宵波浜の外縁を離れた列車は、海沿いの堤のある小さな停車場で夜を待つことになった。南へ向かう本線が開くのは、明朝だという。
風が止んだ。
完全に。 草も揺れず、砂も舞わず、波頭さえも凍ったように静まった。夕凪だった。日暮れの間だけ訪れる、海岸特有の無風状態。
だが今日の夕凪は、こよいが知っているものとは違った。空気の粒子が止まったことで、匂いさえも凍りついている。潮の匂いも、砂の匂いも、あさひの汗の匂いも。すべてが空間に固定されて、動かない。
海面が透明になっていく。 波の揺れが消えたことで、水が硝子のように澄み渡った。表面の反射がなくなり、海の中が丸見えになる。
その下に、もう一つの海があった。
「……見えるか」
久遠が堤の縁に立っていた。 義眼を細め、水面の下を凝視している。
こよいは久遠の隣にしゃがんだ。 水面から一尺ほど下に、もう一枚の水面がある。上の海と下の海の間に、薄い空気の層が挟まっていた。
上の海は灰色。 下の海は金色だった。
「二層になってる」
「記録の表面と裏面だ」
久遠が義眼の光を水中に落とした。 蒼光が上の層を貫き、金色の層に届く。その瞬間、下の海が反応した。
金色の水の中で、何かが泳いでいた。
魚ではない。 文字だった。
一画ずつバラバラになった名前の断片が、金色の水の中を漂っている。横画が鰻のようにくねり、縦画が水草のように揺れ、点が泡のように浮き沈みしていた。
「名前だ。名前が泳いでる」
こよいの声が裏返った。胸の奥で何かが弾けたように、息が浅くなった。
巾着が熱くなった。神々が、下の海に反応している。布を通して伝わる温もりが、右手から腕を伝い、胸の奥まで届いた。
「見える。巾着の熱で、形が見える」
こよいは巾着を水面の上にかざした。布が熱を帯び、紐が微かに揺れる。 神々の熱が金色の層に届くと、バラバラだった画が集まり始めた。横画と縦画が組み合わさり、偏と旁が結合する。
一つの名前が、水中で形を取った。 金色に光る二文字が、水面のすぐ下でこちらを見上げている。文字の輪郭が揺らめき、金色の光を周囲の水に散らしていた。
「呼んでいるのか。それとも、見つけてほしいだけなのか」
「どっちでもいい」
あさひが腕を組んだまま言った。
「見つけたなら、拾え」
こよいは右手を水に入れた。 上の層は冷たかった。指が空気の隙間を抜けると、下の層に触れる。
温かい。 風呂の湯ほどの温度があった。名前の体温だった。上の層を抜けたときの冷たさが嘘のように、下の層は柔らかな熱を帯びている。指の関節まで浸かると、手のひら全体に名前たちの脈動が伝わってきた。
指先が金色の文字に触れた瞬間、名前がこよいの手に巻きついた。二文字が指を掴み、手首を伝って腕を這い上がってくる。
「っ」
こよいは手を引いた。 水から上がった名前は、空気に触れた途端に光を失った。金色が褪せ、墨色に変わる。だが形は保ったまま、こよいの前腕に張りついていた。
「写本に移せ」
久遠が紙を差し出した。
こよいは名前に触れた。前腕から剥がすように、指先で丁寧に掬い取る。名前は抵抗しなかった。写本の紙に置かれると、墨が繊維に染み込んで定着した。
「三十四柱目だ。水脈を渡っていた十一の、その一つ。……ここの裏の海に、逃げ込んでいたのか」
久遠が記録した。
夕凪は続いている。風のない時間はあと少しだけ残っていた。
おたまが堤の縁から、金色の層を見下ろしていた。猫の尻尾が、泳ぐ文字の動きを追って、ゆらり、ゆらりと揺れる。捕まえたいのを我慢している揺れ方だった。
こよいは再び水面を覗いた。 金色の海には、まだ無数の画が漂っている。名前の断片が互いに近づいては離れ、形を作りかけてはほどける。
全部を拾うことはできない。 夕凪が終われば波が立ち、下の海は見えなくなる。 それに、ここで泳いでいる断片の多くは、五十一柱の外の名前だ。この世界が失ってきた、数え切れない名前の裏面。いつか、五十一柱を還し終えたら——この下の海に、もう一度来なければならない。こよいは、胸の中の課題の棚に、その約束をそっと載せた。
「もう一つだけ」
こよいは手を水に入れた。 今度は名前の方から近づいてきた。金色の文字が指先に集まり、三文字の名前を組み上げた。
引き上げる。 空気に触れて色が変わる。写本に移す。
「三十五」
久遠が短く数えた。
風が戻り始めた。 微かな風が砂を撫で、海面に最初の波紋が広がった。金色の層が揺れ、名前たちの姿がぼやけていく。
あさひが空を見上げた。
「日が沈む」
夕凪という時間の窓は、日に一度、ほんの半刻しか開かない。それでも、窓は毎日開く。海が名前を覚えている限り。
西の空が赤く燃えていた。夕凪の終わり。風が海面を叩き、透明だった水が再び不透明な灰色に戻っていく。
下の海が消えた。
こよいは濡れた手を拭い、写本を胸に抱えた。二つの名前が、紙の上で乾いていく。
金色の海は見えなくなった。水面が再び不透明な灰色に戻り、反射する光だけが夕空の残照を映している。だが、消えたわけではない。波の下に、まだ在る。風が止まるたびに、夕凪の裏側で名前たちは泳ぎ続けている。
待っている。 次に誰かが手を伸ばしてくれるのを。
こよいは巾着を握った。濡れた右手に、布越しの温もりが沁みる。 神々の温もりが、まだ手のひらに残っていた。金色の海で触れた名前たちの脈動が、指先に微かな余韻を残している。
