潮の引く刻を選び、空白の帯を避けながら、三人と一匹は外縁の浜を渡り直した。おたまの選ぶ道筋を辿れば、崩れる砂も、消える縁も、踏まずに済んだ。
宵波浜の旧桟橋は、三本の杭だけで成り立っていた。杭と杭の間に、腐りかけた板が二枚、かろうじて渡されている。 板の表面には塩の結晶が白く噴き、踏むたびにじゃりじゃりと砕ける。潮に晒され続けた木材は灰色に変色し、繊維がほつれて毛羽立っていた。桟橋の下から立ち上る潮の匂いは濃く、金属と塩と、もう一つ名前のつけられない甘さが混ざっている。溶けた名前の匂いだった。 こよいが足を乗せると、板が撓んだ。 足裏から伝わる木のしなりに、体重の分だけ板が沈む。杭の接合部から軋む音がして、古い釘が木の中で回る感触があった。 下は金色の液体だった。
中央の杭に、古い木札が一枚、針金で括りつけられていた。船着きの札——係留する船の名を書くための札だろう。文字は潮に洗われて消えている。はずだった。 こよいが目を留めたとき、札の表面に、薄い文字が滲み出ていた。
「深さは」
あさひが杭を掴みながら訊いた。杭の表面に爪が食い込み、腐りかけた木の破片が指の間に落ちる。
「底がない」
久遠が義眼で液面を見通した。 蒼光が金色の液体に吸い込まれていく。光の筋が液面を突き抜け、奥へ奥へと伸びようとするが、途中で拡散して消える。水の中に光を通さない何かが充満している。 普段なら地面まで見通せるはずの義眼が、ここでは何も映さなかった。
「溶解した名前が堆積して液体になっている。数千年分の名前だ。深さという概念が通用しない」
久遠の声には、分析者の冷静さと、その冷静さでも覆い切れない微かな畏れがあった。数千年。その時間の重みが、金色の液面の下に圧縮されている。こよいは液面を見つめた。波紋のない、完全に静止した金色の鏡。自分の顔が映っているはずだが、液体が濃すぎて輪郭すら分からなかった。
こよいは桟橋の端にしゃがんだ。 膝が板に触れ、板の湿気がズボンに染みる。冷たさが膝頭から太股に這い上がった。 写本を一枚取り出した。
四柱のうちの一柱目。
名前の文字を確認してから、紙の端を液体に浸した。指先に冷たさが走った。 液体の温度ではない。 骨の中を直接撫でられるような冷たさだった。表皮を通さず、筋肉を通さず、いきなり芯に触れてくる。
名前の冷たさだった。
声を失い、形を失った名前たちの悲しみが、液体を通じて指に伝わってくる。何千という名前が溶け合い、互いの輪郭を失い、もはや誰のものでもない悲嘆となって液体の中を漂っている。個々の声は聞き分けられない。だがその総体が、指先から腕を伝い、胸の奥に沁みてくる。 写本が震えた。紙が液体を吸い込んでいる。 金色の水分が繊維に浸透し、墨の文字に触れた瞬間、文字が光った。白く、鋭く、一瞬だけ。名前が名前を認識した光だった。 液面が揺れた。写本の名前が、液体の中の同じ名前を引き寄せている。 水面の下で、ゆっくりと金色の塊が浮き上がってきた。
人の形ではない。
ひらがな二文字分の、小さな光の塊。淡い金色に脈打ち、液面の直下で揺れている。こよいは写本で塊を掬い上げた。 紙が塊を吸い取る。墨の文字が塊に触れた瞬間、紙の繊維が膨らみ、文字の周囲に金色の光が滲んだ。
文字の上に、もう一層の文字が重なった。 同じ名前の、同じ音。だが深みが違う。写本の文字が表面なら、今重なった文字は根だった。
「一柱、回収した」
久遠が確認した。 義眼が写本を照らす。蒼光の中で、二層に重なった文字の構造が透けて見えた。
