第360話 潮の空白
360

第360話 潮の空白

第12章 記録の裂目

宵波浜(よいなみはま)へ戻る道の途中、列車は外縁の浜——まだ本物の水と潮の残る一帯——に沿って停まった。旧桟橋へは、ここから歩いて渡り直すしかない。均衡の乱れで、核心部まで線路が保たなくなっているのだ。

潮(しお)が引いたあとに、空白(くうはく)が残った。  砂ではない。水でもない。何もない。  そこだけ、波が来ないから、音も来ない。  世界の一部分が、息を止めている。  空白(くうはく)の周囲では風が砂を巻き上げ、潮(しお)の匂いが鼻腔(びこう)の奥を刺していたが、その領域に入った瞬間、すべてが断たれた。音も、匂いも、空気の流れも、そこだけが世界から切り取られたように静止していた。

おたまは、空白(くうはく)の縁で足を止めていた。いつもなら、理(ことわり)の網にかからない猫が、平気で渡ってみせる。だが今回は、渡らなかった。縁に沿って回り道を選ぶ猫を見て、三人は理解した。これは、猫でさえ避けるものなのだ。

こよいは空白(くうはく)の縁に立ち、足を出しかけて引っ込めた。  踏めば沈むのではなく、踏んだ瞬間に「踏んだという事実」が抜け落ちそうだった。足先が空白(くうはく)に触れかけたとき、皮膚の表面が一瞬だけ痺(しび)れた。冷たさでも痛みでもない、存在そのものが薄まるような感覚。こよいは反射的に一歩退き、自分の足元の砂の感触を確かめた。硬い。ざらつく。確かにここにある。その確かさが、空白(くうはく)の異質さを際立たせた。

久遠(くおん)が言う。

「潮(しお)の空白(くうはく)は、記録(きろく)の空白(くうはく)だ。……ここで言葉を落とすと、拾えない」

久遠(くおん)の声は低く、慎重だった。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が空白(くうはく)の表面を走ったが、光はそのまま吸い込まれ、何も映し返さなかった。普段は地面や壁の奥まで見通す義眼(ぎがん)が、空白(くうはく)に対しては無力だった。

あさひが鼻を鳴らす。

「じゃあ、通れないのか」

「通れる。……ただし、通ったことにするな」

意味が分からなくて、こよいは黙った。  通れるのに、通ったことにしてはいけない。記憶に刻むな、ということだろうか。それとも、通過したという記録(きろく)そのものが、ここでは成り立たないのか。

久遠(くおん)は小石を拾い上げた。灰色の、親指ほどの丸い石。掌(てのひら)の中で一度転がしてから、空白(くうはく)に向かって放った。  石は落ちない。空白(くうはく)の上で止まり、ゆっくりと消えた。  輪郭(りんかく)がぼやけ、色が抜け、形がほどけていく。砕けるのではなく、溶けるのでもない。そこに在ったという事実ごと、引き剥(は)がされるように消えた。最後に残ったのは、石があった場所の空気がわずかに揺らいだ余韻(よいん)だけだった。

こよいは喉(のど)が鳴った。  唾を飲み込む音が、自分の耳にやけに大きく響く。

「……怖い」

「怖いのは正しい。……空白(くうはく)は優しい顔をして、全部持っていく」

久遠(くおん)の声に、諭すような響きがあった。恐怖を否定しない。恐怖を正しいと認めた上で、その先を見せる。それが久遠(くおん)のやり方だった。

あさひが先に動いた。  布包みの剣を空白(くうはく)へ突き出し、石突(いしづき)で縁(ふち)を叩く。  乾いた音がした。骨を打つような、硬くて短い反響(はんきょう)。  空白(くうはく)の輪郭(りんかく)が、一瞬だけ見えた。薄い膜(まく)のような縁取りが、衝撃に反応して白く光る。光はすぐに消えたが、こよいの目には空白(くうはく)の形が焼き付いた。不定形ではなかった。ゆるやかな楕円(だえん)。砂の上に開いた、底のない窓のような形。

「……ここを避けていけ」

あさひが目を逸(そ)らさずに言った。包みの先端で空白(くうはく)の輪郭(りんかく)を示しながら、迂回(うかい)の経路を顎(あご)で指す。あさひの目は空白(くうはく)を見据えたまま動かない。敵と対峙(たいじ)するときと同じ目だった。

こよいは頷(うなず)き、空白(くうはく)を迂回(うかい)した。  足元の砂を踏みしめるたびに、粒の一つ一つが足裏に食い込む。その感触が、今は頼もしかった。在るものを踏んでいる。確かなものの上を歩いている。  空白(くうはく)は追いかけてこない。ただ、そこにある。  追いかけてこないことが、かえって不気味だった。逃げる必要がないほど、空白(くうはく)は完全だった。来るものを待つだけでいい。いつか、誰かが踏む。それだけで十分だと、空白(くうはく)は知っている。

空白(くうはく)の縁(ふち)を回り込むとき、こよいは息を止めないようにした。  止めた呼吸は、空白(くうはく)に吸われる。  呼吸を意識すると、吸い込む空気が妙に薄く感じた。空白(くうはく)の傍(そば)では、空気そのものが希薄(きはく)になっているのかもしれない。あるいは、空気に含まれていた記録(きろく)の成分が抜き取られているのか。

久遠(くおん)が小声で言う。

「空白(くうはく)は、怖がるほど大きく見える。……だから、怖さを数えるな。歩数を数えろ」

こよいは頷(うなず)き、足の回数だけを胸で数えた。  一歩、二歩、三歩。砂を踏む音が拍子(ひょうし)のように規則正しく刻まれる。恐怖は消えない。だが歩数を数えている間は、恐怖の形が定まらない。定まらないものは、膨らめない。四歩、五歩、六歩。空白(くうはく)の縁が右手の視界から少しずつ遠ざかっていく。

潮(しお)が満ちれば空白(くうはく)は隠れる。だが消えるわけではない。  水の下に、記録(きろく)が剥(は)がれた穴がそのまま残っている。  海の底に空いた虫食(むしく)いのような空洞(くうどう)を、こよいは足裏の感触だけで避けた。砂の硬さが一瞬だけ変わる場所がある。踏んだ瞬間に、地面の密度が抜けるような感覚。その変化を足が捉えるたびに、半歩ずらす。  踏み外せば、自分の名前ごと落ちる。  巾着(きんちゃく)の中で神々が微かに震えた。水の気配に反応しているのか、空白(くうはく)の危険を感じ取っているのか。こよいは巾着(きんちゃく)を胸に引き寄せ、神々の温もりで自分を繋ぎ止めた。  あさひが先頭を歩いている。布包みの剣の石突(いしづき)で地面を軽く突きながら、安全な場所を確かめていた。石突(いしづき)が砂に触れる音と、空白(くうはく)の縁を叩く空虚な音。二つの音の違いで、道を選んでいる。  三人は黙ったまま、空白(くうはく)と空白(くうはく)のあいだの、まだ残っている記録(きろく)の上だけを選んで歩いた。  潮(しお)の匂いが風に乗って頬を撫(な)でる。遠くで波の音が聞こえるが、足元の空白(くうはく)だけは沈黙を守り続けていた。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます