第409話 記録の墓場
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第409話 記録の墓場

第14章 風の残像

柱(はしら)の森だった。

石でも木でもない。記録(きろく)が固まって柱(はしら)になっていた。一本一本に文字が刻まれている。風が吹き抜けるたびに、文字同士が擦(す)れ合い、微かな声のような音を立てた。

「帰りたい」「帰りたかった」

声ではなかった。文字が振動しているだけだった。けれど、こよいの耳にはそう聞こえた。

柱(はしら)は地平線の向こうまで並んでいた。天井はなく、上は霧(きり)で閉ざされている。霧(きり)の中から光の粒子(りゅうし)が降り注ぎ、柱(はしら)の表面に触れると弾(はじ)けて消えた。

「記録(きろく)の墓場だ」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を凝らしながら言った。

「柱(はしら)に刻まれているのは、神々の末期(まつご)の言葉だ。観測者(かんそくしゃ)がここで霊核(れいかく)を解体した。名前から感情を切り離し、無機質な記録(きろく)に変えた。柱(はしら)に残っているのは、切り離された後の殻(から)だ」

こよいは一番近くの柱(はしら)に手を伸ばした。

おたまが先に柱の根元を嗅(か)ぎ、小鈴を鳴らさず身を伏せた。猫の髭(ひげ)に透明な測定糸が一本触れ、過去を引き出せないまま弾かれる。名も記録も持たないおたまは網に読まれないが、その姿で糸の位置を三人へ教えられた。

冷たかった。氷よりも冷たい。触れた指先から体温が奪われていく。だが、その冷たさの奥に、微かな鼓動(こどう)があった。脈ではない。もっと細い。最後まで消えなかった何かが、柱(はしら)の芯に一粒だけ残っている。

誰かを想う心の、最後の痕跡(こんせき)だった。

こよいの指先が温もりを伝えた。柱(はしら)の表面が、触れた場所だけわずかに色を取り戻す。刻まれた文字が淡い金色に光った。一瞬だけ。すぐに灰色に戻った。理(ことわり)の冷気が温もりを押し潰した。

手を離した。指先が白い。

柱(はしら)と柱(はしら)のあいだに、透明な糸が張られていた。幾重にも、網(あみ)のように。

「測定(そくてい)の網(あみ)だ」

久遠(くおん)が立ち止まった。

「触れた者の記憶(きおく)を引き出す装置だ。糸に掛かると、こちら側の記憶(きおく)が抽出される」

こよいは一歩踏み出すたびに、糸が肌を掠(かす)めるのを感じた。過去の記憶(きおく)が引きずり出されそうになる。仲間との食事、神々の笑顔、雨の日の温もり。それらが糸に絡め取られ、柱(はしら)に刻まれる「新たな末期(まつご)の言葉」になりかける。

歯を食いしばった。巾着(きんちゃく)を押さえ、中の名前たちが怯(おび)えるのを掌(てのひら)で宥(なだ)めながら、足を進めた。

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を柱(はしら)の刻印(こくいん)に当てていた。文字の下に隠された二重三重の暗号が浮かび上がり、瞳の中で解読されていく。義眼(ぎがん)の周縁(しゅうえん)から煤(すす)のような涙が一筋、頬(ほお)を伝った。

それでも目を逸(そ)らさなかった。

「裁断(さいだん)の手順が記録(きろく)されている。感情の切り離し方。名前の分解方法。全部、この柱(はしら)に刻まれている」

声が低く震えた。研究者としての興奮と、人間としての嫌悪(けんお)が入り混じっていた。

「解体の手順を知れば、復元(ふくげん)の手順も分かる。これは鍵(かぎ)だ」

こよいが訊いた。

「あの子たちの笑顔も、切り離されたの」

「切り離された。だが——」

久遠(くおん)は頁(ページ)から顔を上げた。

「捨てられたとは限らない。切り離されたものが、どこかに保管されている可能性がある。この手順書にはそうした記述がある」

あさひは柱(はしら)の林の最奥を見ていた。

他とは違う一本の柱(はしら)が、微かに金色の光を帯びている。末期(まつご)の嘆きではなく、別の何かが刻まれているように見えた。

「あの柱(はしら)だ」

あさひが顎(あご)で示した。

「光ってるのが一本だけある。あそこまで行く」

こよいは巾着(きんちゃく)を握り直した。測定(そくてい)の網(あみ)が密になっている。奥に進むほど糸が細く、数が増えた。

あさひが先に立った。影を抜けたところで布を巻き直した剣で、糸を横に払う。糸は切れず、包みに巻き付いた。あさひはそれを振り払い、次の糸を払い、三人の通る道を一本だけ開けた。

金色の柱(はしら)の前に立った。

刻まれていたのは末期(まつご)の言葉ではなかった。

「読み方」だった。

この墓場の記録(きろく)を、どう読めば名前を取り戻せるか。解体された記録(きろく)を、どう組み直せば元の姿に戻せるか。それが、金色の文字で刻まれていた。

久遠(くおん)が息を呑(の)んだ。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が強まり、文字を一行ずつ焼き付けていく。

「……残した奴がいる。観測者(かんそくしゃ)の中に、解放の手順を残した奴がいた」

柱(はしら)の森に、末期(まつご)の声が擦(す)れ合って響いていた。「帰りたかった」という声の中に、こよいは別の声を聞いた。

「読め」

それは命令ではなかった。祈りだった。この記録(きろく)を読むことが、ここに閉じ込められた名前たちを解放する最初の一歩になる。金色の柱(はしら)を刻んだ誰かは、それを知っていた。

こよいは巾着(きんちゃく)の温もりを確かめた。名前たちが、金色の文字に向かって静かに脈打っている。布越しに伝わる脈動(みゃくどう)は、柱(はしら)の金色の文字と同じ拍(はく)を刻んでいた。霧(きり)の中から降る光の粒子(りゅうし)が、金色の柱(はしら)の周囲だけは弾(はじ)けずに吸い込まれていく。

読むことが鍵(かぎ)だった。

ただし、読めば観測者にも読者の位置が伝わる。金色の柱の奥で、別の糸が一本だけ震え始めた。久遠(くおん)は必要な手順だけを義眼へ焼き付け、柱から目を離した。鍵を得た代わりに、こちらも見つかったのだ。  読むことは、見られること。それでも読まなければ、道は分からない。久遠(くおん)は危険を承知で、震える一本の糸の先へ、義眼(ぎがん)の光を差し向けた。金色の柱の奥で、何かがこちらを見返した気がした。  見返してくる何かの視線を、久遠(くおん)は逸(そ)らさなかった。

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