「名前の密度が戻っている。この一柱は、まだ十分に形を保っていた」
こよいは写本を胸に当てた。 湿った紙が温かかった。液体の冷たさではない、別の温度。紙が吸い取った名前の熱が、布越しに胸に届く。 名前が戻ってきた温もりだった。 たった今、数千年分の悲嘆の中から一つの名前を引き上げた。その重みが、紙越しに胸骨を押す。巾着の中で神々が脈打ち、写本の温もりと混ざり合った。
残り四柱のうち三柱。 二枚目の写本を取り出した。指が微かに震えている。一柱目の冷たさがまだ骨に残っていた。 桟橋の下で、金色の液体が静かに渦を巻いていた。一柱目を引き上げたことで、液体の均衡が僅かに崩れたのだろう。渦の中心から、かすかな光の粒が浮いては沈む。 気づけば、風が板を鳴らす音が、耳に届くようになっていた。音を吸っていた液体が、均衡を崩した分だけ、音を取りこぼし始めている。この浜に、少しずつ音が戻ってくる。 そして——杭の木札の文字が、書き換わった。滲んでいた薄い文字が消え、別の形が浮かぶ。久遠が義眼を細めた。 「……次に近づいている名前だ。この札は、桟橋に近づく船の名を映していた。今は、近づく名前を映している」
こよいは紙の端をもう一度、金色の液面に浸した。 今度は、引き寄せられてくるまでに少し時間がかかった。 深い場所に沈んでいるのだろう。写本を持つ手が、微かに震えた。液体の中から伝わる冷たさが、腕を伝って肩まで上がってくる。名前の重みが、深ければ深いほど増していく。
「そこからは、届かない」
声が、桟橋の端からした。
おたまが、いつのまにかそちらへ歩いていた。その足元に、泥ではなく金色の液に濡れた外套の裾があった。
「鈴音」
こよいは息を呑んだ。天都の泥で、泥の井戸で別れた少女が、この液体の海の縁に、膝を折って座っていた。腕は肩まで金色に濡れている。この浜で、ずっと掘っていたのだ。
「言ったでしょ。名前が全部集まる海に行くなら、って。……ここが、その海」
鈴音は液面へ腕を差し入れた。透けかけた指が、こよいの写本では届かなかった深みへ、まっすぐ潜っていく。消された側の手は、この液体に拒まれない。彼女はそこから、二柱目の光の塊を、そっと掬い上げた。
「掘るのは、得意なの」
こよいは差し出された光を写本で受けた。二層の文字が、紙に根を張る。
鈴音の腕が、また透けた。深く潜るほど、彼女自身も削れる。名前を拾う者が、自分の形を代償に払っている。
「鈴音の芯も、ここにあるの」
こよいが訊くと、鈴音は液面の底を、長いこと見た。
「たぶん。どこか、いちばん深いところに。……でも、自分の名前は、自分では掬えないの。掘る手は、自分の底までは届かない」
こよいは巾着の空の小瓶を握った。天都の泥で、泥の井戸で、二度受け取った芯を返し、また空になった瓶。
「じゃあ、ぼくが掘る。鈴音の名前が全部集まったら、ここで、ぼくが」
鈴音は、答えなかった。ただ、金色に濡れた手で、こよいの写本の束に、一度だけ触れた。約束を、紙に預けるように。
二柱目が、紙に根を張った。鈴音が掘り、こよいが受ける。二人の手が、初めて一つの作業になっていた。
あさひは杭に背を預け、水平線の彼方を見張っている。潮風が髪を乱すが、瞬きもしない。鈴音をひと目見て、それ以上は何も言わなかった。名前を拾う者が増えたことを、あさひは事実として呑み込んだ。
金色の液面に映る空は灰色で、雲の切れ間から差す光が液体の表面で砕けて散る。その一つ一つの光の粒に、鈴音は、まだ掬われぬ名前を見ているようだった。自分自身の芯も、そのどこかに。
