空白の帯は、浜の奥へ進むほど数を増した。徒歩での踏破は危険すぎる。三人と一匹は列車に戻り、迂回線を行くことにした。線路は一度大きく東へ膨らみ、それから旧桟橋の背後へ回り込む——はずだった。
風が逆だった。
列車は東へ走っている。けれど風は西から吹いてこない。東から、列車の進行方向から、真正面に吹きつけてくる。車体が軋む。窓硝子が振動し、細かい砂粒が硝子の外側を叩いた。
こよいは座席で身を縮めた。風の圧力が車体を通じて伝わり、椅子の背もたれが微かに揺れている。
「おかしい」
あさひが窓の外を睨んだ。
「進んでる方向から風が来てる。こんな風、自然じゃない」
久遠は義眼を窓に向けた。蒼光が硝子を透かし、風の中を漂う粒子を照らし出す。砂ではなかった。
「文字だ」
「何?」
「風に文字が混じっている。砂じゃない。名前の断片が、風に乗って飛んできている」
こよいは窓に手を当てた。硝子越しに振動が伝わる。鼓動のようなリズムで、断続的に何かが硝子を叩いている。
「名前が戻ろうとしてる」
久遠が目録を開いた。海図の頁。線が揺れている。いつもの揺れとは違う。線の先端が、列車の進行方向ではなく、後方を指していた。
「この地域から奪われた名前が、元の場所に帰ろうとしている。風はその帰還の力だ。名前が自力で戻る流れが、列車の進行方向と逆向きの風を生んでいる」
あさひが腕を組んだ。
「なら、いいことじゃないのか。勝手に戻ってくるなら」
「戻れない」
久遠の声が冷たかった。
「名前は戻ろうとしている。だが戻る先がない。記録が消されているからだ。住所のない手紙と同じだ。届けたくても、届け先が存在しない」
列車が揺れた。風が一段と強くなっている。車輪の音が風圧に押されて歪み、金属のきしむ音が高くなった。
こよいは巾着を胸に抱いた。布の下で、風の神が微かに脈打っている。風の振動に呼応するように、脈が速くなっていた。
「名前が近い。たくさんある」
久遠が窓の外に義眼を据えた。蒼光を絞り、遠方を透視している。
「見えた」
「何が」
「裂目だ」
こよいも窓に顔を寄せた。遠く、線路の先に、空が割れていた。
割れている、としか言いようがなかった。空の色が左右で違う。右側は灰色の雲が垂れ込めた、これまで通りの液状化した記録の空。左側は、青かった。澄んだ青。雲もなく、光が差している。
その境目に、一本の線が走っていた。地面から空の頂まで、まっすぐに。
「記録の裂目だ。あそこで世界が二つに分かれている」
久遠が目録を閉じ、膝の上で両手を組んだ。珍しく、義眼の光が不安定に揺れている。
「裂目の右側が、観測者によって名前を消された世界。左側が、名前がまだ残っている世界。同じ場所の、二つの版だ。片方には名前があり、片方にはない。その食い違いが、裂目として物理的に現れている」
「じゃあ、左側に行けば名前が残ってるってこと?」
こよいが身を乗り出した。
「残っている。だが、行けない」
「なぜ」
「裂目は境界であって通路じゃない。二つの版は重なっているが繋がっていない。どちらか一方にしか存在できない。そして俺たちは、名前が消された側にいる」
風がさらに強くなった。列車が速度を落とし始めた。風圧に負けている。
こよいは窓の外を見つめた。裂目が近づいている。左側の青い空が広がり、その中に町の輪郭が見えた。屋根がある。煙が上がっている。人が歩いているのが、微かに見える。
名前のある世界の、消されなかった町の姿。
右側には何もなかった。更地。平らな地面。かつて町があった痕跡すら残されていない。
「同じ場所なのに」
こよいの声が震えた。
「同じ町なのに、片方には全部あって、片方には何もない」
久遠が立ち上がった。天井に手をつき、揺れる車体の中でバランスを取る。
「風を使え」
「風?」
「この風は名前が戻ろうとする力だ。名前は裂目を越えられない。だが風は越える。風に写本を晒せば、裂目の向こう側にある名前の原本と、こちら側の写本が共鳴する可能性がある」
あさひが窓を開けた。風が車内に吹き込み、髪が暴れた。目録の頁がばたばたと鳴り、こよいの写本が宙に舞いかけた。
こよいは写本を両手で押さえ、風に向かって掲げた。
紙が震えた。風の中の文字の粒が写本に触れ、墨の上を走っていく。一瞬、文字が濃くなった。また薄くなった。濃くなって、また薄くなる。
脈打っている。
裂目の向こう側にある原本と、こちら側の写本が、風を介して呼吸を合わせていた。
「名簿の三十七番。名前が補完された」
久遠が義眼で写本を読んだ。欠けていた音節が埋まっている。風が運んできた文字の断片が、写本の空白に吸着したのだった。
「もう一枚」
こよいは次の写本を風に晒した。
列車が裂目に近づくほど、風は強くなった。けれど怖くなかった。この風は奪いに来ているのではない。戻りたくて、戻れなくて、それでも吹き続けている風だった。
名前を運ぶ風。届け先を探す風。
こよいは風の中に立ち、写本を空に掲げ続けた。
列車が裂目の手前で止まった。 これ以上は進めない。線路が裂目で断たれていた。
窓から見上げると、裂目は空の高くまで伸びている。薄い光の膜のように揺れ、左右の世界を隔てていた。
風が、少しだけ弱くなった。
こよいは写本を胸に引き寄せた。三枚の写本に、新たに五つの名前が補完されていた。
裂目の向こう側で、青い空の下の町が、夕陽に染まっていく。煙が立ち上り、灯りが一つずつ点いていく。名前のある世界の、当たり前の夕暮れだった。
こよいはその光景を、長いあいだ見つめていた。おたまも、隣の窓枠で同じ方角を見ていた。猫の目に、裂目の光がどう映っているのかは、分からなかった。
迂回線は、裂目の手前で断たれていた。錆びたレールの先端が、名前のない色の中へ溶け込んで消えている。列車は静かに退がり、来た道を戻り始めた。 回り道は、失敗に終わった。旧桟橋へは、潮の引く刻を待って、外縁の浜を渡り直すしかない。それでも——写本には五つの名前が補完された。この世界に、無駄な回り道はないのかもしれなかった。
