星野を発った列車は、南の本線に入る前に、もう一度だけ海沿いを走った。名残の海岸の小さな駅で、水を汲むための停車。ホームに降りた三人は、そこで異変に気づいた。
海が遠かった。
昨日までここに水際があったはずの場所に、乾いた砂が広がっている。潮の線は後退し、波の音も遠くなっていた。立っている場所から海面まで、百歩はある。
「また引いた」
あさひが砂を蹴った。 乾ききった砂が舞い上がり、風に攫われる。昨日ここを歩いたとき、足元は湿っていた。今は骨のように乾いている。
「引いたんじゃない」
久遠が目録を開いた。 義眼の光が頁を照らす。蒼光の下で、海図の線が一本ずつ薄くなっていくのが見えた。
「海が忘れている」
「忘れる?」
こよいが久遠を見た。
久遠は海図の一点を指で叩いた。 その場所には、かつて入り江を示す曲線があった。今は線の痕跡だけが残っている。墨が完全に消えたのではなく、紙に圧痕だけが残された状態。書かれていたことは分かるが、何が書かれていたかは読めない。
「この入り江の記録が消された。記録が消えると、入り江を入り江たらしめていた情報が失われる。水深、潮流、温度、塩分濃度。すべてが不定になる」
「不定になると?」
「海がそこにいる理由がなくなる」
久遠は目録を閉じた。
「水は、記録によって場所を与えられている。どこからどこまでが海で、どこが陸かという情報が、水を留めている。記録が消えれば、水はそこにいる根拠を失う」
こよいは浜辺を見渡した。 退いた海が残した砂の上に、貝殻が散乱している。海藻が干からび、小さな蟹が方向を失って円を描いていた。
「水が怖がってるみたいだ」
「怖いんだろう」
久遠が珍しく、比喩でない言い方をした。
「自分が何であるかを規定する記録が消えていく。水は水であることの根拠を、一つずつ剥がされている。だから後退する。まだ記録が残っている場所まで」
あさひは浜の先端まで歩いた。 そこから先は、昨日まで海底だった場所だ。砂の色が違う。暗い灰色の砂に、白い結晶が混じっている。
「塩だ」
あさひが砂を摘んで舐めた。
「海の味がする。水はなくなったのに」
「味が残るのは、記録の残滓だ」
久遠が言った。
「記録が完全に消されるには時間がかかる。味や匂いは、記録の最後の層に属する。文字が消え、形が消え、色が消え、それでも味と匂いだけは少しの間残る」
「最後まで残るのが、味と匂い」
「名前もそうだ」
久遠の声が低くなった。
「名前が完全に消えるとき、最後に残るのは音だ。文字が消え、意味が消えても、響きだけがしばらく空気中に留まる。だから俺たちは、消えかけの名前を耳で拾えることがある」
こよいは巾着を握った。 神々が緩やかに脈打っている。波が遠ざかるにつれて、神々の温度も少しずつ下がっていた。
「海が戻ることはあるの」
「記録を書き直せば、戻る」
久遠は海図を開き直した。 圧痕だけが残った頁を、義眼で丹念に読んでいる。
「線の跡はまだある。この上に墨を入れ直せば、記録は復元できる。だが——」
「インク《いんく》が足りない」
こよいが言い終える前に、久遠が頷いた。
入り江一つ分の記録を書き直すだけでも、残りのインク《いんく》の半分を使う。海図全体を修復するのは不可能だった。
「全部は直せない。だが、一箇所だけなら」
「どこを」
「名前が一番多く沈んでいる場所だ」
久遠は海図の圧痕を指で辿った。 消えかけの線の中に、かつて深い入り江だった場所がある。夕凪の裏側で見た金色の海が、最も濃かった地点。
「ここの記録を書き直す。水が戻れば、名前が浮かぶ場所も戻る」
あさひが布越しに剣の腹を叩いた。
「やれ」
短い言葉だった。 久遠はインク壺を取り出し、蓋を開けた。壺の底に、わずかな黒い液体が残っている。
筆先に墨を含ませ、海図の圧痕の上に、慎重に線を引いた。 一本。 入り江の輪郭の、最も外側の線。
墨が紙に染みた瞬間、遠くで波の音がした。
三人は顔を上げた。
水平線の近くで、海面が持ち上がっている。水が、戻ろうとしていた。
まだ遠い。百歩先の砂浜を、薄い水膜が這うように広がっていく。速くはない。だが、確実にこちらへ向かっている。
一本の線が、水を呼び戻した。
こよいは久遠の手元を見た。 筆先の墨は、もう残りわずかだった。
「足りるの」
「足りない」
久遠は筆を置いた。
「一本で十分だ。入り江の形が分かれば、水は自分で残りを埋める。記録は骨格さえあれば、肉は水が覚えている」
波が少しずつ近づいてきた。 潮の匂いが強くなる。乾いた砂に、最初の湿り気が戻った。 おたまが、書き直された輪郭線の上を、端から端まで歩いてみせた。猫の足が線を踏んでも、墨は滲まなかった。渡り初めの儀式のようだった。猫が線の終わりに着いたとき、遠くで波の音が、ひとつ大きくなった。
インク壺は、これで本当に空になった。振っても、底で音すらしない。次に何かを書くときは、別の墨を探すところから始めなければならない。それでも、最後の墨は、海一つを呼び戻す線になった。悪くない使い道だと、こよいは思った。
蟹が方向を取り戻し、水際へ向かって走り出した。
海は遠い。 だが、もう後退してはいなかった。
