第380話 南の入口
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第380話 南の入口

第13章 南の方位

潮(しお)の匂いが、途切れた。

代わりに鼻を刺したのは、乾いた砂の粒を含んだ風だった。列車(れっしゃ)を降りた瞬間、足元の音が変わる。石畳(いしだたみ)の硬い反響(はんきょう)ではない。さらさらと崩れていく音。踏みしめた場所が、すぐに形を失う。

「……南だ」

あさひが短く言った。布越しに大剣へ触れ、周囲を見渡している。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じ、顔を上げた。空が近い。雲が薄い。風が、まっすぐに吹いている。海沿いでは潮(しお)に巻かれて渦(うず)を描いていた風が、ここでは一方向にしか流れない。

停車場(ていしゃじょう)の外れに、門が立っていた。

木でも石でもない。砂が固まったような、奇妙に滑らかな柱が二本。表面には風に磨(みが)かれた筋が無数に走っている。柱の間には扉も梁(はり)もない。なのに、そこだけ空気の温度が違った。

こよいは門の前で立ち止まった。巾着(きんちゃく)の中の神々が少しだけ重くなった気がする。脈動が一拍だけ速まった。

「入口?」

久遠(くおん)が頷(うなず)いた。

「南の入口だ。ここから先は、方位(ほうい)が言葉じゃなくなる」

「どういうこと?」

久遠(くおん)は足元の砂を掬(すく)い、指の間から落とした。砂は風に攫(さら)われ、あっという間に散る。

「海では塩が線を残す。記録(きろく)を固める。だが砂は、書いた端から消す。風が方位(ほうい)そのものを運んでしまう」

あさひが門の柱に手を当てた。

「熱い」

昼の熱ではなかった。ずっと昔から溜め込まれた、出口のない熱。地面の深くから滲(にじ)み上がってくる鈍い温もりだった。

「影(かげ)が短くなる」

あさひが手を離して言った。

「逃げ場が狭くなるってことだ。覚悟しとけ」

こよいは一度、振り返った。

霧列車(きりれっしゃ)は停車場(ていしゃじょう)の端に佇(たたず)んでいる。車体の表面にまだ海の結晶がこびりついていた。あの白い粒子(りゅうし)はここではもう降っていない。代わりに砂の微粒子(びりゅうし)が風に乗って三人の肌を叩(たた)いている。

海は見えない。潮(しお)の音も聞こえない。この入口は、一方通行だ。南へ入る者を通し、北へ戻る者を通さない。少なくとも、この門からは。戻れないのだと、空気が告げていた。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱き、門の中へ一歩踏み出した。

何もないはずの柱の間で、足首に風が絡(から)んだ。砂が舞い上がり、視界が一瞬だけ白くなる。砂が肌に触れた瞬間、温度が変わった。

白が晴れたとき、世界は乾いていた。

足元の砂は赤みを帯びている。遠くに見える丘の稜線(りょうせん)は低く波打ち、その上を陽炎(かげろう)のような揺らぎが走っていた。空は青いが、海辺の空とは違う。もっと高く、もっと薄い。

南の入口を越えたのだと、肌が先に知った。

「空気が乾いてる」

こよいが唇を舐(な)めた。もう唇が割れ始めている。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が頁(ページ)の上を走る。

「乾燥(かんそう)が記録(きろく)を守ることもある。海では塩が固めたが、ここでは乾きが封じている。水分が少ない分、漂白(ひょうはく)も進みにくい」

三人は歩き始めた。

砂の道に足を取られながら進むと、最初の道標(みちしるべ)が見えた。木の柱に薄い板が打ちつけてある。風に削られて文字はほとんど消えていたが、かろうじて二文字だけ残っていた。

砂峰(すなみね)。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を向けた。蒼光(そうこう)が文字の残像(ざんぞう)を読み取っている。

「道標(みちしるべ)の文字が消えかけているが、漂白(ひょうはく)ではない。風化(ふうか)だ。この道標(みちしるべ)は、観測者(かんそくしゃ)が管理する前から立っていた」

「古い名前が残ってるってこと?」

「ああ。南は漂白(ひょうはく)の手が遅れている。消されていない名前が、まだあるかもしれない」

巾着(きんちゃく)が脈打った。小さく、短く。  巾着の名前たちが、南の空気に微かに揺れている。地下の根が、この地面の下にも伸びている。巾着(きんちゃく)の中の名前が、根を通じて南の名前を感じ取っていた。

二つ目の道標(みちしるべ)が見えた。こちらはもう少し状態が良い。板の表面に、細い文字で方角と距離が刻まれていた。

砂峰(すなみね)まで半日。凪沢(なぎさわ)まで二日。露野(つゆの)まで四日。風里(かざさと)まで七日。

文字の下に、別の筆跡(ひっせき)があった。道標(みちしるべ)を立てた者とは違う手で、小さく名前が彫り込まれている。

「旅人の名前か」

あさひが覗き込んだ。

「違う」

久遠(くおん)が首を振った。

「神の名前だ。ここを通った神が、自分の名前を道標(みちしるべ)に刻んだ。消されないように」

こよいは道標(みちしるべ)の木肌に指を触れた。乾いた木の繊維(せんい)の奥に、微かな温もりがある。名前の残熱(ざんねつ)だった。巾着(きんちゃく)の脈動が、指先の温もりに応えるように速まる。

「この名前、まだ生きてる」

こよいの声が震えた。

「刻まれた名前が、まだ消えてない」

久遠(くおん)は目録(もくろく)の頁(ページ)をめくり、義眼(ぎがん)で道標(みちしるべ)の文字を記録した。

「南には、まだ間に合う名前がある」

風が吹いた。砂が低く舞い、三人の足跡を少しずつ埋めていく。振り返ると、門はもう霞(かす)んでいた。停車場(ていしゃじょう)の影(かげ)も列車の輪郭(りんかく)も、砂の向こうに溶けている。

前にしか進めない。

こよいは巾着(きんちゃく)を握り直し、道標(みちしるべ)の示す方角へ顔を向けた。砂峰(すなみね)。半日先に、最初の町がある。

あさひが先頭に立った。大剣を背に負い、砂を踏みしめる足音だけが規則正しく響く。久遠(くおん)は目録(もくろく)を脇に抱え、風に頁(ページ)がめくれないよう片手で押さえながら歩いた。

道標(みちしるべ)の古い名前が、風の中で微かに鳴っている。

こよいにはそう聞こえた。乾いた木の中に封じられた名前が、通りすがりの巾着(きんちゃく)に向けて声を上げている。ここにいる、と。まだ消えていない、と。

巾着(きんちゃく)が応えるように温まった。

三つの影(かげ)が、南へ伸びている。影(かげ)は短い。だが同じ方角を向いていた。四つ目の、猫の影はない。それでも、おたまは三つの影のいちばん先を、もう南へ歩き出していた。

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