第035話 帰路
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第035話 帰路

第1章 霧の序章

境(さかい)の里へ戻ろう。

こよいは、泉に背を向けた。  空の巾着(きんちゃく)を、胸に抱いている。  軽い。誰もいない。でも、寂しい。  三柱(みはしら)の神を、それぞれの場所に届けた。

道標(みちしるべ)の神を、最初の場所に。  祠(ほこら)の神を、第二の場所に。  水路(すいろ)の神を、この第三の場所に。

集め手(あつめて)として、最初の仕事をやり遂げたのだ。

「……戻ろう」

こよいは、来た道を戻り始めた。

◇

森の中を、歩いた。

朝日が、木々の間から差し込んでいる。  暖かい光。穏やかな光。  昨夜の恐怖が、嘘のようだ。  足の裏に、昨夜からの道のりが残っていた。暗い森を一人で歩いて、三柱(みはしら)の神を届けた。その事実が朝の光と一緒に胸に落ちて、ふと、足取りが軽くなっていた。

鳥が、鳴いている。  風が、吹いている。  境界(きょうかい)の向こう側の、静かな朝。でも、何か違う。

こよいは、足を止めた。  周りを見回す。

「……何か、違う」

風の匂いが、いつもと違う。  空気が、何かを含んでいる。  震えている。目に見えない何かが。

「……気のせい?」

歩き始めた。でも、違和感(いわかん)は消えない。

◇

巾着(きんちゃく)が、温かくなった。

「っ」

こよいは、胸元を押さえた。

空のはずだ。  誰もいないはずだ。  なのに、温かい。

「……どうして」

こよいは、巾着(きんちゃく)を見つめた。

軽い。空っぽ。でも、温かい。  神々の温もりが、まだ残っている。

いや、違う。  残っているのではない。  繋がっている。

「……繋がってる?」

道標(みちしるべ)の神と。祠(ほこら)の神と。水路(すいろ)の神と。  届けた神々と、巾着(きんちゃく)が繋がっている。  そんな気がした。

◇

森を抜けた。

目の前に、丘があった。  開けた場所。見晴らしが良い。

こよいは、丘を登った。

頂上に立った。  風が、吹き抜ける。  清々しい風。

周りを、見渡した。

「……」

息を呑んだ。  来た時は闇で、何も見えなかった。だが今は朝日が、世界の果てまで輪郭を描き出している。歩いてきた森の向こうに、これから向かう里の方向まで、この光の中に広がっていた。

◇

山が、光っていた。

北の方向。水路(すいろ)の神を届けた場所。  山の稜線(りょうせん)が、淡く青く光っている。

「……水路(すいろ)」

西の方向にも、光。  祠(ほこら)の神を届けた場所。  穏やかな、金色の光。

「……祠(ほこら)」

東の方向。  最初に道標(みちしるべ)の神を届けた場所。  柔らかな、薄い山吹色の光が見える。

「……道標(みちしるべ)の神様」

三つの光。  三つの方向から、光が見える。  淡いけれど、確かに光っている。

しおりさんの姿は、ここにはない。  彼女は神ではなく、ぼくを逃がすために固定(こてい)された。  その悲しみが、光の中に一点の影として残っている気がした。

◇

「……何、これ」

こよいは、呟いた。

光が、揺れている。  まるで、呼び合っているように。  応え合っているように。

北の青い光が、揺れる。  西の金色の光が、応える。  東の山吹色の光が、続く。

順番に。交互に。  光が、やり取りをしている。

「……話してる」

こよいは、言った。  届けた神々が、光を通じて会話(かいわ)している。  離れた場所にいるのに、繋がっている。  こよいには、そう見えた。

◇

巾着(きんちゃく)が、さらに温かくなった。

「っ」

こよいは、巾着(きんちゃく)を握りしめた。

空なのに。  誰もいないのに。  熱いくらい、温かい。

光が、巾着(きんちゃく)に向かって集まってくる。  そんな気がした。  北からも、西からも、東からも。

胸元で巾着(きんちゃく)を握りしめると、三方向の光が一斉に脈打った。まるで心臓の鼓動に合わせるように、ゆっくりと、確かに。こよいの体を中心にして、目に見えない糸が世界の果てまで伸びているような、不思議な感覚だった。

「……神雧(かみあつめ)」

水路(すいろ)の神の言葉を、思い出した。

「神雧(かみあつめ)の時に、また会える」

これが、その予兆(よちょう)なのか。  神々が、集まろうとしている。  離れた場所から、繋がろうとしている。

◇

風が、吹いた。

いつもとは違う風。  何かを運んでくる風。  神々の息吹(いぶき)のような風。

こよいは、目を閉じた。

道標(みちしるべ)の声が、聞こえた気がした。  祠(ほこら)の声が、聞こえた気がした。  水路(すいろ)の声が、聞こえた気がした。

「……ありがとう」

「……まっている」

「……また、あえる」

三つの声が、重なった。

「……神雧(かみあつめ)の時に」

◇

目を開けた。

光は、まだ見えている。  北に、青。  西に、金。  東に、山吹色。

三つの光が、揺れている。  呼び合っている。  待っている。

何を待っている?  神雧(かみあつめ)を、待っている。  全ての神が集まる時を、待っている。

「……いつか」

こよいは、呟いた。

「……いつか、みんなに会える」

巾着(きんちゃく)を、胸に抱いた。  温かい。  神々と、繋がっている。  指先が少しだけ震えていた。怖さではない。三つの光がこんなにも遠くから見えていること。集め手(あつめて)として初めての仕事をやり遂げたことが、巾着(きんちゃく)の温度に重なっていた。

◇

丘の草が、風に揺れている。足元で小さな花が咲いていた。白い、名前も知らない花。朝露(あさつゆ)に濡れて、光を弾いている。

こよいは、その花をしばらく見つめた。こんな小さな命にも、揺らぎがある。変化がある。それを守りたいと、ふと思った。花はここで根を張り、朝露を飲んで咲いている。届けた神々もまた、それぞれの場所に還って動き始めた。ぼくにも帰る場所がある。

丘を、降り始めた。  境(さかい)の里へ戻るために。

空の巾着(きんちゃく)。でも、空ではない。  神々との絆が、ここにある。

祠(ほこら)が、待っている。  水路(すいろ)の神が、待っている。  道標(みちしるべ)の神が、待っている。

そして、固定(こてい)されたしおりさんも、どこかで見守ってくれている気がした。

神雧(かみあつめ)の時に、また会える。  その約束が、巾着(きんちゃく)の中にある。

こよいは、歩いた。  長(おさ)の待つ、里に向かって。

風が、背中を押している。  神々の風が、帰り道を示している。

いつか、また会える。  神雧(かみあつめ)の時に、みんなに会える。

その確かな予感が、胸の奥で小さな灯火(ともしび)のように、ずっと光り続けていた。

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