第370話 海図の端
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第370話 海図の端

第12章 記録の裂目

海図かいずは、はしから先を描かない。

久遠くおんが見せたページはしは、きれいに切れていた。破れたのではない。紙が裂けた痕跡こんせきも、はさみの跡もない。最初から、そこまでしか無い。紙のふちは滑らかで、指ででると冷たかった。  こよいはページの白を見つめた。海図かいずの線が何本も走り、町や浜や入り江の輪郭りんかくを描いているその線たちが、ある場所を境にすべて途切れている。途切れ方は唐突とうとつだった。曲線の途中で、直線の途中で、まるで描いている手が突然止められたかのように、線が消えている。

「……ここがはしだ」

久遠くおんが言う。義眼ぎがん蒼光そうこうページはしを照らし、線の途切れた場所を青白く浮かび上がらせた。その光の下で、紙の繊維せんいが一本ずつ見えた。繊維せんいはしで途切れているのではなく、はしから先に向かって伸びようとして、伸びきれずに丸まっている。紙自身が、この先を知りたがっているように見えた。  こよいはページの白を見つめた。線が途切れたところで、胸が少しだけ痛む。道が途切れる痛み。行く先を示してくれていたものが消えるという、足元が崩れるような不安。

はしの先は?」

こよいの声は小さかった。巾着きんちゃくを握る左手に、無意識に力が入っている。

はしの先は、地図じゃない。……地図の外だ」

久遠くおんの声には、普段の皮肉がなかった。事実を事実として述べる声。けれどその声の底に、微かな緊張が混じっている。義眼ぎがん蒼光そうこうがわずかに揺れた。久遠くおんの感情が揺れると、義眼ぎがんの光も揺れる。こよいはそれを知っていた。

あさひが笑う。口のはしだけを持ち上げた、短い笑い。

「外に出るだけだろ」

あさひの声は軽かった。だがその軽さは、恐怖を知らないからではない。恐怖の形を知った上で、それを剣のつかに握り込んでしまう人間の軽さだった。あさひは壁に背を預けたまま、足を投げ出している。ひざの上に横たえた布包みの剣が、列車の振動に合わせて微かに揺れていた。

久遠くおんは頷いた。けれどすぐには続けなかった。目録もくろくページを一枚めくり、また戻し、海図かいずはしをもう一度見つめた。蒼光そうこうが紙の上を行ったり来たりする。何かを確認しているのか、それとも言葉を探しているのか。

「出るだけだ。……だから怖い。地図の外では、名前が先に死ぬ」

車内の温度が下がったように感じた。こよいの背筋を冷たいものが走る。名前が先に死ぬ。その言葉の意味を、こよいは一拍遅れて理解した。  地図の内側には記録きろくがある。記録きろくがあるから、名前はそこに存在できる。場所と名前は互いに支え合っている。だが地図の外にはそれがない。名前を留める記録きろくがないから、名前は自分自身の力だけで存在し続けなければならない。支えを失った名前は、水に落ちたすみのようににじみ、薄まり、やがて消える。

こよいは巾着きんちゃくを握り、神々の温もりを確かめた。温もりはある。小さく、けれど確かに脈打っている。でも、道の線がない。ここから先、どこへ向かえばいいのか。写本しゃほんに集めた名前たちを、どこへ連れていけばいいのか。

久遠くおんページはしに指を置き、ゆっくりでた。指先が紙のふちをなぞる動作は丁寧で、どこか名残惜しげだった。海図かいずの最後の線に触れている。この先にはもう、久遠くおん義眼ぎがんが読み取れる情報がない。

海図かいずはしは、境界きょうかいはしでもある。……ここを越えると、戻る線は自分で書くことになる」

戻る線を自分で書く。その言葉が車内の空気に染み込んだ。行きの道は海図かいずが教えてくれた。けれど帰りの道は、自分の手で描かなければならない。帰る場所への道を、歩きながら記録きろくしていく。それは名前を集める旅の延長であり、同時にまったく別の覚悟を求めるものだった。

