第372話 名の根の井戸
372

第372話 名の根の井戸

第12章 記録の裂目

南へ向かう本線は、星野を経由する。半日の停車の間に、三人と一匹は広場へ足を運んだ。根づいた名前たちに、別れを言うために。

星野の石畳が割れていた。

前とは違う割れ方だった。以前の亀裂は細く、石の隙間を縫うように走っていた。今の亀裂は石そのものを貫いている。一枚の石畳が真ん中から二つに割れ、その裂け目から金色の光が漏れていた。  光は前より強い。地面の下から押し上げてくる力が増している。石畳の表面に金色の線が走り、亀裂の模様が光の地図のように広がっていた。足元から伝わる振動は微かだが一定のリズムを刻んでおり、それは心臓の鼓動に似ていた。

こよいは広場の中央に立った。

台座の跡。  最初に一柱を呼び戻した場所。

石畳の色が変わっている。台座があった場所だけ、石の表面が滑らかで、周囲より一段低くなっていた。長い間、何かが置かれていた痕跡。こよいの靴底がその窪みに嵌まり、足の裏から温もりが昇ってきた。地面が温かい。冬の石畳が、体温を持っている。

ここに植えた名前の根が、地面の下で広がっていたはずだった。  根が、地上に出ていた。

石畳の隙間から、金色の蔓のようなものが這い出している。最初はそれが何なのか分からなかった。蔓は植物のように見えるが、葉も花もない。代わりに表面が微かに発光しており、内側から光が透けている。蔓は互いに絡み合い、螺旋を描きながら上に伸びていた。  螺旋の形は均整が取れている。誰かが設計したのではなく、蔓自身が最も安定する形を選んだ結果なのだろう。こよいはしゃがんで蔓の一本に顔を近づけた。金色の表面に、微かな脈動が走っているのが見えた。鼓動に合わせて明るさが変わる。明、暗、明、暗。生きている。

高さは膝ほど。

「井戸(いど)だ」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)で蔓(つる)を観察した。  声が震えていた。怒りでも恐怖でもない、驚愕(きょうがく)と理解の震え。蒼光(そうこう)が蔓(つる)の表面を走るたび、蔓(つる)は微かに身じろぎした。読まれていることを感じているのかもしれない。

「名前が——井戸(いど)を作っている」

蔓(つる)の螺旋(らせん)が、丸い構造物を形成し始めていた。  石の井戸(いど)ではない。人の手が積んだ石も、塗られた漆喰(しっくい)もない。

名前の根でできた井戸(いど)。

金色に光り、温かい。触れる前から温もりを感じる。日向(ひなた)の木の幹(みき)のような暖かさ。  触れると、脈動が伝わってきた。指先から手首を伝い、前腕(ぜんわん)に昇る。二十五柱(にじゅうごはしら)分の名前の鼓動(こどう)が、ここで一緒に打っている。二十五の異なるリズムが重なり合い、一つの脈動になっている。不規則なようでいて、全体としては穏やかな波を描いていた。こよいの心臓が、その波に引き寄せられるように拍動(はくどう)を変えた。

「壊された井戸(いど)の代わりに、自分たちで作ったのか」

あさひが蔓(つる)に手を伸ばした。触れた瞬間、金色の光が指先を包み、手の甲(こう)まで広がった。あさひは手を引かず、光の中で蔓(つる)の表面を親指でなぞった。温かい。

「こいつら……すげえな」

あさひの声は低く、掠(かす)れていた。それは原始的な敬意だった。自分の力で立ち上がろうとしているものへの、戦士としての敬意。

おたまが、井戸(いど)の縁に前脚を掛け、中を覗き込んだ。墨の井戸のときと同じ姿勢で。猫の瞳の中に、金色の光が丸く映る。それから猫は、蔓(つる)の一本に頬を擦り付けた。よくやった、と言うように。

こよいはしゃがんで、新しい井戸(いど)の縁(ふち)に手を置いた。蔓(つる)の凹凸(おうとつ)が掌(てのひら)に食い込み、その一つ一つが脈打っている。生きている建造物。名前たちが自分の根で組み上げた、帰還(きかん)のための場所。  井戸(いど)の中を覗(のぞ)き込んだ。

底は見えない。  蔓(つる)の螺旋(らせん)が奥へ奥へと続き、金色の光がどこまでも深く沈んでいる。井戸(いど)の壁面を構成する蔓(つる)の一本一本が微かに光り、螺旋(らせん)の奥が淡い金色の闇(やみ)に沈んでいた。

