境の里へ戻ろう。
こよいは、泉に背を向けた。 空の巾着を、胸に抱いている。 軽い。誰もいない。でも、寂しい。 三柱の神を、それぞれの場所に届けた。
道標の神を、最初の場所に。 祠の神を、第二の場所に。 水路の神を、この第三の場所に。
集め手として、最初の仕事をやり遂げたのだ。
「……戻ろう」
こよいは、来た道を戻り始めた。
◇
森の中を、歩いた。
朝日が、木々の間から差し込んでいる。 暖かい光。穏やかな光。 昨夜の恐怖が、嘘のようだ。 足の裏に、昨夜からの道のりが残っていた。暗い森を一人で歩いて、三柱の神を届けた。その事実が朝の光と一緒に胸に落ちて、ふと、足取りが軽くなっていた。
鳥が、鳴いている。 風が、吹いている。 境界の向こう側の、静かな朝。でも、何か違う。
こよいは、足を止めた。 周りを見回す。
「……何か、違う」
風の匂いが、いつもと違う。 空気が、何かを含んでいる。 震えている。目に見えない何かが。
「……気のせい?」
歩き始めた。でも、違和感は消えない。
◇
巾着が、温かくなった。
「っ」
こよいは、胸元を押さえた。
空のはずだ。 誰もいないはずだ。 なのに、温かい。
「……どうして」
こよいは、巾着を見つめた。
軽い。空っぽ。でも、温かい。 神々の温もりが、まだ残っている。
いや、違う。 残っているのではない。 繋がっている。
「……繋がってる?」
道標の神と。祠の神と。水路の神と。 届けた神々と、巾着が繋がっている。 そんな気がした。
◇
森を抜けた。
目の前に、丘があった。 開けた場所。見晴らしが良い。
こよいは、丘を登った。
頂上に立った。 風が、吹き抜ける。 清々しい風。
周りを、見渡した。
「……」
息を呑んだ。 来た時は闇で、何も見えなかった。だが今は朝日が、世界の果てまで輪郭を描き出している。歩いてきた森の向こうに、これから向かう里の方向まで、この光の中に広がっていた。
◇
山が、光っていた。
北の方向。水路の神を届けた場所。 山の稜線が、淡く青く光っている。
「……水路」
西の方向にも、光。 祠の神を届けた場所。 穏やかな、金色の光。
「……祠」
東の方向。 最初に道標の神を届けた場所。 柔らかな、薄い山吹色の光が見える。
「……道標の神様」
三つの光。 三つの方向から、光が見える。 淡いけれど、確かに光っている。
しおりさんの姿は、ここにはない。 彼女は神ではなく、ぼくを逃がすために固定された。 その悲しみが、光の中に一点の影として残っている気がした。
◇
「……何、これ」
こよいは、呟いた。
光が、揺れている。 まるで、呼び合っているように。 応え合っているように。
北の青い光が、揺れる。 西の金色の光が、応える。 東の山吹色の光が、続く。
順番に。交互に。 光が、やり取りをしている。
「……話してる」
こよいは、言った。 届けた神々が、光を通じて会話している。 離れた場所にいるのに、繋がっている。 こよいには、そう見えた。
◇
巾着が、さらに温かくなった。
「っ」
こよいは、巾着を握りしめた。
空なのに。 誰もいないのに。 熱いくらい、温かい。
光が、巾着に向かって集まってくる。 そんな気がした。 北からも、西からも、東からも。
胸元で巾着を握りしめると、三方向の光が一斉に脈打った。まるで心臓の鼓動に合わせるように、ゆっくりと、確かに。こよいの体を中心にして、目に見えない糸が世界の果てまで伸びているような、不思議な感覚だった。
「……神雧」
水路の神の言葉を、思い出した。
「神雧の時に、また会える」
これが、その予兆なのか。 神々が、集まろうとしている。 離れた場所から、繋がろうとしている。
◇
風が、吹いた。
いつもとは違う風。 何かを運んでくる風。 神々の息吹のような風。
こよいは、目を閉じた。
道標の声が、聞こえた気がした。 祠の声が、聞こえた気がした。 水路の声が、聞こえた気がした。
「……ありがとう」
「……まっている」
「……また、あえる」
三つの声が、重なった。
「……神雧の時に」
◇
目を開けた。
光は、まだ見えている。 北に、青。 西に、金。 東に、山吹色。
三つの光が、揺れている。 呼び合っている。 待っている。
何を待っている? 神雧を、待っている。 全ての神が集まる時を、待っている。
「……いつか」
こよいは、呟いた。
「……いつか、みんなに会える」
巾着を、胸に抱いた。 温かい。 神々と、繋がっている。 指先が少しだけ震えていた。怖さではない。三つの光がこんなにも遠くから見えていること。集め手として初めての仕事をやり遂げたことが、巾着の温度に重なっていた。
◇
丘の草が、風に揺れている。足元で小さな花が咲いていた。白い、名前も知らない花。朝露に濡れて、光を弾いている。
こよいは、その花をしばらく見つめた。こんな小さな命にも、揺らぎがある。変化がある。それを守りたいと、ふと思った。花はここで根を張り、朝露を飲んで咲いている。届けた神々もまた、それぞれの場所に還って動き始めた。ぼくにも帰る場所がある。
丘を、降り始めた。 境の里へ戻るために。
空の巾着。でも、空ではない。 神々との絆が、ここにある。
祠が、待っている。 水路の神が、待っている。 道標の神が、待っている。
そして、固定されたしおりさんも、どこかで見守ってくれている気がした。
神雧の時に、また会える。 その約束が、巾着の中にある。
こよいは、歩いた。 長の待つ、里に向かって。
風が、背中を押している。 神々の風が、帰り道を示している。
いつか、また会える。 神雧の時に、みんなに会える。
その確かな予感が、胸の奥で小さな灯火のように、ずっと光り続けていた。
