第379話 白い影
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第379話 白い影

第13章 南の方位

列車(れっしゃ)の窓の外に、白い影(かげ)が立っていた。

砂の平原を横切る線路の脇、道標(みちしるべ)の残骸(ざんがい)が傾いている場所に、人の形をした白い輪郭(りんかく)がぼんやりと浮かんでいる。陽光(ようこう)が砂の粒を照らし、その反射が白い影(かげ)の周囲だけを避けるように散っていた。光が届かないのではない。光が、そこだけ意味を持たないのだ。砂粒が放つ反射光が白い影(かげ)の輪郭(りんかく)を通り抜け、影(かげ)の後ろの砂まで素通りしている。

こよいは窓硝子(まどがらす)に額(ひたい)を寄せた。硝子(ガラス)は列車(れっしゃ)の振動で微かに震えていて、白い影(かげ)の輪郭(りんかく)がさらに曖昧(あいまい)になる。硝子(ガラス)の表面に自分の息が白く曇り、拭(ぬぐ)うと影(かげ)がまだそこにいた。

影(かげ)には顔がなかった。  肩から下も曖昧(あいまい)で、砂塵(さじん)と陽炎(かげろう)の中に溶け込むように揺れている。輪郭(りんかく)の縁(ふち)が風に削られているようだった。砂粒が表面を通り過ぎるたびに、人の形がほんの少しだけ薄くなる。何年もそうやって削られてきたのだと、見ただけで分かった。元はもっとはっきりした形をしていたのだろう。肩の角度や、腕の長さや、姿勢の癖(くせ)が分かるほどの。今は砂に磨(みが)かれて、人の形の記憶だけが残っている。

それでも確かに、こちらを見ていた。

顔がないのに、視線だけがある。窓硝子(まどがらす)越しでも分かる。白い輪郭(りんかく)の、顔があるべき場所から、何かがまっすぐに伸びている。光でも音でもなく、ただ「こちらを認識している」という事実だけが、硝子(ガラス)を貫いて届いていた。認識されている。名前を失った存在に、認識されている。その不思議な感覚が、怖さよりも切なさを連れてきた。

巾着(きんちゃく)の中の神々が微かに震えた。恐怖ではなく、哀(かな)しみに近い震え方だった。脈動(みゃくどう)がいつもより遅く、重い。一拍ごとに深く沈み、戻りが鈍い。名前たちがあの白い影(かげ)に何かを感じ取っている。

「……あれ、何だ」

あさひが窓の外を顎(あご)で示した。大剣の柄(つか)に手を添えているが、抜く気配はない。敵意を探っているのではなく、あの影(かげ)が何でできているのかを見極めようとしている目だった。目を細め、影(かげ)の輪郭(りんかく)を上から下まで辿(たど)っている。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細めた。蒼光(そうこう)が白い影(かげ)に焦点を合わせようとするが、光がすり抜けてしまう。何度試みても同じだった。蒼い光が影(かげ)の表面で散乱せず、影(かげ)を通過してその先の砂を照らしている。

「読めない。観測の対象として認識できない。目録(もくろく)にも反応がない」

久遠(くおん)の声には困惑(こんわく)が滲(にじ)んでいた。義眼(ぎがん)で読めないものは、これまでほとんどなかった。漂白(ひょうはく)された名前でさえ痕跡(こんせき)は拾える。それなのに、あの白い影(かげ)は蒼光(そうこう)をすべて透過させてしまう。目録(もくろく)の頁(ページ)を開いても、白紙のまま何も浮かばない。

名前を持たず、記録(きろく)に残らず、観測者(かんそくしゃ)の分類体系のどこにも属さないもの。名前を奪われた後に残った器(うつわ)。中身のない輪郭(りんかく)が、砂の平原に立ち続けている。

こよいは窓に手を当てた。  硝子(ガラス)は冷たかった。外の砂漠の熱さとは裏腹に、窓硝子(まどがらす)だけが冷え切っている。名前のない存在の近くでは、温度すら意味を失うのかもしれなかった。

硝子(ガラス)越しに、白い輪郭(りんかく)がわずかに揺れた。風に削られる揺れではなく、こちらに寄ろうとする揺れだった。列車(れっしゃ)の方に、ほんの半歩だけ。

「……あの子、待ってるんだと思う」

「待っている?」

「自分の名前を。ここに立って、ずっと」

声に出して言ったとき、巾着(きんちゃく)の震えが強くなった。名前たちが同意するように脈打っている。あの白い影(かげ)の中にあったはずの名前を、巾着(きんちゃく)の中の名前たちは知らなくても、同じ場所から来たことだけは根の記憶(きおく)が知っている。遠い親戚のような、かすかな繋(つな)がり。

久遠(くおん)は何も言わなかった。義眼(ぎがん)の光を落とし、目録(もくろく)を閉じた。頁(ページ)を閉じる手つきがいつもより静かで、音を立てないように気を遣(つか)っているように見えた。あの影(かげ)に聞こえないように、という配慮だったのかもしれない。

列車(れっしゃ)が速度を上げた。白い影(かげ)が窓の端へ滑り始める。追いかけようともしない。ただ立っている。立ったまま、遠ざかっていく。

こよいは窓から手を離さなかった。  影(かげ)が視界の隅に追いやられ、砂塵(さじん)の中に沈んでいく。白い輪郭(りんかく)が砂の色に近づいていく。境目が曖昧(あいまい)になり、どこまでが影(かげ)でどこからが砂なのか分からなくなっていく。

最後の一瞬、白い輪郭(りんかく)が微かに傾いた。  頭を下げたように見えた。  あるいは、崩れ始めたのかもしれない。

次にここを通る列車(れっしゃ)があるかどうかさえ、分からなかった。あの道標(みちしるべ)の残骸(ざんがい)が朽(く)ちたとき、白い影(かげ)はどこに立てばいいのだろう。目印がなくなれば、待つ場所すら失われる。

巾着(きんちゃく)の中で神々が、もう一度だけ脈打った。  小さく、静かに。  覚えている、と伝えるように。

こよいは窓から手を下ろし、巾着(きんちゃく)を胸に抱き直した。掌(てのひら)に硝子(ガラス)の冷たさが残っている。名前のない存在に触れた冷たさが、指先からなかなか消えなかった。

おたまだけが、窓から離れなかった。白い影の消えた方角を、猫は長いこと見続けていた。誰かを知っている目だ、とこよいは思った。名前を失った器と、名のない猫。どちらも、この世界の帳簿の外にいるものたちだった。

白い影(かげ)が立っていた場所は、もう砂の色に戻っていた。  いつか、と、こよいは胸の中で言った。いつか、あなたの名前を見つけたら、必ず届けに来る。待つことしかできないものに、追う者ができる約束は、それだけだった。

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