名前を呼んだ。
こよいは杭の上に立ち、液面に向かって四柱のうちの一つの名前を声に出した。写本に書かれた文字を読み上げただけだった。二文字の、短い音。喉から出た声は、この場所の空気に吸われて遠くへは届かなかった。杭の周囲三歩ほどの距離で、音の輪郭が溶けて消えた。
それでも液面が震えた。
こよいの足元で、銀色の表面に細い皺が走った。声が液体に触れた痕跡だった。皺は同心円を描いて広がり、杭から数尺の距離で止まった。その輪の中だけ、液面の色が変わっている。銀色が退いて、金色がにじみ出していた。 金色の筋が一本、その輪の中からこよいの足元に向かって走ってきた。名前が反応している。呼ばれたことを覚えている液体が、こちらに手を伸ばしている。
そのとき——どこか遠くで、鐘が鳴った。
澄んだ、重い一打。音を吸うはずのこの領域で、その響きだけは減衰せずに、液面の上を渡ってきた。理の側の音。判定が下りた音。後になって、こよいはそう理解することになる。
鐘の残響と同時に、指先が薄くなった。
右手の人差し指。爪の縁から先が、紙のように薄い。こよいは最初、光の加減だと思った。杭の上は影が少なく、海面の銀色が下から照り返す。その光で指が白く見えているのだと。 だが指を曲げたとき、違和感が走った。指先の肉の厚みがない。爪と皮膚の間に入るはずの肉が削がれている。指紋が透けて、向こう側の杭の灰色がうっすらと見えた。
「やめろ」
久遠が鋭く言った。隣の杭の上に立ったまま、義眼をこよいの手に向けている。蒼光が細く絞られ、外科医の灯りのように指先だけを照らした。
こよいは自分の指を見つめた。薄くなった部分は、痛くない。感覚がない。指の厚みが減っているのに、痛みも熱もない。ただ、あるべき厚さが失われている。冷たくもない。温かくもない。触覚そのものが、削がれた厚みと一緒に消えていた。
「呼んだな」
久遠が義眼でこよいの指を照らした。蒼光が薄くなった指先を貫通した。光が指を通り抜けて、反対側に影ではなく光の筋が落ちた。影を作れないほど薄い。光が遮られずに通過している。久遠の眉が寄った。義眼の光を弱め、もう一度強める。確認の動作だった。
「名前を呼ぶと、呼んだ側が削られる。声に名前を乗せた瞬間、声の持ち主の存在が対価として引かれる」
久遠の声は感情を排していた。目録の記述を読み上げるときの声。けれど義眼を動かす速度が普段より速い。こよいの指から手首、手首から腕へと蒼光を走らせ、削りがどこまで進んでいるかを確認していた。
「指一本分の厚み。それがたった二文字の代償だ」
「……でも、浜では。二十四も呼んで、平気だった。『ここにいるよ』なら、削られないはずじゃ」
「呼び方の問題じゃない。場所の問題だ」
久遠の義眼が液面を照らした。
「ここは流刑地の蓋の真上だ。この液体の理は、沈めたものを引き上げようとする声すべてに、対価を課す。『ここにいるよ』も、『おいで』も、蓋の上では同じ——引く声だ。さっきの鐘は、その判定の音だろう。理が、お前の声を『引き上げの試み』と裁定した。……審判の鐘だ」
こよいは口を閉じた。
唇を合わせ、歯を噛み合わせ、舌を上顎に押しつけた。声が出ないようにした。喉の奥にまだ名前の二文字が残っている気がした。声帯がその音の形を覚えていて、もう一度呼びたがっている。だが呼べば、また削られる。
液面の金色の筋は、まだこよいの足元に向かって伸びている。名前が呼ばれたことを覚えていて、こちらに来ようとしている。筋の先端が杭の根元に触れ、石の表面に金色の光が薄く這い上がった。名前の欠片が、呼んだ声の方角を辿って、杭を登ろうとしている。
けれどもう一度呼べば、今度は指がもう一本、薄くなる。あるいは指だけでは済まないかもしれない。二文字で指一本分なら、五十柱の名前を呼べば——こよいの身体のどれだけが削られるのか、考えたくなかった。
巾着が震えた。神々が脈打っている。温もりではなく、警告の振動だった。いつもの穏やかな脈動とは違う、短く鋭い拍。呼ぶな、と神々が身体で訴えている。主の存在が削られることを、神々は許せない。
あさひが三本目の杭の上からこよいの手を見た。杭と杭の距離は二間ほど。その間を金色の液体が流れている。あさひの目が、こよいの右手に固定されていた。
「指、戻るのか」
「分からない」
久遠の声は平坦だった。
「削られた存在が元に戻った例は、目録にない。声で差し出した対価が返却された記録も、ない」
こよいは薄くなった指先を左手で包んだ。左手の指が右手の指先に触れると、左手には右手の厚みの変化が伝わった。紙に触れているような感触だった。自分の指なのに、紙のように薄い。温度も曖昧になっている。右手の人差し指だけが、周囲の空気と同じ温度に沈んでいた。
おたまは、桟橋の基礎の上から動かなかった。杭には上がらない。液面を見ず、こよいの薄くなった指だけを、まっすぐに見ている。猫の目がこれほど冷たく光るのを、こよいは初めて見た。怒っているのだ。液体にではなく、たぶん、理の側に。
あさひが杭から杭へ飛び移った。液面の上を風が切る音がして、三本目の杭の上に着地した。石の頂部が足裏で鳴る。あさひはこよいの指を見つめたまま、顎を引いた。何かを呑み込むような動作だった。言いたいことがあるのに、今はまだ言わない。そういう顔をしていた。
拳を作ると、他の指の圧力で薄い部分が押されて、かろうじて指の形を保った。指を広げれば、また透ける。握っていれば、まだ指のふりができる。
声で呼べない。
けれど名前は、呼ばれなければ浮かんでこない。液面の下に沈んでいる名前たちは、声を待っている。金色の筋が杭の根元に触れたまま離れないのが、その証拠だった。呼ばれることを期待して、水面近くまで上がってきている。
こよいは写本を見た。紙の上の墨の文字が、さっきより微かに震えている。名前が呼ばれたことで、紙の中の文字も反応したのだ。墨の輪郭が揺れ、偏と旁の間隔がわずかに広がっている。文字が開こうとしている。声の代わりに、紙の中から仲間を呼ぼうとしているのかもしれなかった。
声を使わずに、名前を呼ぶ方法。
それを見つけなければ、残りの名前には届かない。こよいは薄くなった右手の人差し指で、写本の震える文字にそっと触れた。紙が微かに温かかった。文字の震えが指先に伝わり、薄くなった部分を通り抜けて、手首まで届いた。まるで名前が、こよいの指を通って直接身体の中に語りかけているようだった。
杭の根元の金色は、まだ離れなかった。 声を一度聞いた名前は、呼んだ者の方角を忘れない。液面の下から、金色の光が石の表面を這い、こよいの足元に向かってゆっくりと登り続けている。声なしで呼ぶ手段が見つかれば、この名前はきっと上がってくる。
こよいは写本を胸に戻し、右手の拳を握った。薄い指が他の指に挟まれて、見た目だけは元の手に戻った。
