第410話 祭壇の解放
410

第410話 祭壇の解放

第14章 風の残像

金色の柱(はしら)に刻まれた手順を、久遠(くおん)が読み上げた。

久遠(くおん)が読み上げるあいだに、こよいは柱(はしら)の森の中央へ進み、そこに鎮座(ちんざ)する黒い祭壇(さいだん)の前に立っていた。黒曜石(こくようせき)のように滑らかな表面に、こよい自身の顔が映り込んでいる。映っているのは自分の顔だけではなかった。笑顔、涙、怒り、祈り——封じ込められた神々が最後に見せた表情の残像(ざんぞう)が、こよいの顔の上に重なっていた。

手を伸ばした。

指先が祭壇(さいだん)に触れた瞬間、声が流れ込んできた。

記録(きろく)ではなかった。生きていた神々の声だった。霊核(れいかく)を削られながらも、最後まで人間を愛そうとした声。雨を降らせたかった。風を穏やかに吹かせたかった。大地を実らせたかった。一柱(ひとはしら)ずつ、こよいの中を通過していく。

山の神がいた。麓(ふもと)の村を土砂崩れから守り続けた記録(きろく)。川の神がいた。夏の日に子どもたちが浅瀬(あさせ)で泳ぐのを見守り続けた記録(きろく)。風の神がいた。旅人の背中をそっと押して、次の宿場町まで導いた記録(きろく)。

どれも、感情を切り離され、数値だけが残っていた。

こよいの膝(ひざ)が崩れかけた。情報の量が、これまでの旅で経験したどんな霊的接触をも超えていた。意識が途切れそうになるたびに、巾着(きんちゃく)の中の神々が温かく脈打ち、心臓と同じリズムで鼓動(こどう)することで、辛うじて正気を保たせてくれた。

手を離さなかった。

この声を聞かなければならない。この痛みを知らなければならない。こよいは神雧(かみあつめ)の旅人であり、記憶(きおく)を受け止めることが、与えられた役割だった。

背後で、あさひの剣が影(かげ)を薙(な)ぎ払う音が響いていた。鋼(はがね)が闇を裂くたびに火花が散り、柱(はしら)の表面を一瞬だけ照らした。祭壇(さいだん)に近づこうとする影(かげ)の群れを、あさひが一人で食い止めている。振り返る余裕はなかった。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を限界まで開いた。祭壇(さいだん)の奥から浮かび上がる暗号を、一つ残らず読み取ろうとしている。煤(すす)のような涙が頬(ほお)を伝い、それを拭(ぬぐ)おうともしなかった。

「見つけた」

久遠(くおん)の声が低く響いた。

「この祭壇(さいだん)の核に、楔(くさび)がある。神々の自由を物理的に閉じ込めた結晶だ。この墓場の全ての柱(はしら)が、この一点に繋(つな)がっている」

こよいの掌(てのひら)の下で、祭壇(さいだん)が震えた。楔(くさび)が応えている。

「壊すのか」

あさひが影(かげ)を薙(な)ぎ払いながら訊いた。

「壊すんじゃない。緩(ゆる)める。一気に壊せば、ここに封じ込められた記録(きろく)が暴流(ぼうりゅう)になって三人とも呑(の)まれる。楔(くさび)を一段だけ緩(ゆる)めて、封印の圧力を下げる」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を祭壇(さいだん)の横に置いた。頁(ページ)が風もないのに開き、金色の柱(はしら)から読み取った手順が蒼い光で浮かび上がった。

「こよい。巾着(きんちゃく)を祭壇(さいだん)に近づけろ。名前たちの脈動(みゃくどう)が、楔(くさび)の周波数を変える」

おたまが祭壇の周囲を一周し、影の群れが湧く三箇所で小鈴を鳴らした。あさひは音を合図に剣を振り、こよいの背へ届く前に影を断つ。久遠(くおん)が楔を読む時間は、その小さな警報によって稼がれた。

こよいは巾着(きんちゃく)を祭壇(さいだん)の上に置いた。布越しに、中の名前たちが震えるのを感じた。恐怖ではなかった。共鳴(きょうめい)だった。封じ込められた名前たちと、巾着(きんちゃく)の中の名前たちが、同じ周波数(しゅうはすう)で脈を打ち始めた。

祭壇(さいだん)の表面に亀裂(きれつ)が走った。一本。細い。そこから、温もりのある風が漏れ出した。

風は柱(はしら)の森を吹き抜け、柱(はしら)に刻まれた末期(まつご)の言葉を揺らした。「帰りたかった」という振動が、ほんの少しだけ変わった。

「帰れるかもしれない」

変わったのは語尾だけだった。けれどその一音の差が、墓場の空気を確かに変えた。

灰色だった柱の一本に、山の緑が一筋だけ戻った。別の柱には川面の青、もう一本には夕暮れの風の色。完全な解放ではない。それでも、数値へ削られた記録が、自分の景色を思い出し始めていた。

あさひが影(かげ)の最後の一体を薙(な)ぎ払い、剣を地面に突き立てて息を整えた。

「全部は開かなかったぞ」

「全部は開けない。今日はこの一箇所だけだ」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を拾い上げた。祭壇(さいだん)の亀裂(きれつ)から漏れる風が、頁(ページ)の端を揺らしている。

「だが手順は分かった。楔(くさび)の構造が読めた。次に同じものに出会ったとき、もっと早く緩(ゆる)められる」

こよいは巾着(きんちゃく)を祭壇(さいだん)から持ち上げた。名前たちの脈動(みゃくどう)が、さっきより少しだけ強くなっている。封じ込められた名前たちの脈が、巾着(きんちゃく)の中の名前たちに乗り移ったように。

祭壇(さいだん)の亀裂(きれつ)から漏れる風は、まだ温かかった。

一箇所。たった一箇所の亀裂(きれつ)。それでも、柱(はしら)の森の温度が変わった。こよいの頬(ほお)に触れる空気が、ほんのわずかだけ生きている側に傾いていた。

三人は柱(はしら)の森を抜けた。背後で、末期(まつご)の声がまだ擦(す)れ合っている。けれどその中に、一音だけ違う響きが混じっていた。

帰れるかもしれない。

風がこよいの髪を揺らした。亀裂(きれつ)から漏れ出した温もりが、柱(はしら)の森の冷たい空気を少しだけ和らげている。その風を頬(ほお)に受けながら、こよいは一音の変化を胸の奥に刻んだ。  その一音が、こよいの胸の中で小さく灯(とも)り続けていた。  名もなき歌の一音は、消えなかった。誰かが口ずさんだ旋律(せんりつ)の切れ端(はし)は、歌った者が忘れても、聴いた者の胸で灯(とも)り続ける。こよいは、その温もりを消さないように、そっと息を殺した。  消えない歌が一つあれば、それを頼りに、次の名前も見つけられる気がした。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます