久遠の目録から、紙の匂いが薄くなっていた。それは、紙が古くなった匂いではない。 紙に染みていた墨の匂いが消えていく匂いだった。海沿いの風が吹く。塩の匂いに紛れて、鉄の匂いと、乾いた墨の匂いが混ざる。だがその墨の匂いは、目録から漏れ出したものだった。紙の中に留まっていた匂いが、風に引き出されるようにして抜けていく。 こよいは久遠の隣で、その変化を鼻の奥で感じ取っていた。昨日まではもっと濃かった。頁をめくるたびに立ち上っていた、あの墨と紙と糊の入り混じった匂いが、今日は半分ほどに痩せている。
久遠は頁の端を親指で擦った。指先に、黒が付かない。 昨日までは、頁を強く擦れば墨の粉が僅かに指に移っていた。文字の定着が甘い部分や、重ね書きした箇所では、とくに。それが今日は、どこを擦っても指が白いままだった。墨が紙から消えているのではない。墨の中身だけが抜き取られている。外殻は残り、色は残り、しかし文字としての力が空になっている。
「……減ってる」
こよいが言うと、久遠は頷いた。 頷き方がいつもより遅い。認めたくないものを認める間合いだった。
「墨が——いや、インク《いんく》が……この辺りじゃ、書いた端から奪われる」
あさひが眉を寄せた。 腕を組んだまま、桟橋の残骸に凭れている。背後の海から吹く風が、あさひの短い髪を揺らした。
「奪うって、誰が」
久遠は目録を閉じ、背表紙を叩いた。 硬い、乾いた音。紙と革の間から、微かに光の粉が舞った。目に見えるか見えないかの粒子が、風に乗って散る。墨の力が、目録の外へ漏れていく瞬間だった。
「場所だ。記録の裂け目は、文字の燃料を食う。……書けば書くほど、持っていかれる」
こよいは久遠の手元を見た。目録の表紙に、指の跡が無数に重なっている。何度もめくり、何度も戻し、何度も読み返した痕跡。その一つ一つが、この目録にとっては記録の重みだった。そして今、その重みの分だけ、墨が奪われている。
こよいは巾着を握った。 神々は静かだった。静かなのに、胸の奥が落ち着かない。名前を集める旅の道具が、旅を続けるほどに痩せていく。矛盾が、喉元に引っかかる。
「書けなくなったら、どうするの?」
「選ぶ」
久遠は即答した。 迷いのない声だった。この問いを、とうに自分の中で済ませた後の声。
「何を残すか。何を捨てるか。……インク《いんく》が減るってのは、そういうことだ」
風が強くなった。海鳴りが遠くから押し寄せ、波が岩に当たる低い衝撃音が断続的に響く。 こよいは、その言葉の冷たさに息を詰めた。選ぶ。つまり、書かれないものは、無かったことになる。記録されなかった名前は存在しなかったことになり、記録されなかった出来事は起きなかったことになる。インク《いんく》が有限であるということは、世界が有限であるということだ。
あさひが布越しに剣の腹を指で弾く。くぐもった短い音が、海鳴りの間に差し込まれた。
「なら、俺は書かない」
「……お前はな」
久遠が苦く笑った。 笑いというには硬い。口の端が片方だけ持ち上がり、義眼の蒼光が一瞬だけ揺れる。あさひへの皮肉ではなかった。あさひの在り方への、羨望に近い何かだった。
「お前は身体で覚える。だが、こよいは違う。……あいつは、言葉を抱えて歩く」
こよいは言い返せなかった。確かに、言葉がないと怖いから、言葉で境界を作ってきた。名前を集めること、写本に書き写すこと、目録に記録すること。それはすべて言葉の作業だった。言葉がなければ、こよいは自分の足元すら確かめられない。暗闇の中で手探りをするように、言葉で壁を作り、天井を作り、床を作ってきた。 その言葉が、ここでは削られていく。
久遠は最後に残った小さなインク壺を取り出し、蓋を開けた。底が見える。 壺の内壁に墨の痕跡がこびりつき、液体としてのインク《いんく》は、あと数行ぶん——大切に使って、線の何本か、文字の何十かで尽きる量しか残っていなかった。壺の底で、黒い液体が浅い膜のように揺れている。
「……減る前提で書く。減るからこそ、正確に書く。……それが、次の町で必要になる」
久遠は壺の蓋を慎重に閉めた。蓋と壺の縁が合わさる小さな音が、風の中でやけに鮮明だった。
風が吹き、目録の頁が勝手にめくれた。白い余白が、やけに眩しかった。 まだ何も書かれていない頁。それは可能性であると同時に、書くためのインク《いんく》が足りないかもしれないという脅威でもあった。白い頁が増えるほど、書くべきものと書けるものの差が開いていく。
こよいは、その白に向かって、小さく頷いた。インク《いんく》の減りは、終わりじゃない。書くものが絞られるだけだ。 絞られるなら、残すべきものを間違えなければいい。こよいは巾着の紐を握り直した。神々が微かに脈打っている。この温もりだけは、インク《いんく》がなくても消えない。言葉にならない記憶は、身体が覚えていればいい。あさひがそうであるように。
久遠はインク壺の蓋を閉め、懐に戻した。 指先にわずかに残った墨の黒が、海風に乾いていく。指の腹の紋様の溝に入り込んだ墨だけが、最後まで残っていた。
おたまが、閉じられたインク壺の匂いを一度だけ嗅ぎ、それから久遠の膝に顎を載せた。書けない記録者の膝は、猫の枕には、ちょうどよかった。
三人とも、しばらく何も書かなかった。 書かない時間が、インク《いんく》を守る時間になっていた。 波の音が遠く近く繰り返し、潮の匂いが三人の衣服に染みていく。こよいは目を閉じ、風の音だけを聞いた。風は何も奪わない。風は何も書かない。ただ通り過ぎるだけの、記録を持たない存在。その軽さが、今は少しだけ羨ましかった。
