潮が引いた。 それ自体は珍しくない。宵波浜の外縁の、本物の水の混じる一帯では、日に二度、海が後ずさる。だが今回は、水が戻ってこなかった。
「均衡の崩れだ」
久遠が液面の彼方を見た。
「桟橋で名前を引き上げた分、この海域の理が釣り合いを失っている。潮の周期まで、狂い始めた」
引いた海面がそのまま遠ざかり、砂底が剥き出しになっていく。干潟の先、さらにその先まで。水際の線が、見る間に後退した。
「……遠い」
こよいが立ち上がった。
水平線の手前に、あるはずのない地面が広がっている。灰色の砂に混じって、石の角が無数に顔を出していた。
「あれ、建物だ」
あさひが目を細めた。
潮が退いた後の海底に、崩れた壁が連なっている。石壁の高さは膝ほど。規則的に並んでいるのは、通りの跡だろう。道の幅は均一で、交差する角度も一定だった。
計画的に造られた町の残骸。 海の底で、何百年も沈黙していたもの。海藻の枯れた跡が壁にこびりつき、貝殻の破片が砂に白く散っていた。海底にいた時間の長さが、石の一つ一つに刻まれている。
「降りよう」
こよいは砂の斜面を滑るようにして、露出した海底へ下りた。足元の砂は硬く、水分を含んで灰色に光っている。
石壁に近づくと、表面に刻み目があった。 文字だ。 だが、こよいの知っている文字ではない。
久遠が義眼を光らせた。 蒼光が石壁の表面を走る。彫りの深さ、画数、間隔。どれも今の記録体系とは異なっていた。
「これは名前だ」
久遠の声が低くなった。
「名前の記録法が、今と違う。今の体系では一柱に対して一つの名前を、写本に墨で記す。だが、この石板は違う。一つの名前に対して、三層の彫りがある」
こよいはしゃがんで、石板の溝に指を入れた。 三つの深さの線が、同じ名前を繰り返し刻んでいる。一番深い線は石の奥まで届き、浅い線は表面近くで止まっていた。
「なんで三回も同じ名前を」
「冗長性だ」
久遠が石板を撫でた。
「一つが消えても二つ残る。二つが消えても一つ残る。名前を失わないための仕組みだ。今の写本には、それがない」
おたまが、通りの跡を先へ歩いていた。海底だった道の真ん中を、乾いた足で、住人のように歩く。千年前、この道を歩いた猫がいたのなら、きっとこんな足取りだったろう。
あさひが別の石壁の前に立っていた。 そこにも文字が刻まれている。だが、風化が進んで読めない部分が多い。それでも、最も深い溝だけは残っていた。
「三層のうち、一番深い線だけが生き残ってる」
「千年以上前の名前が、まだここにある」
久遠の義眼が揺れた。 蒼光が不安定に明滅する。
こよいは立ち上がり、露出した海底を見渡した。崩れた石壁が、数百メートル先まで続いている。通りの跡、広場の跡、井戸の跡。ひとつの町がまるごと海に沈んでいた。
「観測者より前に、名前を守ってた人たちがいたんだ」
こよいの声が震えた。膝が砂に沈み、冷たい湿り気が布を通して肌に触れたが、立ち上がる気にはなれなかった。
巾着の中で神々が脈打つ。 温かさが、布越しに手のひらへ伝わった。
「観測者が来る前から、名前はあった。名前を刻む人たちがいた。石に三度刻んで、絶対に消えないようにして」
久遠は黙って頷いた。 義眼の光を石板に当てたまま、指先で溝の深さを測っている。
あさひが剣の柄から手を離した。 ここに敵はいない。ここにあるのは、はるか昔に名前を守ろうとした人々の痕跡だけだった。
「こいつらの方が、本気だったってことか」
あさひが呟いた。
石に刻む。三度刻む。海に沈んでもなお読める深さで。紙の写本では、真似のできない強さだった。
遠くで波の音がした。 潮が、戻り始めている。ゆっくりと、だが確実に。水際の線が砂を舐め、石壁の足元に届こうとしていた。
「時間がない」
こよいは写本を取り出した。 石板に残された名前を、一つだけ。最も深い溝の文字を、紙に写し取った。今の文字体系に変換せず、原形のまま。
墨が紙に馴染んだ瞬間、巾着が熱くなった。 神々が、古い名前に反応している。
「知ってるんだ。この名前を」
こよいは巾着を握った。
神々は答えない。ただ、脈動だけが速くなった。知っているのだ。四柱のうちの誰かが——あるいは四柱全員が、この名前を知っている。千年前の名前と、こよいの巾着の中の神々。二つの時間が、どこかで繋がっている。問いは、水の中に持ち越された。
潮が足首に触れた。冷たい水が、砂の上を広がっていく。石壁が、再び水に沈み始めた。
三人は斜面を駆け上がった。足元の砂が崩れ、靴の中に冷たい水が入り込んだ。あさひが先に上がり、手を伸ばしてこよいを引き上げた。
振り返ると、石の通りはもう半分が水の下だった。最も高い壁の先端だけが、水面に突き出ている。
やがてそれも沈んだ。 波が何事もなかったように閉じる。
返らぬ潮は、一度だけ底を見せて、また閉じた。
こよいは胸に写本を当てた。 紙の上に、古い名前が一つ。 千年の沈黙を経て、再び地上に出た名前だった。石に三度刻まれた名前を、今度は紙の上で守る番だと、こよいは思った。 観測者よりも前に、名前を守ろうとした人々がいた。三度刻むほどの、本気で。その本気の続きを、いま、自分たちがやっている。そう思うと、桟橋に残してきた二柱の重さが、少しだけ違って感じられた。
