杭の上で、答えは出なかった。声は使えない。ならば、知恵を探すしかない。久遠には心当たりがあった——星降町の白い広場、受け皿を置いたあの台座の下に、見ないままにしてきた違和感がある。三人と一匹は列車で半日、東へ引き返した。
星降町の記録は、読むたびに新しい残酷さを見せた。 三度目の停車で、久遠は台座の下にもう一枚の石板を発見した。 台座の裏側にへばりつくようにして置かれた石板は、表のものより一回り小さく、角が欠けていた。拾い上げると、持ち手のあたりに指の跡が残っている。何度も何度も、同じ向きで掴まれた痕跡だった。この石板を隠した人間が、繰り返しここへ通ったのだろう。 選別基準の裏面に、時間の記録があった。
「流出分類の名前には、期限がある」
久遠が義眼を石板に近づけた。 蒼光が石の表面を舐めるように滑り、彫りの浅い文字の輪郭を一つずつ浮かび上がらせる。風化で角が丸くなった文字もあったが、義眼の光は微かな陰影の差まで拾い上げた。 文字が微かに残っている。
「液体に投棄されてから、月の満ち欠けが七回。それを過ぎると、名前は完全に希釈される。水になる。ただの水に」
久遠の声は平坦だった。だがその平坦さに、こよいは逆に凍てつくような冷たさを感じた。感情を排した読み上げ方は、内容の残酷さを際立たせるだけだった。 七回の月の満ち欠け。それは猶予ではなく、処刑の日程だ。 こよいの血が引いた。 指先から温度が退いていく。巾着を握る手が白くなるほど力が入ったが、震えは止まらなかった。
「四柱が宵波浜に送られたのは、いつ」
「経蔵が崩壊した直後だ。俺たちが名前を解放したとき、観測者が即座に回収して流刑地に送った。あれから——」
久遠が指を折った。 人差し指、中指、薬指、小指。四本の指が順に畳まれ、親指だけが立ったまま残る。
「月が四回、替わっている」
停車場の風が頬を撫でた。乾いた風に、かすかに塩の匂いが混じっている。遠い海の気配。宵波浜の方角から、風が来ていた。 あと三回。 あと三回で、四柱の名前は水になる。 こよいは石板の冷たさを掌に感じながら、その言葉を胸の中で繰り返した。水になる。名前が、ただの水に。呼んでも応えず、探しても見つからない、何の痕跡も残さない透明な液体に。 喉の奥が詰まった。声を出そうとしたが、言葉が形にならない。
あさひが台座の端に腰を下ろした。 布包みの剣を膝に立てかけている。石突が台座の石に当たって、くぐもった音を立てた。
「間に合うのか」
あさひの声には感情が削ぎ落とされていた。問いではなく、状況の確認だった。間に合うかどうかを尋ねているのではなく、間に合わせるために何が要るかを聞いている。
「宵波浜には一度行った。場所は分かっている。問題は、液体の中から特定の名前を見つけ出す方法だ。数千の名前が溶けている中から、四柱だけを」
久遠は石板を台座の下に戻した。元あった場所に、元あった角度で。石板が台座の裏に収まる小さな音がして、埃が舞った。次にここへ来る誰かのために、久遠は隠し場所の痕跡を丁寧に消した。 こよいは写本を取り出した。 四柱の名前が書かれた写本。紙を広げると、墨の匂いが立ち上る。まだ乾ききっていない匂い。 墨がまだ湿っている。 指先で紙の端に触れると、わずかに墨が指に移った。この紙の上で、四つの名前がまだ息をしている。
「この子たちの名前が、自分で仲間を呼ぶ。写本を液体に浸せば、同じ名前同士が引き合うはず」
久遠がこよいを見た。 義眼の蒼光が細まる。疑いではない。計測の目だった。こよいの言葉を、感情ではなく論理として量ろうとしている。
「根拠は」
「境の手前で、液面の下の名前たちが、写本の気配に集まってきた。膜越しでも、名前同士は引き合ってた。声じゃなくて、紙そのものを液に触れさせれば——引き合う力だけで、拾えるはずだよ」
こよいは自分の声が震えていないことに少し驚いた。根拠は脆い。たった一粒の水滴の光。けれどその光を見た瞬間に、身体の奥で何かが確信に変わったのだ。巾着の中で、神々が微かに温かくなっている。雨の神が、こよいの言葉を肯定するように脈打っていた。
久遠は黙った。 義眼の光がゆっくりと元の幅に戻る。 否定しなかった。 それは久遠なりの肯定だった。論理で否定できない仮説を、久遠は黙って受け入れる。否定の言葉が出ない限り、こよいの直感は有効だった。
おたまは、台座の上に座って一部始終を見ていた。久遠が石板を戻し終えると、猫は台座から降り、停車場の方角へ歩き出した。もう用は済んだろう、と言うように。
三人は列車に乗った。 宵波浜へ。今度は停まるためだけに。 座席に着くと、列車が動き出す前に一瞬だけ静寂が降りた。車輪と線路の接点から、低い金属音が這い上がってくる。こよいは写本を膝の上に広げ、四つの名前を一つずつ目で追った。どの名前にも、まだ墨の厚みがある。たった三回の月で、この紙を浜まで届けなければならない。数千の名前の海から四人を拾い上げ、確かに戻す。その道筋がまだ見えないまま、列車は動いた。
白い広場の上で、写本の受け皿に降りた名前たちが、三人の背中に向かって微かな光を送っていた。
列車が走り出すと、窓に波が当たった。 一つ当たるごとに、久遠が広げた海図の線が一本消えた。 波が引くと、海図の上に新しい空白ができている。 こよいは消えていく線を数えた。 波の音が車体を揺らすたびに、海図の墨が薄くなる。紙の繊維から色が抜け、白い空白が広がっていく。まるで波が記録そのものを洗い流しているかのようだった。 七本目が消えたとき、波の音が止んだ。 車内に沈黙が降りる。こよいは海図から顔を上げた。 窓の外に、灰色の浜が見えた。
