決まりの窪地(くぼち)では、声が記録(きろく)を消す武器になった。だがこの海岸(かいがん)は、それらとは違う。声そのものが存在できない。

こよいの目に涙が浮かんだ。

名前を呼べない。久遠(くおん)の名も。あさひの名も。神々の名も。声にならない。声にしようとしても、喉(のど)から出た瞬間に音(おと)が溶けて消える。

久遠(くおん)が写本(しゃほん)を取り出した。鉛筆(えんぴつ)で書く。

『音(おと)が消えている。海(うみ)が音(おと)の記録(きろく)を拒否している。だが文字は残る。筆談(ひつだん)で伝えろ』

こよいは頷(うなず)いた。涙を拭(ぬぐ)い、写本(しゃほん)を受け取った。

『怖い。声が出ないのが怖い』

久遠(くおん)が書き足した。

『怖くていい。怖いと感じていること自体が、お前がまだ消えていない証拠(しょうこ)だ』

あさひが写本(しゃほん)を奪い取り、大きな字で書いた。

『前へ行く。止まるな』

三人は再び歩き出した。

無音の海岸(かいがん)を、声のない三人が歩いている。砂(すな)を踏む感触(かんしょく)だけが、地面と自分を繋(つな)いでいる。こよいは巾着(きんちゃく)を握り、神々の温もりを確かめ続けた。音(おと)はない。だが熱はある。脈動(みゃくどう)はある。

海(うみ)は凪(な)いだまま、何も映さず、何も返さない。

歩いていると、砂浜(すなはま)の質が変わった。砂(すな)が細かくなり、足が少し沈む。水際(みずぎわ)が近づいている。凪(な)いだ水面(みなも)が、あと数歩の距離に迫っていた。

久遠(くおん)が足を止めた。

水面(みなも)を覗き込んでいる。鏡のような海面(みなも)に、久遠(くおん)の顔が映るはずだった。だが映っていない。水面(みなも)はただ平らに広がり、そこには何も映っていなかった。

久遠(くおん)が写本(しゃほん)に書いた。

『反射がない。光も、姿も、何も映さない。この海(うみ)は観測(かんそく)を拒否している。見ることも、見られることも、すべてを断っている』

こよいは海(うみ)を見た。

広い。どこまでも広い。境界(きょうかい)のない、音(おと)のない、色のない、何も映さない海(うみ)。この海(うみ)の向こうに何があるのか、想像することさえ難しかった。

だが、こよいは気づいた。

海面(みなも)が完全に平らではない。わずかに、ほんのわずかに、揺れている場所がある。凪(なぎ)のはずの海面(みなも)に、呼吸(こきゅう)のような微かな起伏(きふく)が見える。一箇所だけ。

こよいは写本(しゃほん)に書いた。

『あそこ。海面(みなも)が少しだけ動いてる』

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を向けた。蒼光(そうこう)が水面(みなも)の一点を照らす。光は吸い込まれたが、義眼(ぎがん)の焦点が微かな起伏(きふく)を捉(とら)えた。

久遠(くおん)の表情が変わった。

写本(しゃほん)に走り書きした。

『名前だ。海(うみ)の底に名前が沈んでいる。まだ消えきっていない名前が、海面(みなも)を揺らしている。声は出せなくても、名前そのものがまだ呼吸(こきゅう)している』

こよいは涙を拭(ぬぐ)わなかった。拭(ぬぐ)う必要がなかった。涙は声の代わりだ。音(おと)のない場所で、涙だけが感情の記録(きろく)として残る。

あさひが三人の前に立ち、海(うみ)に向かって大剣を構えた。斬(き)れる相手はいない。だが剣を構えるという行為が、あさひの「ここから先も進む」という意思表示だった。

海(うみ)は凪(な)いだままだった。

だが、海面(みなも)の一点だけが、まだ揺れている。

消えきっていない名前が、声も出せないまま、海(うみ)の底で息をしている。

こよいは巾着(きんちゃく)を海(うみ)に向けた。神々の温もりが、布越しに掌(てのひら)を伝い、空気に溶けていく。音(おと)にはならない。だが熱は届く。

海面(みなも)の揺れが、ほんの少しだけ大きくなった気がした。

三人は凪(な)いだ海岸(かいがん)に立ち、次の一歩を探していた。音のない世界で、熱だけを頼りに。

おたまが水際を横切ると、猫の影の下だけ海面が微かに揺れた。苗床から伸びた根が、島の内側にあるこの凪の海まで届いたのだ。小鈴は鳴らない。それでも四人は揺れの列を追い、対岸に浮かんだ石畳へ向かった。情報の海が島の外、凪の海が島の内に沈んだ名を守る器だと、ここで初めて区別できた。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます