第408話 影のずれ
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第408話 影のずれ

第14章 風の残像

経蔵(きょうぞう)の黒い門を潜った先に、本殿はなかった。

門は経蔵そのものではなく、静止の圧力の外へ投影された第一外門だった。久遠(くおん)が門柱の裏に残る刻印を読み、そう断じた直後、背後の白い停車場は閉じた。前には幾重もの回廊が続き、そのさらに奥にだけ、紙と墨の匂いがある。

経蔵へ着いたのではない。経蔵の防壁へ入ったのだ。

影(かげ)が、厚かった。

足元の石畳(いしだたみ)に落ちる影(かげ)が、靴底を通してこよいの足裏を押し返している。影(かげ)に重さがある。踏むたびに沈む感覚があり、次の一歩を置く場所を選ばなければならなかった。影(かげ)の厚さは均一ではない。濃い場所では靴が半分ほど沈み、薄い場所ではかろうじて石畳(いしだたみ)の固さが残っていた。

空気もおかしい。息を吸うと肺の奥がわずかに重くなる。吐くと、吐いた息が白くならないのに冷たい。温度ではなく、密度が変わっている。空気の一粒一粒に、記録(きろく)の残滓(ざんし)が詰まっているような圧迫感があった。

石畳(いしだたみ)の亀裂(きれつ)から、煙のようなものが這(は)い出していた。蒼白く、低く、足首のあたりを漂(ただよ)う。かつてこの道を通った旅人の記憶(きおく)の残滓(ざんし)だと、後で久遠(くおん)が言った。煙は風に巻き上げられると影(かげ)と混ざり、前方の道を枝分かれさせていく。

三つの道が、五つになった。五つが八つになった。どの道も同じ幅で、同じ角度で曲がり、同じ暗さの奥に続いている。壁の石の色、亀裂(きれつ)の走り方、苔(こけ)の付き方まで、八つの道は完全に同じだった。

迷路ではない。迷路には正解がある。ここには、正解そのものが隠されている。

久遠(くおん)は石畳(いしだたみ)の上に膝(ひざ)をつき、目録(もくろく)を広げていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が頁(ページ)の上を走る。古い文字列が浮かんでは消え、配列を変えてまた浮かぶ。額に薄い汗が滲(にじ)んでいた。蒼光(そうこう)が頁(ページ)と影(かげ)の間を行き来するたび、義眼(ぎがん)の周縁(しゅうえん)に負荷の色が浮かんでいた。

「影(かげ)が俺たちより先に動いている」

声を低くして言った。

「分岐(ぶんき)は影(かげ)が作っている。俺たちが一歩踏み出す前に、道を増やして正解を埋めてやがる。観測者(かんそくしゃ)が仕掛けた分岐(ぶんき)だ」

目録(もくろく)の頁(ページ)を弾(はじ)くと、指先から蒼白い火花が散り、影(かげ)の壁面に古い座標(ざひょう)が一瞬だけ浮かんだ。正解の道筋が、一呼吸(ひとこきゅう)だけ見えて消えた。

こよいは巾着(きんちゃく)を握った。神々が脈打っている。温もりは変わらないのに、その奥に鋭い警戒の色が混じっていた。名前たちが、この場所の異常を感じ取っている。布越しの脈動(みゃくどう)が速く、浅くなっている。怯(おび)えではなく、危険を報(しら)せる拍動(はくどう)だった。

「……全部偽物(にせもの)なの」

「全部が偽物(にせもの)じゃない。本物の道が一本だけ、偽物(にせもの)の中に紛れている。だが見た目では分からない」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を抱え直した。

「見た目で分からないなら、別の方法で探す。影(かげ)は視覚を騙(だま)す。だが——」

言葉を切った。何かを確かめるように、義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を足元に向ける。

こよいは靴を脱いだ。

おたまは影へ沈まなかった。影を持たない脚で八本の入口を歩き回り、そのうち一本だけで小鈴を鳴らす。こよいが同じ場所へ素足を置くと、石の下から金色の熱が返った。猫が先に見つけた差を、こよいの身体が確かめた。

素足を石畳(いしだたみ)に置いた。冷たい。影(かげ)の重さが足裏を押す。だが、八つに分かれた道のうち一本だけ、押し返す感触(かんしょく)が違った。重いのではなく、温かかった。根の脈動(みゃくどう)だ。石畳(いしだたみ)の下を走る蔓(つる)の温もりが、その一本の道だけに通っている。微かに、だが確かに。土の底から骨の底まで届く、金色の熱だった。

「……こっち」

こよいが指した方角に、久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を向けた。蒼光(そうこう)が影(かげ)の壁を照らすが、他の道と何も変わらない。

「確かか」

「足で分かる。根が通ってる」

あさひが立ち上がった。

剣を抜いた。刃(やいば)を横に構え、こよいが指した道の入り口の影(かげ)を、真横に薙(な)いだ。

斬(き)れるはずのない影(かげ)が、裂けた。

断面から金色の光が一筋、漏れた。本来の道の輪郭(りんかく)だった。影(かげ)の下に、石畳(いしだたみ)の本当の色——薄い黄土色——が一瞬だけ覗(のぞ)いた。光はすぐに塞(ふさ)がった。影(かげ)が傷口を埋めるように寄せ集まり、数秒で元に戻る。

だが、見えた。

あさひは剣を肩に担(かつ)いだ。

「影(かげ)は厚い。だが斬(き)れば開く。開いてる間に抜ける」

「何度も斬(き)れるのか」

久遠(くおん)が訊いた。

「何度でも。影(かげ)は斬(き)っても痛がらねえ。こっちの腕が保(も)つ限りだ」

あさひは二歩前に出た。影(かげ)の壁の前に立ち、剣を構え直す。刃(やいば)に蒼白い煙が絡みつき、すぐに振り払われた。

こよいは靴を履き直し、巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。根の温もりが、素足を通じて覚えた方角を、まだ体が記憶(きおく)している。足裏に残る金色の余韻(よいん)が、正しい道を指し続けていた。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を懐に仕舞い、立ち上がった。

「行くぞ。影(かげ)が傷を塞(ふさ)ぐ前に」

あさひの一太刀(ひとたち)が影(かげ)を裂いた。金色の光が裂け目から溢(あふ)れた。三人は光の隙間(すきま)に身を滑り込ませた。

影(かげ)は道を隠す。分岐(ぶんき)を増やし、正解を埋もれさせる。けれど、根は消えない。刃(やいば)で開けば、一瞬だけ本当の道が見える。

影(かげ)は隠すことしかできない。消すことは、まだできていなかった。  けれど、隠されただけの名前は、まだそこにある。消されていないなら、いつか掘り起こせる。こよいは影の下に眠る気配を、胸に数えて先へ進んだ。

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