第036話 丘を降りる
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第036話 丘を降りる

第1章 霧の序章

来た道を、戻る。  長い道。遠い道。  けれど、長(おさ)の待つ里へ。

巾着(きんちゃく)を、胸に抱いている。  空の巾着(きんちゃく)。誰もいない巾着(きんちゃく)。でも、温かい。

「……戻ろう」

こよいは、歩いた。

◇

山道を、降りていく。

朝の光が、森を照らしている。  木漏れ日が、地面に模様を描く。  穏やかな光。

来た時と、同じ道。でも、違って見える。

木々が、違う。  空気が、違う。  世界が、違う。

足を止めて、苔(こけ)むした幹に手を触れた。樹皮(じゅひ)の感触が、指先に伝わる。来た時には気づかなかった木の温もりが、今ははっきりと感じられる。鳥の声が高く澄んでいて、風が頬を撫でるたびに、木の葉の匂いが鼻腔を満たした。

三柱(みはしら)の神を、届けた。  道標(みちしるべ)の声、祠(ほこら)の静けさ、水路(すいろ)の冷たい湿り気。それぞれの場所で体に残ったものが、歩くたびに少しずつ肋骨(ろっこつ)の下で重なる。

◇

昼になった。

山を抜けて、里が見えてきた。  境(さかい)の里だ。  木造の家々が並び、穏やかな煙が立ち上っている。

「……懐かしい」

こよいは、呟いた。

この里を離れて、何日経ったのだろう。  観測者(かんそくしゃ)に追われ、必死に走った日々。  しおりさんとの別れ。  神々との別れ。とても、長い時間だったように感じた。

里の道を一歩踏み出すと、足の裏に硬い感触が返ってきた。山の柔らかい地面に慣れた足には、踏み固められた里の道が不思議に遠く感じた。こよいは、その違和感(いわかん)を噛み締めながら歩いた。

里の入口には、あの時と同じように門番(もんばん)が立っていた。  ぼくの姿を見ると、驚いたように目を見開き、すぐに道を開けてくれた。

「集め手(あつめて)か! 無事だったのか!」

その声に、自分が本当に帰ってきたのだと実感した。

◇

夕方になった。

長(おさ)の家に向かった。  見慣れた建物。囲炉裏(いろり)から漏れる明かり。

玄関の前に、立った。

「……ただいま」

扉を開けると、長(おさ)が座っていた。  いつもと同じ、厳しい、けれどどこか温かい眼差し《まなざし》。

「……戻ったか」

長(おさ)の声が、静かに響いた。

「……はい」

こよいは、長(おさ)の前に座った。  言葉がうまく出なかった。ただ、胸がいっぱいだった。

「よく帰ってきた」

長(おさ)は、微笑んだ。  その笑顔を見た瞬間、張り詰めていたものが、ふっと解けた。旅の間ずっと背負っていた重さが、肩から滑り落ちていくような感覚だった。喉の奥が熱くなって、視界がにじんだ。

「……はい」

◇

長(おさ)が、お茶を淹れてくれた。  温かいお茶。懐かしい味。

「……みんな、届けられました」

こよいは、報告した。

「道標(みちしるべ)の神を、最初の場所に」

「祠(ほこら)の神を、第二の場所に」

「水路(すいろ)の神を、第三の場所に」

「そうか」

長(おさ)は、ゆっくりと頷いた。

「三柱(みはしら)、すべてか。よくやった」

「……大変でした。しおりさんが……ぼくを逃がすために」

こよいは、しおりさんの最後を話した。  固定(こてい)されてしまった、恩人のこと。  声が、途切れた。言葉が喉(のど)の奥で詰まる。しおりさんが背中を押してくれた時の風の感触を思い出すと、胸の巾着(きんちゃく)の中で何かがざわめいた。

「……そうか。しおりが」

長(おさ)は、その名を知っているようだった。懐かしむような、痛みを堪えるような響きがあった。

長(おさ)は、目を閉じた。

「彼女もまた、自らの役割を果たしたのだろう。記録する者として、そして、未来を守る者としてな」

◇

巾着(きんちゃく)を、取り出した。  空の巾着(きんちゃく)を、長(おさ)に見せた。

「これ……空になりました」

「もう、誰もいないんです」

長(おさ)は、巾着(きんちゃく)を見つめた。  その目は、かつての自分を見ているかのようだった。

「……でも、繋がっているだろう?」

「……分かるんですか?」

「ああ」

長(おさ)は言った。

「届けた神々との絆は、空になった巾着(きんちゃく)の中に、余熱(よねつ)として残る。それはいつか、お前を導く力になる」

◇

「長(おさ)」

こよいは、聞いた。

「神雧(かみあつめ)って……本当に来るんですか?」

長(おさ)は、炎を見つめながら答えた。

「ああ。必ず来る」

「全ての神が集まり、世界が再び揺らぎを取り戻す時がな」

水路(すいろ)の神が言っていた言葉が、長(おさ)の言葉と重なる。

「その時まで、ぼくは……」

「次の旅の準備をすることだ」

長(おさ)は、囲炉裏(いろり)の火をひとつ掻き起こしてから、こよいを見た。炎が揺れて、老いた顔に陰影を刻んだ。

「集め手(あつめて)の仕事は、まだ始まったばかりだ。世界にはまだ、忘れられた神々が数え切れないほどいる」

「また……集めるんですか」

こよいは、自分の手を見た。この手で三柱(みはしら)を届けた。しおりさんの巾着(きんちゃく)を受け取った。集め手(あつめて)という言葉が、少しずつ手に馴染んでいくような感覚だった。

「お前が望むならな」

◇

夕日が、完全に沈んだ。  里に、夜が訪れる。

こよいは、長(おさ)の家を出て、夜空を見上げた。  満天の星。でも、その中に三つの特別な輝きが見える気がした。

北に、青。西に、金。東に、山吹色。

三柱(みはしら)の神。  みんな、それぞれの場所で待っている。

「……また会おう」

こよいは、呟いた。

「神雧(かみあつめ)の時に」

◇

夜風が、頬を撫でた。  里の灯(あかり)が、一つ、二つ、夜の中で揺れている。

こよいは、掌(てのひら)を開いた。  空の巾着(きんちゃく)が、星明かりに白く浮かぶ。  誰もいない。でも、決して冷たくはない。

しおりさんが『届けるまでが、仕事』と教えてくれた時のことを思い出す。  教わったのは、言葉だけではなかった。  届けるということがどういうことか、ぼくはまだ全部は分かっていない。  でも、この温かさだけは確かだ。

こよいは、巾着(きんちゃく)を握りしめた。  掌(てのひら)の熱が、指先まで満ちていく。

いつかまた、この巾着(きんちゃく)に神を入れて、里を出る日が来る。  その時まで、この温もりを握っていよう。

風が、冷たくなった。  胸元だけは、温かいままだった。

こよいは、長(おさ)の家へ向かって歩き出した。  足音だけが、夜の静けさに溶けていく。

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