こよいは息を吸った。車内の空気は乾いていて、のどの奥がわずかに痛んだ。

「しおりさんが言ってた。『ここから先は、あなたが書く』って」

しおりの声が耳の奥でよみがえった。帳面ちょうめんを渡してくれたときの、穏やかで、けれど強い声。旅のあいだ、荷の奥で大切に守り、消された名前を書き写す夜にだけ開いてきた帳面。墨の井戸で満たし直したあの頁の続きに、まだ白い紙は残っている。こよいはひざの上のしおりの帳面ちょうめんに目を落とした。革の表紙は使い込まれて柔らかく、角が丸くなっている。この帳面ちょうめんもまた、しおりから受け継いだ道の一つだった。

久遠くおんが短く笑った。鼻から漏れる、小さな呼気こき。笑いというよりは、納得の音に近かった。

「同じことだ」

あさひが剣のつかを叩く。てのひらの底で柄頭つかがしらを打つ、硬い音。その音は車内の壁に跳ね返り、天井を伝って消えた。

「書くなら、歩け」

三人はページを閉じた。久遠くおん海図かいず目録もくろくに挟み、ひもで縛った。あさひが剣を腰に差し直し、立ち上がった。床板が足の重みを受けてきしむ。  きりの先へ足を向けた。海図かいずはし。そこは終点しゅうてんではなく、外へ出るためのふちだった。地図が終わる場所。記録きろくの保護が届かなくなる場所。けれどそこを越えなければ、残りの名前には届かない。

久遠くおんは、白い余白よはくを一度だけ指で叩いた。紙が、かすかに鳴る。薄い紙が空気を弾く音。その音は小さかったが、車内の沈黙の中ではっきりと聞こえた。

はしは怖い。端を怖がるだけじゃ、いつまでもはしの内側だ」

久遠くおんの声には、自分自身に言い聞かせるような響きがあった。義眼ぎがん蒼光そうこうが、普段より少しだけ明るくともっている。怖いと口にできるのは、久遠くおんの強さだった。怖さを認めた上で、足を踏み出す。それが久遠くおんのやり方だった。

こよいは頷いた。しおりの帳面ちょうめんを抱える腕に、少し力が入る。革の表紙が腕の内側に当たり、そこだけ温かかった。

「……書くなら、まずは一行いちぎょうからだね」

海図かいずはしは、白い。何も描かれていない。だからこそ、最初の線がはっきりする。白い紙に引かれた一本の線は、どんな地図よりも鮮明せんめいに見える。

こよいは帳面ちょうめんを開いた。久遠くおんが無言でインクつぼを差し出す。数行ぶんの、最後の墨。その一滴を含ませた筆を、白いページに当てた。筆先が紙に触れた瞬間、微かな抵抗があった。紙がすみを吸い込もうとしている。こよいは息を止めず、ゆっくりと手を動かした。  一本の線を引いた。短い線だった。ページはしから、白い余白よはくに向かって伸びる、指の長さほどの一本。  けれどそれは、地図の外に引かれた最初の道だった。

きりが薄くなった。車窓の向こうで、灰色の幕が裂けるように割れ、その隙間から淡い光が差し込んでいる。光に照らされたきり粒子りゅうしが金色に輝き、すぐに消えた。  その先に、まだ名前のない土地の輪郭りんかくが浮かんでいた。山なのか丘なのか、それとも建物の残骸ざんがいなのか。形ははっきりしない。ただ、何かがそこにある。誰にも記録きろくされていない何かが、きりの向こうで待っている。

おたまが、乾きかけの線の匂いを嗅ぎ、満足したように目を細めた。

こよいは帳面ちょうめんひざの上に開いたまま置いた。すみが乾くまでは、閉じない。一本の線が、白い紙の上で黒く光っていた。

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