第358話 審判の鐘
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第358話 審判の鐘

第12章 記録の裂目

名前を呼んだ。

こよいは杭(くい)の上に立ち、液面に向かって四柱(よんはしら)のうちの一つの名前を声に出した。写本(しゃほん)に書かれた文字を読み上げただけだった。二文字の、短い音。喉(のど)から出た声は、この場所の空気に吸われて遠くへは届かなかった。杭(くい)の周囲三歩ほどの距離で、音の輪郭(りんかく)が溶けて消えた。

それでも液面が震えた。

こよいの足元で、銀色の表面に細い皺(しわ)が走った。声が液体に触れた痕跡(こんせき)だった。皺(しわ)は同心円を描いて広がり、杭(くい)から数尺の距離で止まった。その輪の中だけ、液面の色が変わっている。銀色が退(ひ)いて、金色がにじみ出していた。  金色の筋が一本、その輪の中からこよいの足元に向かって走ってきた。名前が反応している。呼ばれたことを覚えている液体が、こちらに手を伸ばしている。

そのとき——どこか遠くで、鐘が鳴った。

澄んだ、重い一打。音を吸うはずのこの領域で、その響きだけは減衰せずに、液面の上を渡ってきた。理(ことわり)の側の音。判定が下りた音。後になって、こよいはそう理解することになる。

鐘の残響と同時に、指先が薄くなった。

右手の人差し指。爪(つめ)の縁(ふち)から先が、紙のように薄い。こよいは最初、光の加減だと思った。杭(くい)の上は影(かげ)が少なく、海面の銀色が下から照り返す。その光で指が白く見えているのだと。  だが指を曲げたとき、違和感が走った。指先の肉の厚みがない。爪(つめ)と皮膚の間に入るはずの肉が削(そ)がれている。指紋(しもん)が透(す)けて、向こう側の杭(くい)の灰色がうっすらと見えた。

「やめろ」

久遠(くおん)が鋭く言った。隣の杭(くい)の上に立ったまま、義眼(ぎがん)をこよいの手に向けている。蒼光(そうこう)が細く絞られ、外科医の灯(あか)りのように指先だけを照らした。

こよいは自分の指を見つめた。薄くなった部分は、痛くない。感覚がない。指の厚みが減っているのに、痛みも熱もない。ただ、あるべき厚さが失われている。冷たくもない。温かくもない。触覚そのものが、削(そ)がれた厚みと一緒に消えていた。

「呼んだな」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)でこよいの指を照らした。蒼光(そうこう)が薄くなった指先を貫通した。光が指を通り抜けて、反対側に影(かげ)ではなく光の筋が落ちた。影(かげ)を作れないほど薄い。光が遮(さえぎ)られずに通過している。久遠(くおん)の眉が寄った。義眼(ぎがん)の光を弱め、もう一度強める。確認の動作だった。

「名前を呼ぶと、呼んだ側が削(けず)られる。声に名前を乗せた瞬間、声の持ち主の存在が対価(たいか)として引かれる」

久遠(くおん)の声は感情を排していた。目録(もくろく)の記述を読み上げるときの声。けれど義眼(ぎがん)を動かす速度が普段より速い。こよいの指から手首、手首から腕へと蒼光(そうこう)を走らせ、削(けず)りがどこまで進んでいるかを確認していた。

「指一本分の厚み。それがたった二文字の代償(だいしょう)だ」

「……でも、浜では。二十四も呼んで、平気だった。『ここにいるよ』なら、削られないはずじゃ」

「呼び方の問題じゃない。場所の問題だ」

久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が液面を照らした。

「ここは流刑地の蓋の真上だ。この液体の理は、沈めたものを引き上げようとする声すべてに、対価を課す。『ここにいるよ』も、『おいで』も、蓋の上では同じ——引く声だ。さっきの鐘は、その判定の音だろう。理が、お前の声を『引き上げの試み』と裁定した。……審判の鐘だ」

こよいは口を閉じた。

唇を合わせ、歯を噛(か)み合わせ、舌を上顎(うわあご)に押しつけた。声が出ないようにした。喉(のど)の奥にまだ名前の二文字が残っている気がした。声帯(せいたい)がその音の形を覚えていて、もう一度呼びたがっている。だが呼べば、また削(けず)られる。

