第373話 潮の遠さ
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第373話 潮の遠さ

第12章 記録の裂目

星野(ほしの)を発った列車は、南の本線に入る前に、もう一度だけ海沿いを走った。名残の海岸の小さな駅で、水を汲むための停車。ホームに降りた三人は、そこで異変に気づいた。

海が遠かった。

昨日までここに水際(みずぎわ)があったはずの場所に、乾いた砂が広がっている。潮(しお)の線は後退(こうたい)し、波の音も遠くなっていた。立っている場所から海面まで、百歩はある。

「また引いた」

あさひが砂を蹴(け)った。  乾ききった砂が舞い上がり、風に攫(さら)われる。昨日ここを歩いたとき、足元は湿っていた。今は骨のように乾いている。

「引いたんじゃない」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。  義眼(ぎがん)の光が頁(ページ)を照らす。蒼光(そうこう)の下で、海図(かいず)の線が一本ずつ薄くなっていくのが見えた。

「海が忘れている」

「忘れる?」

こよいが久遠(くおん)を見た。

久遠(くおん)は海図(かいず)の一点を指で叩いた。  その場所には、かつて入り江を示す曲線があった。今は線の痕跡(こんせき)だけが残っている。墨(すみ)が完全に消えたのではなく、紙に圧痕(あっこん)だけが残された状態。書かれていたことは分かるが、何が書かれていたかは読めない。

「この入り江の記録(きろく)が消された。記録(きろく)が消えると、入り江を入り江たらしめていた情報が失われる。水深、潮流(ちょうりゅう)、温度、塩分濃度。すべてが不定(ふてい)になる」

「不定(ふてい)になると?」

「海がそこにいる理由がなくなる」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じた。

「水は、記録(きろく)によって場所を与えられている。どこからどこまでが海で、どこが陸かという情報が、水を留めている。記録(きろく)が消えれば、水はそこにいる根拠(こんきょ)を失う」

こよいは浜辺を見渡した。  退いた海が残した砂の上に、貝殻(かいがら)が散乱している。海藻(かいそう)が干からび、小さな蟹(かに)が方向を失って円を描いていた。

「水が怖がってるみたいだ」

「怖いんだろう」

久遠(くおん)が珍しく、比喩(ひゆ)でない言い方をした。

「自分が何であるかを規定する記録(きろく)が消えていく。水は水であることの根拠(こんきょ)を、一つずつ剥がされている。だから後退(こうたい)する。まだ記録(きろく)が残っている場所まで」

あさひは浜の先端まで歩いた。  そこから先は、昨日まで海底だった場所だ。砂の色が違う。暗い灰色の砂に、白い結晶が混じっている。

「塩だ」

あさひが砂を摘(つ)んで舐(な)めた。

「海の味がする。水はなくなったのに」

「味が残るのは、記録(きろく)の残滓(ざんし)だ」

久遠(くおん)が言った。

「記録(きろく)が完全に消されるには時間がかかる。味や匂いは、記録(きろく)の最後の層に属する。文字が消え、形が消え、色が消え、それでも味と匂いだけは少しの間残る」

「最後まで残るのが、味と匂い」

「名前もそうだ」

久遠(くおん)の声が低くなった。

「名前が完全に消えるとき、最後に残るのは音だ。文字が消え、意味が消えても、響きだけがしばらく空気中に留まる。だから俺たちは、消えかけの名前を耳で拾えることがある」

こよいは巾着(きんちゃく)を握った。  神々が緩やかに脈打っている。波が遠ざかるにつれて、神々の温度も少しずつ下がっていた。

「海が戻ることはあるの」

「記録(きろく)を書き直せば、戻る」

久遠(くおん)は海図(かいず)を開き直した。  圧痕(あっこん)だけが残った頁(ページ)を、義眼(ぎがん)で丹念に読んでいる。

「線の跡はまだある。この上に墨(すみ)を入れ直せば、記録(きろく)は復元(ふくげん)できる。だが——」

「インク《いんく》が足りない」

こよいが言い終える前に、久遠(くおん)が頷いた。

入り江一つ分の記録(きろく)を書き直すだけでも、残りのインク《いんく》の半分を使う。海図(かいず)全体を修復するのは不可能だった。

「全部は直せない。だが、一箇所だけなら」

「どこを」

「名前が一番多く沈んでいる場所だ」

久遠(くおん)は海図(かいず)の圧痕(あっこん)を指で辿(たど)った。  消えかけの線の中に、かつて深い入り江だった場所がある。夕凪(ゆうなぎ)の裏側で見た金色の海が、最も濃かった地点。

「ここの記録(きろく)を書き直す。水が戻れば、名前が浮かぶ場所も戻る」

あさひが布越しに剣の腹を叩いた。

「やれ」

短い言葉だった。  久遠(くおん)はインク壺(つぼ)を取り出し、蓋(ふた)を開けた。壺の底に、わずかな黒い液体が残っている。

筆先に墨(すみ)を含ませ、海図(かいず)の圧痕(あっこん)の上に、慎重に線を引いた。  一本。  入り江の輪郭(りんかく)の、最も外側の線。

墨(すみ)が紙に染みた瞬間、遠くで波の音がした。

三人は顔を上げた。

水平線(すいへいせん)の近くで、海面が持ち上がっている。水が、戻ろうとしていた。

まだ遠い。百歩先の砂浜(すなはま)を、薄い水膜(すいまく)が這(は)うように広がっていく。速くはない。だが、確実にこちらへ向かっている。

一本の線が、水を呼び戻した。

こよいは久遠(くおん)の手元を見た。  筆先の墨(すみ)は、もう残りわずかだった。

「足りるの」

「足りない」

久遠(くおん)は筆を置いた。

「一本で十分だ。入り江の形が分かれば、水は自分で残りを埋める。記録(きろく)は骨格(こっかく)さえあれば、肉は水が覚えている」

波が少しずつ近づいてきた。  潮(しお)の匂いが強くなる。乾いた砂に、最初の湿り気が戻った。  おたまが、書き直された輪郭線の上を、端から端まで歩いてみせた。猫の足が線を踏んでも、墨は滲まなかった。渡り初めの儀式のようだった。猫が線の終わりに着いたとき、遠くで波の音が、ひとつ大きくなった。

インク壺(つぼ)は、これで本当に空になった。振っても、底で音すらしない。次に何かを書くときは、別の墨を探すところから始めなければならない。それでも、最後の墨は、海一つを呼び戻す線になった。悪くない使い道だと、こよいは思った。

蟹(かに)が方向を取り戻し、水際(みずぎわ)へ向かって走り出した。

海は遠い。  だが、もう後退(こうたい)してはいなかった。

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