第361話 反対の風
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第361話 反対の風

第12章 記録の裂目

空白(くうはく)の帯は、浜の奥へ進むほど数を増した。徒歩での踏破は危険すぎる。三人と一匹は列車に戻り、迂回線を行くことにした。線路は一度大きく東へ膨らみ、それから旧桟橋の背後へ回り込む——はずだった。

風が逆だった。

列車(れっしゃ)は東へ走っている。けれど風は西から吹いてこない。東から、列車の進行方向から、真正面に吹きつけてくる。車体が軋(きし)む。窓硝子(まどがらす)が振動し、細かい砂粒が硝子(ガラス)の外側を叩いた。

こよいは座席で身を縮めた。風の圧力が車体を通じて伝わり、椅子の背もたれが微かに揺れている。

「おかしい」

あさひが窓の外を睨(にら)んだ。

「進んでる方向から風が来てる。こんな風、自然じゃない」

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)を窓に向けた。蒼光(そうこう)が硝子(ガラス)を透かし、風の中を漂(ただよ)う粒子(りゅうし)を照らし出す。砂ではなかった。

「文字だ」

「何?」

「風に文字が混じっている。砂じゃない。名前の断片(だんぺん)が、風に乗って飛んできている」

こよいは窓に手を当てた。硝子(ガラス)越しに振動が伝わる。鼓動(こどう)のようなリズムで、断続的に何かが硝子(ガラス)を叩いている。

「名前が戻ろうとしてる」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。海図(かいず)の頁(ページ)。線が揺れている。いつもの揺れとは違う。線の先端が、列車の進行方向ではなく、後方を指していた。

「この地域から奪われた名前が、元の場所に帰ろうとしている。風はその帰還の力だ。名前が自力で戻る流れが、列車の進行方向と逆向きの風を生んでいる」

あさひが腕を組んだ。

「なら、いいことじゃないのか。勝手に戻ってくるなら」

「戻れない」

久遠(くおん)の声が冷たかった。

「名前は戻ろうとしている。だが戻る先がない。記録(きろく)が消されているからだ。住所のない手紙と同じだ。届けたくても、届け先が存在しない」

列車(れっしゃ)が揺れた。風が一段と強くなっている。車輪の音が風圧に押されて歪み、金属のきしむ音が高くなった。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。布の下で、風の神が微かに脈打っている。風の振動に呼応(こおう)するように、脈が速くなっていた。

「名前が近い。たくさんある」

久遠(くおん)が窓の外に義眼(ぎがん)を据えた。蒼光(そうこう)を絞り、遠方を透視している。

「見えた」

「何が」

「裂目(さけめ)だ」

こよいも窓に顔を寄せた。遠く、線路の先に、空が割れていた。

割れている、としか言いようがなかった。空の色が左右で違う。右側は灰色の雲が垂れ込めた、これまで通りの液状化した記録(きろく)の空。左側は、青かった。澄んだ青。雲もなく、光が差している。

その境目に、一本の線が走っていた。地面から空の頂まで、まっすぐに。

「記録(きろく)の裂目(さけめ)だ。あそこで世界が二つに分かれている」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じ、膝(ひざ)の上で両手を組んだ。珍しく、義眼(ぎがん)の光が不安定に揺れている。

「裂目(さけめ)の右側が、観測者(かんそくしゃ)によって名前を消された世界。左側が、名前がまだ残っている世界。同じ場所の、二つの版(ばん)だ。片方には名前があり、片方にはない。その食い違いが、裂目(さけめ)として物理的に現れている」

「じゃあ、左側に行けば名前が残ってるってこと?」

こよいが身を乗り出した。

「残っている。だが、行けない」

「なぜ」

「裂目(さけめ)は境界(きょうかい)であって通路じゃない。二つの版(ばん)は重なっているが繋(つな)がっていない。どちらか一方にしか存在できない。そして俺たちは、名前が消された側にいる」

風がさらに強くなった。列車(れっしゃ)が速度を落とし始めた。風圧に負けている。

こよいは窓の外を見つめた。裂目(さけめ)が近づいている。左側の青い空が広がり、その中に町の輪郭(りんかく)が見えた。屋根がある。煙が上がっている。人が歩いているのが、微かに見える。

名前のある世界の、消されなかった町の姿。

右側には何もなかった。更地(さらち)。平らな地面。かつて町があった痕跡(こんせき)すら残されていない。

「同じ場所なのに」

こよいの声が震えた。

「同じ町なのに、片方には全部あって、片方には何もない」

久遠(くおん)が立ち上がった。天井に手をつき、揺れる車体の中でバランスを取る。

「風を使え」

「風?」

「この風は名前が戻ろうとする力だ。名前は裂目(さけめ)を越えられない。だが風は越える。風に写本(しゃほん)を晒(さら)せば、裂目(さけめ)の向こう側にある名前の原本(げんぽん)と、こちら側の写本(しゃほん)が共鳴(きょうめい)する可能性がある」

あさひが窓を開けた。風が車内に吹き込み、髪が暴れた。目録(もくろく)の頁(ページ)がばたばたと鳴り、こよいの写本(しゃほん)が宙に舞いかけた。

こよいは写本(しゃほん)を両手で押さえ、風に向かって掲げた。

紙が震えた。風の中の文字の粒が写本(しゃほん)に触れ、墨(すみ)の上を走っていく。一瞬、文字が濃くなった。また薄くなった。濃くなって、また薄くなる。

脈打っている。

裂目(さけめ)の向こう側にある原本(げんぽん)と、こちら側の写本(しゃほん)が、風を介して呼吸(こきゅう)を合わせていた。

「名簿の三十七番。名前が補完(ほかん)された」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)で写本(しゃほん)を読んだ。欠けていた音節(おんせつ)が埋まっている。風が運んできた文字の断片(だんぺん)が、写本(しゃほん)の空白(くうはく)に吸着(きゅうちゃく)したのだった。

「もう一枚」

こよいは次の写本(しゃほん)を風に晒(さら)した。

列車(れっしゃ)が裂目(さけめ)に近づくほど、風は強くなった。けれど怖くなかった。この風は奪いに来ているのではない。戻りたくて、戻れなくて、それでも吹き続けている風だった。

名前を運ぶ風。届け先を探す風。

こよいは風の中に立ち、写本(しゃほん)を空に掲げ続けた。

列車(れっしゃ)が裂目(さけめ)の手前で止まった。  これ以上は進めない。線路が裂目(さけめ)で断たれていた。

窓から見上げると、裂目(さけめ)は空の高くまで伸びている。薄い光の膜(まく)のように揺れ、左右の世界を隔(へだ)てていた。

風が、少しだけ弱くなった。

こよいは写本(しゃほん)を胸に引き寄せた。三枚の写本(しゃほん)に、新たに五つの名前が補完(ほかん)されていた。

裂目(さけめ)の向こう側で、青い空の下の町が、夕陽(ゆうひ)に染まっていく。煙が立ち上り、灯りが一つずつ点(つ)いていく。名前のある世界の、当たり前の夕暮れだった。

こよいはその光景を、長いあいだ見つめていた。おたまも、隣の窓枠で同じ方角を見ていた。猫の目に、裂目の光がどう映っているのかは、分からなかった。

迂回線は、裂目の手前で断たれていた。錆びたレールの先端が、名前のない色の中へ溶け込んで消えている。列車は静かに退がり、来た道を戻り始めた。  回り道は、失敗に終わった。旧桟橋へは、潮の引く刻を待って、外縁の浜を渡り直すしかない。それでも——写本(しゃほん)には五つの名前が補完された。この世界に、無駄な回り道はないのかもしれなかった。

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