液面の金色の筋は、まだこよいの足元に向かって伸びている。名前が呼ばれたことを覚えていて、こちらに来ようとしている。筋の先端が杭(くい)の根元に触れ、石の表面に金色の光が薄く這(は)い上がった。名前の欠片(かけら)が、呼んだ声の方角を辿(たど)って、杭(くい)を登ろうとしている。

けれどもう一度呼べば、今度は指がもう一本、薄くなる。あるいは指だけでは済まないかもしれない。二文字で指一本分なら、五十柱(ごじゅうはしら)の名前を呼べば——こよいの身体(からだ)のどれだけが削(けず)られるのか、考えたくなかった。

巾着(きんちゃく)が震えた。神々が脈打っている。温もりではなく、警告(けいこく)の振動だった。いつもの穏やかな脈動とは違う、短く鋭い拍(はく)。呼ぶな、と神々が身体で訴えている。主の存在が削(けず)られることを、神々は許せない。

あさひが三本目の杭(くい)の上からこよいの手を見た。杭(くい)と杭(くい)の距離は二間(にけん)ほど。その間を金色の液体が流れている。あさひの目が、こよいの右手に固定(こてい)されていた。

「指、戻るのか」

「分からない」

久遠(くおん)の声は平坦(へいたん)だった。

「削(けず)られた存在が元に戻った例は、目録(もくろく)にない。声で差し出した対価(たいか)が返却された記録(きろく)も、ない」

こよいは薄くなった指先を左手で包んだ。左手の指が右手の指先に触れると、左手には右手の厚みの変化が伝わった。紙に触れているような感触(かんしょく)だった。自分の指なのに、紙のように薄い。温度も曖昧(あいまい)になっている。右手の人差し指だけが、周囲の空気と同じ温度に沈んでいた。

おたまは、桟橋の基礎の上から動かなかった。杭には上がらない。液面を見ず、こよいの薄くなった指だけを、まっすぐに見ている。猫の目がこれほど冷たく光るのを、こよいは初めて見た。怒っているのだ。液体にではなく、たぶん、理の側に。

あさひが杭(くい)から杭(くい)へ飛び移った。液面の上を風が切る音がして、三本目の杭(くい)の上に着地した。石の頂部が足裏で鳴る。あさひはこよいの指を見つめたまま、顎(あご)を引いた。何かを呑(の)み込むような動作だった。言いたいことがあるのに、今はまだ言わない。そういう顔をしていた。

拳(こぶし)を作ると、他の指の圧力で薄い部分が押されて、かろうじて指の形を保った。指を広げれば、また透(す)ける。握っていれば、まだ指のふりができる。

声で呼べない。

けれど名前は、呼ばれなければ浮かんでこない。液面の下に沈んでいる名前たちは、声を待っている。金色の筋が杭(くい)の根元に触れたまま離れないのが、その証拠(しょうこ)だった。呼ばれることを期待して、水面近くまで上がってきている。

こよいは写本(しゃほん)を見た。紙の上の墨(すみ)の文字が、さっきより微かに震えている。名前が呼ばれたことで、紙の中の文字も反応したのだ。墨(すみ)の輪郭(りんかく)が揺れ、偏(へん)と旁(つくり)の間隔がわずかに広がっている。文字が開こうとしている。声の代わりに、紙の中から仲間を呼ぼうとしているのかもしれなかった。

声を使わずに、名前を呼ぶ方法。

それを見つけなければ、残りの名前には届かない。こよいは薄くなった右手の人差し指で、写本(しゃほん)の震える文字にそっと触れた。紙が微かに温かかった。文字の震えが指先に伝わり、薄くなった部分を通り抜けて、手首まで届いた。まるで名前が、こよいの指を通って直接身体(からだ)の中に語りかけているようだった。

杭(くい)の根元の金色は、まだ離れなかった。  声を一度聞いた名前は、呼んだ者の方角を忘れない。液面の下から、金色の光が石の表面を這(は)い、こよいの足元に向かってゆっくりと登り続けている。声なしで呼ぶ手段が見つかれば、この名前はきっと上がってくる。

こよいは写本(しゃほん)を胸に戻し、右手の拳(こぶし)を握った。薄い指が他の指に挟まれて、見た目だけは元の手に戻った。

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