第359話 波が削る線
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第359話 波が削る線

第12章 記録の裂目

杭の上で、答えは出なかった。声は使えない。ならば、知恵を探すしかない。久遠(くおん)には心当たりがあった——星降町(ほしふりまち)の白い広場、受け皿を置いたあの台座の下に、見ないままにしてきた違和感がある。三人と一匹は列車で半日、東へ引き返した。

星降町(ほしふりまち)の記録(きろく)は、読むたびに新しい残酷さを見せた。  三度目の停車で、久遠(くおん)は台座(だいざ)の下にもう一枚の石板(せきばん)を発見した。  台座(だいざ)の裏側にへばりつくようにして置かれた石板(せきばん)は、表のものより一回り小さく、角が欠けていた。拾い上げると、持ち手のあたりに指の跡が残っている。何度も何度も、同じ向きで掴(つか)まれた痕跡(こんせき)だった。この石板(せきばん)を隠した人間が、繰り返しここへ通ったのだろう。  選別(せんべつ)基準の裏面に、時間の記録(きろく)があった。

「流出(りゅうしゅつ)分類の名前には、期限がある」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を石板(せきばん)に近づけた。  蒼光(そうこう)が石の表面を舐めるように滑り、彫りの浅い文字の輪郭を一つずつ浮かび上がらせる。風化で角が丸くなった文字もあったが、義眼(ぎがん)の光は微かな陰影の差まで拾い上げた。  文字が微かに残っている。

「液体に投棄(とうき)されてから、月の満ち欠けが七回。それを過ぎると、名前は完全に希釈(きしゃく)される。水になる。ただの水に」

久遠(くおん)の声は平坦(へいたん)だった。だがその平坦さに、こよいは逆に凍てつくような冷たさを感じた。感情を排した読み上げ方は、内容の残酷さを際立たせるだけだった。  七回の月の満ち欠け。それは猶予(ゆうよ)ではなく、処刑の日程だ。  こよいの血が引いた。  指先から温度が退いていく。巾着(きんちゃく)を握る手が白くなるほど力が入ったが、震えは止まらなかった。

「四柱(よんはしら)が宵波浜(よいなみはま)に送られたのは、いつ」

「経蔵(きょうぞう)が崩壊(ほうかい)した直後だ。俺たちが名前を解放したとき、観測者(かんそくしゃ)が即座に回収(かいしゅう)して流刑地(るけいち)に送った。あれから——」

久遠(くおん)が指を折った。  人差し指、中指、薬指、小指。四本の指が順に畳まれ、親指だけが立ったまま残る。

「月が四回、替わっている」

停車場(ていしゃじょう)の風が頬を撫(な)でた。乾いた風に、かすかに塩の匂いが混じっている。遠い海の気配。宵波浜(よいなみはま)の方角から、風が来ていた。  あと三回。  あと三回で、四柱(よんはしら)の名前は水になる。  こよいは石板(せきばん)の冷たさを掌(てのひら)に感じながら、その言葉を胸の中で繰り返した。水になる。名前が、ただの水に。呼んでも応えず、探しても見つからない、何の痕跡も残さない透明な液体に。  喉の奥が詰まった。声を出そうとしたが、言葉が形にならない。

あさひが台座(だいざ)の端に腰を下ろした。  布包みの剣を膝(ひざ)に立てかけている。石突(いしづき)が台座(だいざ)の石に当たって、くぐもった音を立てた。

「間に合うのか」

あさひの声には感情が削(そ)ぎ落とされていた。問いではなく、状況の確認だった。間に合うかどうかを尋ねているのではなく、間に合わせるために何が要るかを聞いている。

「宵波浜(よいなみはま)には一度行った。場所は分かっている。問題は、液体の中から特定の名前を見つけ出す方法だ。数千の名前が溶けている中から、四柱(よんはしら)だけを」

久遠(くおん)は石板(せきばん)を台座(だいざ)の下に戻した。元あった場所に、元あった角度で。石板(せきばん)が台座(だいざ)の裏に収まる小さな音がして、埃(ほこり)が舞った。次にここへ来る誰かのために、久遠(くおん)は隠し場所の痕跡を丁寧に消した。  こよいは写本(しゃほん)を取り出した。  四柱(よんはしら)の名前が書かれた写本(しゃほん)。紙を広げると、墨(すみ)の匂いが立ち上る。まだ乾ききっていない匂い。  墨(すみ)がまだ湿っている。  指先で紙の端に触れると、わずかに墨(すみ)が指に移った。この紙の上で、四つの名前がまだ息をしている。

「この子たちの名前が、自分で仲間を呼ぶ。写本(しゃほん)を液体に浸せば、同じ名前同士が引き合うはず」

久遠(くおん)がこよいを見た。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が細まる。疑いではない。計測の目だった。こよいの言葉を、感情ではなく論理として量(はか)ろうとしている。

「根拠は」

「境の手前で、液面の下の名前たちが、写本(しゃほん)の気配に集まってきた。膜越しでも、名前同士は引き合ってた。声じゃなくて、紙そのものを液に触れさせれば——引き合う力だけで、拾えるはずだよ」

こよいは自分の声が震えていないことに少し驚いた。根拠は脆(もろ)い。たった一粒の水滴の光。けれどその光を見た瞬間に、身体の奥で何かが確信に変わったのだ。巾着(きんちゃく)の中で、神々が微かに温かくなっている。雨の神が、こよいの言葉を肯定するように脈打っていた。

久遠(くおん)は黙った。  義眼(ぎがん)の光がゆっくりと元の幅に戻る。  否定しなかった。  それは久遠(くおん)なりの肯定だった。論理で否定できない仮説を、久遠(くおん)は黙って受け入れる。否定の言葉が出ない限り、こよいの直感は有効だった。

おたまは、台座の上に座って一部始終を見ていた。久遠(くおん)が石板(せきばん)を戻し終えると、猫は台座から降り、停車場の方角へ歩き出した。もう用は済んだろう、と言うように。

三人は列車に乗った。  宵波浜(よいなみはま)へ。今度は停まるためだけに。  座席に着くと、列車が動き出す前に一瞬だけ静寂が降りた。車輪と線路の接点から、低い金属音が這い上がってくる。こよいは写本(しゃほん)を膝(ひざ)の上に広げ、四つの名前を一つずつ目で追った。どの名前にも、まだ墨(すみ)の厚みがある。たった三回の月で、この紙を浜まで届けなければならない。数千の名前の海から四人を拾い上げ、確かに戻す。その道筋がまだ見えないまま、列車は動いた。

白い広場の上で、写本(しゃほん)の受け皿に降りた名前たちが、三人の背中に向かって微かな光を送っていた。

列車が走り出すと、窓に波が当たった。  一つ当たるごとに、久遠(くおん)が広げた海図(かいず)の線が一本消えた。  波が引くと、海図(かいず)の上に新しい空白(くうはく)ができている。  こよいは消えていく線を数えた。  波の音が車体を揺らすたびに、海図(かいず)の墨(すみ)が薄くなる。紙の繊維(せんい)から色が抜け、白い空白(くうはく)が広がっていく。まるで波が記録(きろく)そのものを洗い流しているかのようだった。  七本目が消えたとき、波の音が止んだ。  車内に沈黙が降りる。こよいは海図(かいず)から顔を上げた。  窓の外に、灰色の浜が見えた。

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