列車の窓の外に、白い影が立っていた。
砂の平原を横切る線路の脇、道標の残骸が傾いている場所に、人の形をした白い輪郭がぼんやりと浮かんでいる。陽光が砂の粒を照らし、その反射が白い影の周囲だけを避けるように散っていた。光が届かないのではない。光が、そこだけ意味を持たないのだ。砂粒が放つ反射光が白い影の輪郭を通り抜け、影の後ろの砂まで素通りしている。
こよいは窓硝子に額を寄せた。硝子は列車の振動で微かに震えていて、白い影の輪郭がさらに曖昧になる。硝子の表面に自分の息が白く曇り、拭うと影がまだそこにいた。
影には顔がなかった。 肩から下も曖昧で、砂塵と陽炎の中に溶け込むように揺れている。輪郭の縁が風に削られているようだった。砂粒が表面を通り過ぎるたびに、人の形がほんの少しだけ薄くなる。何年もそうやって削られてきたのだと、見ただけで分かった。元はもっとはっきりした形をしていたのだろう。肩の角度や、腕の長さや、姿勢の癖が分かるほどの。今は砂に磨かれて、人の形の記憶だけが残っている。
それでも確かに、こちらを見ていた。
顔がないのに、視線だけがある。窓硝子越しでも分かる。白い輪郭の、顔があるべき場所から、何かがまっすぐに伸びている。光でも音でもなく、ただ「こちらを認識している」という事実だけが、硝子を貫いて届いていた。認識されている。名前を失った存在に、認識されている。その不思議な感覚が、怖さよりも切なさを連れてきた。
巾着の中の神々が微かに震えた。恐怖ではなく、哀しみに近い震え方だった。脈動がいつもより遅く、重い。一拍ごとに深く沈み、戻りが鈍い。名前たちがあの白い影に何かを感じ取っている。
「……あれ、何だ」
あさひが窓の外を顎で示した。大剣の柄に手を添えているが、抜く気配はない。敵意を探っているのではなく、あの影が何でできているのかを見極めようとしている目だった。目を細め、影の輪郭を上から下まで辿っている。
久遠が義眼を細めた。蒼光が白い影に焦点を合わせようとするが、光がすり抜けてしまう。何度試みても同じだった。蒼い光が影の表面で散乱せず、影を通過してその先の砂を照らしている。
「読めない。観測の対象として認識できない。目録にも反応がない」
久遠の声には困惑が滲んでいた。義眼で読めないものは、これまでほとんどなかった。漂白された名前でさえ痕跡は拾える。それなのに、あの白い影は蒼光をすべて透過させてしまう。目録の頁を開いても、白紙のまま何も浮かばない。
名前を持たず、記録に残らず、観測者の分類体系のどこにも属さないもの。名前を奪われた後に残った器。中身のない輪郭が、砂の平原に立ち続けている。
こよいは窓に手を当てた。 硝子は冷たかった。外の砂漠の熱さとは裏腹に、窓硝子だけが冷え切っている。名前のない存在の近くでは、温度すら意味を失うのかもしれなかった。
硝子越しに、白い輪郭がわずかに揺れた。風に削られる揺れではなく、こちらに寄ろうとする揺れだった。列車の方に、ほんの半歩だけ。
「……あの子、待ってるんだと思う」
「待っている?」
「自分の名前を。ここに立って、ずっと」
声に出して言ったとき、巾着の震えが強くなった。名前たちが同意するように脈打っている。あの白い影の中にあったはずの名前を、巾着の中の名前たちは知らなくても、同じ場所から来たことだけは根の記憶が知っている。遠い親戚のような、かすかな繋がり。
久遠は何も言わなかった。義眼の光を落とし、目録を閉じた。頁を閉じる手つきがいつもより静かで、音を立てないように気を遣っているように見えた。あの影に聞こえないように、という配慮だったのかもしれない。
列車が速度を上げた。白い影が窓の端へ滑り始める。追いかけようともしない。ただ立っている。立ったまま、遠ざかっていく。
こよいは窓から手を離さなかった。 影が視界の隅に追いやられ、砂塵の中に沈んでいく。白い輪郭が砂の色に近づいていく。境目が曖昧になり、どこまでが影でどこからが砂なのか分からなくなっていく。
最後の一瞬、白い輪郭が微かに傾いた。 頭を下げたように見えた。 あるいは、崩れ始めたのかもしれない。
次にここを通る列車があるかどうかさえ、分からなかった。あの道標の残骸が朽ちたとき、白い影はどこに立てばいいのだろう。目印がなくなれば、待つ場所すら失われる。
巾着の中で神々が、もう一度だけ脈打った。 小さく、静かに。 覚えている、と伝えるように。
こよいは窓から手を下ろし、巾着を胸に抱き直した。掌に硝子の冷たさが残っている。名前のない存在に触れた冷たさが、指先からなかなか消えなかった。
おたまだけが、窓から離れなかった。白い影の消えた方角を、猫は長いこと見続けていた。誰かを知っている目だ、とこよいは思った。名前を失った器と、名のない猫。どちらも、この世界の帳簿の外にいるものたちだった。
白い影が立っていた場所は、もう砂の色に戻っていた。 いつか、と、こよいは胸の中で言った。いつか、あなたの名前を見つけたら、必ず届けに来る。待つことしかできないものに、追う者ができる約束は、それだけだった。
