第388話 影の短さ
388

第388話 影の短さ

第13章 南の方位

汽笛(きてき)のあと、霧列車(きりれっしゃ)はホームのない砂地で止まった。次の線路が定まるまでの停車だと、扉の上の灯(ひ)が明滅している。三人とおたまが熱の残る地面へ降りると、真上から白い光が突き刺した。

影(かげ)が、短い。

こよいは足元を見下ろした。太陽は頭上にあるはずだが、影(かげ)の長さが尋常ではなかった。足の裏から数寸しか伸びていない。影(かげ)そのものが体に吸い込まれているかのようだった。踏みしめた砂の上に、黒い染みが張りついている。影(かげ)というよりも、身体から滲(にじ)み出した墨(すみ)のようだった。

あさひの影(かげ)も同じだった。大剣を背負った長身の戦士の影(かげ)が、足元に小さな染みのように縮こまっている。普段なら布包みの大剣の先端まで影(かげ)が伸びるはずが、剣の影(かげ)すら足の下に潜り込んでいた。

「変だ。日が傾かねぇ」

あさひが空を見上げた。太陽の位置が、列車を降りてから動いていない。車内では何刻(なんこく)も走ったはずなのに、空の色が変わらない。青の濃さも、雲の位置も、光の角度も同じだった。時間が進んでいるのに、空だけが止まっている。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を空に向けた。蒼光(そうこう)が太陽の位置を計測しようとするが、数値が安定しない。蒼い光が空に向かって伸び、太陽の手前で揺らいで散った。

「正午(しょうご)が引き延ばされている。座標(ざひょう)の歪(ゆが)みが光の角度にまで影響して、太陽が天頂に留まり続けている。だから影(かげ)が最短のまま固定(こてい)されているんだ」

こよいは砂の上にしゃがみ込んだ。自分の影(かげ)に手を重ねてみる。影(かげ)は手の形を映しているが、指の先が途中で切れていた。影(かげ)の端が、溶けるようにして消えている。砂の上に落ちた影(かげ)の輪郭(りんかく)が、墨を水に落としたときのように滲(にじ)んで薄くなっていく。

「影(かげ)が足りない。全部映ってない」

「当然だ。座標(ざひょう)が歪(ゆが)めば光の経路も歪(ゆが)む。影(かげ)が正確に投影(とうえい)されなくなる」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を開き、三人の影(かげ)の長さと方向を計測し始めた。数値の列が頁(ページ)の上に並んでいく。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が三人の足元を順番に照らし、影(かげ)の形を記録(きろく)していた。

手が止まった。蒼光(そうこう)がこよいの足元に留まり、動かない。

「おかしいな。俺とあさひの影(かげ)は太陽の位置から予測される方向に縮んでいる。だがこよい、お前の影(かげ)だけ方向がずれている」

こよいは立ち上がり、自分の影(かげ)を見た。久遠(くおん)とあさひの影(かげ)は真下に近い位置にある。だがこよいの影(かげ)だけが、わずかに一方向へ伸びていた。短いながらも、明確な方向性を持っている。砂の上に描かれた小さな黒い矢印のように、一つの方角だけを指していた。

「どっちを向いてる?」

「南だ」

久遠(くおん)が断言した。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が目録(もくろく)の座標(ざひょう)と照合し、数値が一致したことを確認している。

「こよいの影(かげ)は太陽の位置に関係なく南を指している。方位磁針と同じだ」

体の向きを変えてみた。東を向いても西を向いても、影(かげ)は同じ方向に伸びている。南。常に南。こよいが背中を向けても、影(かげ)だけは南を見続けていた。

巾着(きんちゃく)を見下ろした。巾着(きんちゃく)の影(かげ)も南を指している。布の中で神々が脈打ち、その脈動と同じ速さで、影(かげ)の先端が微かに揺れていた。

「巾着(きんちゃく)の中の名前が、南の方位(ほうい)の中心に引き寄せられている。その引力が影(かげ)にも作用しているんだろう」

あさひが砂の上に大剣を突き立てた。刃(やいば)が砂に沈み、柄(つか)が空に向かって立つ。剣の影(かげ)が真下に短く落ちる。だがこよいが剣に触れると、影(かげ)がわずかに南へ傾いた。こよいが手を離すと、影(かげ)は真下に戻る。

「触ると変わるのか」

「こよいの中の名前が座標(ざひょう)そのものを引っ張っている。影(かげ)は座標(ざひょう)に従うから、こよいの近くにある物体の影(かげ)も南を指す」

久遠(くおん)は目録(もくろく)に書き込みながら言った。頁(ページ)の上の数値の隣に、矢印を一つ描いた。南を指す矢印。

おたまには、最初から影がなかった。だが猫がこよいの足元へ入ると、こよいの短い影の先だけが細く伸び、小鈴の形に膨らんだ。名を持たない猫自身は方位に縛られず、巾着の名前へ触れたときだけ道標の一部になる。その違いを、久遠(くおん)は無言で目録へ描き足した。

「逆に言えば、こよいの影(かげ)が指す方向が南の中心だ。道標(みちしるべ)がなくても、迷うことはない」

こよいは自分の影(かげ)を見た。短い、不完全な影(かげ)。指先の形すら映しきれない、滲(にじ)んだ影(かげ)。それでも確かに一つの方向を示している。

名前たちが帰る場所を知っている。こよいの体を通じて、南の中心を指し示している。名前の記憶(きおく)が、光と影(かげ)の法則すら書き換えて、道を作っていた。

「行こう。影(かげ)が案内してくれる」

停車した列車に沿って南へ歩き出した。影(かげ)が足元で揺れる。短くても、消えかけていても、方向だけは揺るがなかった。

あさひが続いた。久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じ、最後尾について歩く。

三つの影(かげ)が砂の上に落ちている。久遠(くおん)とあさひの影(かげ)は真下に縮み、こよいの影(かげ)だけが南へ伸びていた。風が砂を攫(さら)い、影(かげ)の縁(ふち)に細かい粒を積もらせていく。

砂が靴の下で乾いた音を立て、熱を帯びた空気が三人の肩の上に重く垂れていた。  南を指す影に合わせて久遠(くおん)が線路の座標を補正すると、扉の上の灯が青へ変わった。三人と一匹は列車へ戻る。終わらない正午(しょうご)の下、霧列車はこよいの影が示した線路を次の停車地へ走り出した。  終わらない正午(しょうご)の下で、影だけが、律儀に方角を知っていた。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます