宵波浜へ戻る道の途中、列車は外縁の浜——まだ本物の水と潮の残る一帯——に沿って停まった。旧桟橋へは、ここから歩いて渡り直すしかない。均衡の乱れで、核心部まで線路が保たなくなっているのだ。
潮が引いたあとに、空白が残った。 砂ではない。水でもない。何もない。 そこだけ、波が来ないから、音も来ない。 世界の一部分が、息を止めている。 空白の周囲では風が砂を巻き上げ、潮の匂いが鼻腔の奥を刺していたが、その領域に入った瞬間、すべてが断たれた。音も、匂いも、空気の流れも、そこだけが世界から切り取られたように静止していた。
おたまは、空白の縁で足を止めていた。いつもなら、理の網にかからない猫が、平気で渡ってみせる。だが今回は、渡らなかった。縁に沿って回り道を選ぶ猫を見て、三人は理解した。これは、猫でさえ避けるものなのだ。
こよいは空白の縁に立ち、足を出しかけて引っ込めた。 踏めば沈むのではなく、踏んだ瞬間に「踏んだという事実」が抜け落ちそうだった。足先が空白に触れかけたとき、皮膚の表面が一瞬だけ痺れた。冷たさでも痛みでもない、存在そのものが薄まるような感覚。こよいは反射的に一歩退き、自分の足元の砂の感触を確かめた。硬い。ざらつく。確かにここにある。その確かさが、空白の異質さを際立たせた。
久遠が言う。
「潮の空白は、記録の空白だ。……ここで言葉を落とすと、拾えない」
久遠の声は低く、慎重だった。義眼の蒼光が空白の表面を走ったが、光はそのまま吸い込まれ、何も映し返さなかった。普段は地面や壁の奥まで見通す義眼が、空白に対しては無力だった。
あさひが鼻を鳴らす。
「じゃあ、通れないのか」
「通れる。……ただし、通ったことにするな」
意味が分からなくて、こよいは黙った。 通れるのに、通ったことにしてはいけない。記憶に刻むな、ということだろうか。それとも、通過したという記録そのものが、ここでは成り立たないのか。
久遠は小石を拾い上げた。灰色の、親指ほどの丸い石。掌の中で一度転がしてから、空白に向かって放った。 石は落ちない。空白の上で止まり、ゆっくりと消えた。 輪郭がぼやけ、色が抜け、形がほどけていく。砕けるのではなく、溶けるのでもない。そこに在ったという事実ごと、引き剥がされるように消えた。最後に残ったのは、石があった場所の空気がわずかに揺らいだ余韻だけだった。
こよいは喉が鳴った。 唾を飲み込む音が、自分の耳にやけに大きく響く。
「……怖い」
「怖いのは正しい。……空白は優しい顔をして、全部持っていく」
久遠の声に、諭すような響きがあった。恐怖を否定しない。恐怖を正しいと認めた上で、その先を見せる。それが久遠のやり方だった。
あさひが先に動いた。 布包みの剣を空白へ突き出し、石突で縁を叩く。 乾いた音がした。骨を打つような、硬くて短い反響。 空白の輪郭が、一瞬だけ見えた。薄い膜のような縁取りが、衝撃に反応して白く光る。光はすぐに消えたが、こよいの目には空白の形が焼き付いた。不定形ではなかった。ゆるやかな楕円。砂の上に開いた、底のない窓のような形。
「……ここを避けていけ」
あさひが目を逸らさずに言った。包みの先端で空白の輪郭を示しながら、迂回の経路を顎で指す。あさひの目は空白を見据えたまま動かない。敵と対峙するときと同じ目だった。
こよいは頷き、空白を迂回した。 足元の砂を踏みしめるたびに、粒の一つ一つが足裏に食い込む。その感触が、今は頼もしかった。在るものを踏んでいる。確かなものの上を歩いている。 空白は追いかけてこない。ただ、そこにある。 追いかけてこないことが、かえって不気味だった。逃げる必要がないほど、空白は完全だった。来るものを待つだけでいい。いつか、誰かが踏む。それだけで十分だと、空白は知っている。
空白の縁を回り込むとき、こよいは息を止めないようにした。 止めた呼吸は、空白に吸われる。 呼吸を意識すると、吸い込む空気が妙に薄く感じた。空白の傍では、空気そのものが希薄になっているのかもしれない。あるいは、空気に含まれていた記録の成分が抜き取られているのか。
久遠が小声で言う。
「空白は、怖がるほど大きく見える。……だから、怖さを数えるな。歩数を数えろ」
こよいは頷き、足の回数だけを胸で数えた。 一歩、二歩、三歩。砂を踏む音が拍子のように規則正しく刻まれる。恐怖は消えない。だが歩数を数えている間は、恐怖の形が定まらない。定まらないものは、膨らめない。四歩、五歩、六歩。空白の縁が右手の視界から少しずつ遠ざかっていく。
潮が満ちれば空白は隠れる。だが消えるわけではない。 水の下に、記録が剥がれた穴がそのまま残っている。 海の底に空いた虫食いのような空洞を、こよいは足裏の感触だけで避けた。砂の硬さが一瞬だけ変わる場所がある。踏んだ瞬間に、地面の密度が抜けるような感覚。その変化を足が捉えるたびに、半歩ずらす。 踏み外せば、自分の名前ごと落ちる。 巾着の中で神々が微かに震えた。水の気配に反応しているのか、空白の危険を感じ取っているのか。こよいは巾着を胸に引き寄せ、神々の温もりで自分を繋ぎ止めた。 あさひが先頭を歩いている。布包みの剣の石突で地面を軽く突きながら、安全な場所を確かめていた。石突が砂に触れる音と、空白の縁を叩く空虚な音。二つの音の違いで、道を選んでいる。 三人は黙ったまま、空白と空白のあいだの、まだ残っている記録の上だけを選んで歩いた。 潮の匂いが風に乗って頬を撫でる。遠くで波の音が聞こえるが、足元の空白だけは沈黙を守り続けていた。