けれど、底から風が吹き上げてきた。

こよいの前髪が揺れた。頬(ほお)に温かい空気が触れ、鼻腔(びくう)に微かな甘さが届いた。花の匂いではない。名前が持つ固有の匂い。一つ一つの名前が異なる匂いを持っていて、それらが混じり合って一つの風になっている。  冷たくない。  温かい風だった。

名前の呼吸(こきゅう)だ。

二十五柱(にじゅうごはしら)の名前たちが、この井戸(いど)の底で呼吸(こきゅう)している。吸い込んだ空気を温め、吐き出す。その呼気(こき)が井戸(いど)を通って地上まで昇ってくる。こよいは目を閉じ、その風を顔全体で受けた。

「この井戸(いど)は、空から降りてくる名前を受け止められる」

久遠(くおん)が計測していた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が数値を刻んでいる。井戸(いど)の直径、蔓(つる)の密度、脈動の周期。久遠(くおん)は感情を数字に変換することで理解する。それがこの男の愛し方だった。

蔓(つる)の先端がまだ伸びている。ゆっくりと、けれど確実に。先端は金色に光り、触手(しょくしゅ)のように空気を探っていた。新しい石畳(いしだたみ)の隙間を見つけると、そこに根を差し込み、螺旋(らせん)の輪をもう一段高くする。

「人工の井戸(いど)が壊されても、名前が自分で新しい井戸(いど)を作る。これは——」

久遠(くおん)が言葉を切った。  義眼(ぎがん)が蔓(つる)の根元を見ている。蒼光(そうこう)の色が変わった。通常の青白い光から、深い藍色(あいいろ)に。久遠(くおん)が情報の深層に潜ったときの色だった。こめかみの血管が浮き、唇の端(はし)が微かに引き攣(つ)っている。読み取った情報の重さに、身体が反応している。

「最初の神が千年かけてやろうとしたことと同じだ。名前が帰る場所を、名前自身が作っている」

久遠(くおん)の声は、震えが止まっていた。代わりに、深い静けさがあった。千年の歳月をかけて最初の神が志(こころざ)したこと。それと同じことを、二十五柱(にじゅうごはしら)の名前たちが自力で始めていた。誰に教わったのでもない。ただ、帰る場所が欲しかった。だから自分たちで作った。

空から、金色の糸が一本、降りてきた。  糸は細く、光っている。空気中を漂(ただよ)いながら、真っ直ぐに井戸(いど)へ向かっていく。風に揺れることもない。引力のように、井戸(いど)が糸を引き寄せている。  こよいが呼ばなくても、井戸(いど)が名前を引き寄せている。写本(しゃほん)の受け皿と同じ仕組み。いや、それ以上だ。受け皿は紙の上で名前を留めるだけだったが、この井戸(いど)は名前を根の中に迎え入れる。定着ではなく、帰還(きかん)。

糸が井戸(いど)に入った。  蔓(つる)が一本、新しく伸びた。螺旋(らせん)の一番上に、新しい蔓(つる)が加わる。他の蔓(つる)よりわずかに細いが、光の強さは変わらない。

三十六柱(さんじゅうろくはしら)目だった。

こよいは井戸(いど)の縁(ふち)から手を離した。掌(てのひら)に金色の温もりが残っている。蔓(つる)の凹凸(おうとつ)の跡が肌に刻まれ、その跡がうっすらと光っていた。やがて光は消えたが、温もりはしばらく残った。

風が変わった。  海の方からではない。地面の下から、名前たちの呼吸(こきゅう)が押し上げてくる風だった。井戸(いど)の底から昇る温かい空気が、広場全体にゆっくりと広がっていく。石畳(いしだたみ)の冷たさが和らぎ、亀裂(きれつ)から漏れる光が一段明るくなった。

蔓(つる)がもう一本、石畳(いしだたみ)の隙間から顔を出した。金色の先端が空気に触れ、光を帯びる。根が伸びている。名前たちが、自分たちの井戸(いど)をまだ広げている。  こよいは立ち上がり、広場を見渡した。石畳(いしだたみ)の亀裂(きれつ)が描く金色の模様は、上から見れば一つの渦(うず)のように見えるだろう。その渦(うず)の中心に、名前たちの井戸(いど)がある。

巾着(きんちゃく)の中で、神々が温かく脈打った。井戸(いど)の鼓動(こどう)と、同じリズムだった。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます