第363話 返らぬ潮
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第363話 返らぬ潮

第12章 記録の裂目

潮(しお)が引いた。  それ自体は珍しくない。宵波浜(よいなみはま)の外縁の、本物の水の混じる一帯では、日に二度、海が後ずさる。だが今回は、水が戻ってこなかった。

「均衡(きんこう)の崩れだ」

久遠(くおん)が液面の彼方を見た。

「桟橋で名前を引き上げた分、この海域の理(ことわり)が釣り合いを失っている。潮の周期まで、狂い始めた」

引いた海面がそのまま遠ざかり、砂底(さてい)が剥(む)き出しになっていく。干潟(ひがた)の先、さらにその先まで。水際の線が、見る間に後退した。

「……遠い」

こよいが立ち上がった。

水平線(すいへいせん)の手前に、あるはずのない地面が広がっている。灰色の砂に混じって、石の角が無数に顔を出していた。

「あれ、建物だ」

あさひが目を細めた。

潮(しお)が退いた後の海底に、崩れた壁が連なっている。石壁(いしべき)の高さは膝(ひざ)ほど。規則的に並んでいるのは、通りの跡だろう。道の幅は均一で、交差する角度も一定だった。

計画的に造られた町の残骸(ざんがい)。  海の底で、何百年も沈黙(ちんもく)していたもの。海藻(かいそう)の枯れた跡が壁にこびりつき、貝殻(かいがら)の破片(はへん)が砂に白く散っていた。海底にいた時間の長さが、石の一つ一つに刻まれている。

「降りよう」

こよいは砂の斜面を滑るようにして、露出した海底へ下りた。足元の砂は硬く、水分を含んで灰色に光っている。

石壁(いしべき)に近づくと、表面に刻み目があった。  文字だ。  だが、こよいの知っている文字ではない。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を光らせた。  蒼光(そうこう)が石壁(いしべき)の表面を走る。彫りの深さ、画数、間隔(かんかく)。どれも今の記録体系(たいけい)とは異なっていた。

「これは名前だ」

久遠(くおん)の声が低くなった。

「名前の記録(きろく)法が、今と違う。今の体系では一柱(ひとはしら)に対して一つの名前を、写本(しゃほん)に墨(すみ)で記す。だが、この石板(せきばん)は違う。一つの名前に対して、三層の彫りがある」

こよいはしゃがんで、石板(せきばん)の溝に指を入れた。  三つの深さの線が、同じ名前を繰り返し刻んでいる。一番深い線は石の奥まで届き、浅い線は表面近くで止まっていた。

「なんで三回も同じ名前を」

「冗長性(じょうちょうせい)だ」

久遠(くおん)が石板(せきばん)を撫(な)でた。

「一つが消えても二つ残る。二つが消えても一つ残る。名前を失わないための仕組みだ。今の写本(しゃほん)には、それがない」

おたまが、通りの跡を先へ歩いていた。海底だった道の真ん中を、乾いた足で、住人のように歩く。千年前、この道を歩いた猫がいたのなら、きっとこんな足取りだったろう。

あさひが別の石壁(いしべき)の前に立っていた。  そこにも文字が刻まれている。だが、風化(ふうか)が進んで読めない部分が多い。それでも、最も深い溝だけは残っていた。

「三層のうち、一番深い線だけが生き残ってる」

「千年以上前の名前が、まだここにある」

久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が揺れた。  蒼光(そうこう)が不安定に明滅(めいめつ)する。

こよいは立ち上がり、露出した海底を見渡した。崩れた石壁(いしべき)が、数百メートル先まで続いている。通りの跡、広場の跡、井戸(いど)の跡。ひとつの町がまるごと海に沈んでいた。

「観測者(かんそくしゃ)より前に、名前を守ってた人たちがいたんだ」

こよいの声が震えた。膝(ひざ)が砂に沈み、冷たい湿り気が布を通して肌に触れたが、立ち上がる気にはなれなかった。

巾着(きんちゃく)の中で神々が脈打つ。  温かさが、布越しに手のひらへ伝わった。

「観測者(かんそくしゃ)が来る前から、名前はあった。名前を刻む人たちがいた。石に三度刻んで、絶対に消えないようにして」

久遠(くおん)は黙って頷(うなず)いた。  義眼(ぎがん)の光を石板(せきばん)に当てたまま、指先で溝の深さを測っている。

あさひが剣の柄(つか)から手を離した。  ここに敵はいない。ここにあるのは、はるか昔に名前を守ろうとした人々の痕跡(こんせき)だけだった。

「こいつらの方が、本気だったってことか」

あさひが呟(つぶや)いた。

石に刻む。三度刻む。海に沈んでもなお読める深さで。紙の写本(しゃほん)では、真似のできない強さだった。

遠くで波の音がした。  潮(しお)が、戻り始めている。ゆっくりと、だが確実に。水際の線が砂を舐め、石壁(いしべき)の足元に届こうとしていた。

「時間がない」

こよいは写本(しゃほん)を取り出した。  石板(せきばん)に残された名前を、一つだけ。最も深い溝の文字を、紙に写し取った。今の文字体系に変換せず、原形のまま。

墨(すみ)が紙に馴染(なじ)んだ瞬間、巾着(きんちゃく)が熱くなった。  神々が、古い名前に反応している。

「知ってるんだ。この名前を」

こよいは巾着(きんちゃく)を握った。

神々は答えない。ただ、脈動だけが速くなった。知っているのだ。四柱のうちの誰かが——あるいは四柱全員が、この名前を知っている。千年前の名前と、こよいの巾着の中の神々。二つの時間が、どこかで繋がっている。問いは、水の中に持ち越された。

潮(しお)が足首に触れた。冷たい水が、砂の上を広がっていく。石壁(いしべき)が、再び水に沈み始めた。

三人は斜面を駆け上がった。足元の砂が崩れ、靴の中に冷たい水が入り込んだ。あさひが先に上がり、手を伸ばしてこよいを引き上げた。

振り返ると、石の通りはもう半分が水の下だった。最も高い壁の先端だけが、水面に突き出ている。

やがてそれも沈んだ。  波が何事もなかったように閉じる。

返らぬ潮(しお)は、一度だけ底を見せて、また閉じた。

こよいは胸に写本(しゃほん)を当てた。  紙の上に、古い名前が一つ。  千年の沈黙(ちんもく)を経て、再び地上に出た名前だった。石に三度刻まれた名前を、今度は紙の上で守る番だと、こよいは思った。  観測者よりも前に、名前を守ろうとした人々がいた。三度刻むほどの、本気で。その本気の続きを、いま、自分たちがやっている。そう思うと、桟橋に残してきた二柱の重さが、少しだけ違って感じられた。

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