第364話 墨の減り
364

第364話 墨の減り

第12章 記録の裂目

久遠くおん目録もくろくから、紙の匂いが薄くなっていた。それは、紙が古くなった匂いではない。  紙に染みていたすみの匂いが消えていく匂いだった。海沿いの風が吹く。塩の匂いに紛れて、鉄の匂いと、乾いたすみの匂いが混ざる。だがそのすみの匂いは、目録もくろくから漏れ出したものだった。紙の中に留まっていた匂いが、風に引き出されるようにして抜けていく。  こよいは久遠くおんの隣で、その変化を鼻の奥で感じ取っていた。昨日まではもっと濃かった。ページをめくるたびに立ち上っていた、あのすみと紙とのりの入り混じった匂いが、今日は半分ほどに痩せている。

久遠くおんページの端を親指でこすった。指先に、黒が付かない。  昨日までは、ページを強く擦ればすみの粉が僅かに指に移っていた。文字の定着が甘い部分や、重ね書きした箇所では、とくに。それが今日は、どこを擦っても指が白いままだった。すみが紙から消えているのではない。すみの中身だけが抜き取られている。外殻がいかくは残り、色は残り、しかし文字としての力が空になっている。

「……減ってる」

こよいが言うと、久遠くおんは頷いた。  頷き方がいつもより遅い。認めたくないものを認める間合いだった。

すみが——いや、インク《いんく》が……この辺りじゃ、書いた端から奪われる」

あさひが眉を寄せた。  腕を組んだまま、桟橋さんばし残骸ざんがいもたれている。背後の海から吹く風が、あさひの短い髪を揺らした。

「奪うって、誰が」

久遠くおん目録もくろくを閉じ、背表紙を叩いた。  硬い、乾いた音。紙とかわの間から、微かに光の粉が舞った。目に見えるか見えないかの粒子りゅうしが、風に乗って散る。すみの力が、目録もくろくの外へ漏れていく瞬間だった。

「場所だ。記録きろくの裂け目は、文字の燃料ねんりょうを食う。……書けば書くほど、持っていかれる」

こよいは久遠くおんの手元を見た。目録もくろくの表紙に、指の跡が無数に重なっている。何度もめくり、何度も戻し、何度も読み返した痕跡こんせき。その一つ一つが、この目録もくろくにとっては記録きろくの重みだった。そして今、その重みの分だけ、すみが奪われている。

こよいは巾着きんちゃくを握った。  神々は静かだった。静かなのに、胸の奥が落ち着かない。名前を集める旅の道具が、旅を続けるほどに痩せていく。矛盾むじゅんが、喉元に引っかかる。

「書けなくなったら、どうするの?」

「選ぶ」

久遠くおんは即答した。  迷いのない声だった。この問いを、とうに自分の中で済ませた後の声。

「何を残すか。何を捨てるか。……インク《いんく》が減るってのは、そういうことだ」

風が強くなった。海鳴うみなりが遠くから押し寄せ、波が岩に当たる低い衝撃音が断続的に響く。  こよいは、その言葉の冷たさに息を詰めた。選ぶ。つまり、書かれないものは、無かったことになる。記録きろくされなかった名前は存在しなかったことになり、記録きろくされなかった出来事は起きなかったことになる。インク《いんく》が有限であるということは、世界が有限であるということだ。

あさひが布越しに剣の腹を指で弾く。くぐもった短い音が、海鳴うみなりの間に差し込まれた。

「なら、俺は書かない」

「……お前はな」

久遠くおんが苦く笑った。  笑いというには硬い。口の端が片方だけ持ち上がり、義眼ぎがん蒼光そうこうが一瞬だけ揺れる。あさひへの皮肉ではなかった。あさひの在り方への、羨望せんぼうに近い何かだった。

「お前は身体で覚える。だが、こよいは違う。……あいつは、言葉を抱えて歩く」

こよいは言い返せなかった。確かに、言葉がないと怖いから、言葉で境界きょうかいを作ってきた。名前を集めること、写本しゃほんに書き写すこと、目録もくろく記録きろくすること。それはすべて言葉の作業だった。言葉がなければ、こよいは自分の足元すら確かめられない。暗闇くらやみの中で手探りをするように、言葉で壁を作り、天井を作り、床を作ってきた。  その言葉が、ここではけずられていく。

久遠くおんは最後に残った小さなインクつぼを取り出し、ふたを開けた。底が見える。  壺の内壁にすみ痕跡こんせきがこびりつき、液体としてのインク《いんく》は、あと数行ぶん——大切に使って、線の何本か、文字の何十かで尽きる量しか残っていなかった。壺の底で、黒い液体が浅いまくのように揺れている。

「……減る前提で書く。減るからこそ、正確に書く。……それが、次の町で必要になる」

久遠くおんは壺のふたを慎重に閉めた。ふたと壺の縁が合わさる小さな音が、風の中でやけに鮮明だった。

風が吹き、目録もくろくページが勝手にめくれた。白い余白よはくが、やけにまぶしかった。  まだ何も書かれていないページ。それは可能性であると同時に、書くためのインク《いんく》が足りないかもしれないという脅威きょういでもあった。白いページが増えるほど、書くべきものと書けるものの差が開いていく。

こよいは、その白に向かって、小さくうなずいた。インク《いんく》の減りは、終わりじゃない。書くものが絞られるだけだ。  絞られるなら、残すべきものを間違えなければいい。こよいは巾着きんちゃくひもを握り直した。神々が微かに脈打っている。この温もりだけは、インク《いんく》がなくても消えない。言葉にならない記憶きおくは、身体が覚えていればいい。あさひがそうであるように。

久遠くおんはインクつぼふたを閉め、懐に戻した。  指先にわずかに残ったすみの黒が、海風に乾いていく。指の腹の紋様もんようの溝に入り込んだすみだけが、最後まで残っていた。

おたまが、閉じられたインクつぼの匂いを一度だけ嗅ぎ、それから久遠くおんの膝に顎を載せた。書けない記録者の膝は、猫の枕には、ちょうどよかった。

三人とも、しばらく何も書かなかった。  書かない時間が、インク《いんく》を守る時間になっていた。  波の音が遠く近く繰り返し、しおの匂いが三人の衣服に染みていく。こよいは目を閉じ、風の音だけを聞いた。風は何も奪わない。風は何も書かない。ただ通り過ぎるだけの、記録きろくを持たない存在。その軽さが、今は少しだけうらやましかった。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます