第357話 余白の浜
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第357話 余白の浜

第12章 記録の裂目

白い浜を、水際に沿って歩いた。降り立った場所の三本の杭(くい)の先——浜の奥に、まだ何かがある。久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が、霧の向こうの構造物の輪郭を捉えていた。

「おい。あそこに何かある」

あさひが浜の先を指差した。  液状の記録(きろく)の海の中に、灰色の塊(かたまり)が突き出ていた。  流れに削られて角が丸くなっているが、人工物だと分かる。表面に刻まれた縦の溝(みぞ)が等間隔に並んでおり、かつてそこに何かを繋(つな)ぎ止めるための金具(かなぐ)が嵌(は)まっていたであろう痕跡(こんせき)が残っている。溝(みぞ)の中に金色の液体が溜まり、細い光の筋を作っていた。  石造りの杭(くい)だった。

「港の跡だ」

久遠(くおん)が目録(もくろく)の海図(かいず)と照合した。蒼光(そうこう)が頁(ページ)と杭(くい)を交互に照らす。海図(かいず)の上に記された古い航路(こうろ)の線が、杭(くい)の位置と一致したとき、蒼光(そうこう)が一段明るくなった。

「宵波浜(よいなみはま)にはかつて港があった。名前を運ぶための港だ。流刑地(るけいち)になる前は、名前の中継地点だった」

名前の中継地点。こよいはその言葉を胸の中で繰り返した。ここはかつて、名前が行き交う場所だったのだ。受け渡され、運ばれ、届けられるために港に集まった名前たち。それが今は、溶かすための場所に変えられている。港としての記憶だけが、杭(くい)の形をして液面の上に残っていた。

杭(くい)がもう一本見えた。

二本。

三本。

等間隔に並んでいる。

港の桟橋(さんばし)の支柱(しちゅう)だったのだろう。  液面からわずかに頭を出して、流れに耐えている。金色の液体が杭(くい)の根元を洗うたびに、石の表面に薄い光の膜(まく)が残った。名前の残滓(ざんし)が、かつての桟橋(さんばし)の柱にしがみつこうとしているのかもしれなかった。杭(くい)の頂部には白い結晶(けっしょう)のようなものが付着していた。塩ではない。記録(きろく)が乾いて固まったものだ。液体に浸(つ)からなかった部分だけが、かろうじて固体のまま残っている。

「あそこまで行けば、足場がある」

あさひが目を逸(そ)らさずに言った。琥珀色(こはくいろ)の光を受けた横顔が、鋭い影(かげ)を刻んでいた。声に迷いはない。目の前に道があるなら進む。あさひの言葉はいつもそうだった。

「行ってどうする。液体の中に飛び込むのか」

「飛び込むんじゃねえよ。あの杭(くい)を足場にして、こよいの写本(しゃほん)を液体に浸す。名前を拾うんだ。——境の膜越しに吸い上げる。列車ん中で、お前が言ったやり方だ」

久遠(くおん)が黙った。

義眼(ぎがん)が杭(くい)を観測している。蒼光(そうこう)が一本目から三本目まで順に走査(そうさ)し、杭(くい)の高さ、間隔、液面からの露出部分の長さを測っているのが、光の動きで分かった。沈黙が長い。こよいは久遠(くおん)の横顔を見た。義眼(ぎがん)の光が通常より細く、集中の深さを示していた。唇が薄く動いている。何かを計算しているのだ。

「……理(ことわり)にかなっている。写本(しゃほん)は名前を記録した紙だ。溶解(ようかい)した名前は、元の記録媒体に再び吸着(きゅうちゃく)する性質がある。写本(しゃほん)を網のように使えば——」

「だろ」

あさひが腕を組んだ。口の端がわずかに上がった。だがすぐに表情を引き締め、浜の先の杭(くい)に視線を戻す。こよいは二人のやり取りを見ていた。言葉は少ないのに、互いの考えが噛み合っている。あさひが直感で示した道を、久遠(くおん)が理屈で裏打ちする。二人の間にある信頼を、こよいは言葉にはできなかったが、確かに感じていた。

歩を進めるほど、足元が変わった。

白い砂が、水気を含んで沈み始める。踏み込んだ靴の縁に、金色の液体がじわりと滲(し)み出してくる。浜と海の境が、ここでは曖昧なのだ。白い余白の砂の下に、液状の記録が染み込んでいる。

「気をつけろ。この辺りは浜そのものが溶けかけている」

久遠(くおん)が海図(かいず)を確認した。蒼光(そうこう)が頁(ページ)の上を忙(せわ)しなく動く。

「固い地盤は、旧桟橋(さんばし)の張り出しだけだ。あの杭(くい)の根元——石組みの基礎が、まだ生きている」

先導したのは、おたまだった。沈む砂と保つ砂を、猫の足が正確に踏み分けていく。三人はその跡を一列で辿った。白い砂の上に、三人分の足跡だけが刻まれ、猫の分だけが、どこにもなかった。

桟橋の基礎に足が届いたとき、久遠(くおん)が息をつき、足元の白い浜を振り返った。

「……この浜は、余白だ。書かれたものが消されて、書かれる前の白だけが積もった——余白の浜だ。渡り切れたのは運がいい」

降り立った場所の杭にも、金色は薄く集まっていた。だがここの渦は、比べものにならないほど濃い。桟橋の本体——名前たちが最もよく覚えている場所に、最も多くの名前が集まる。記憶が濃い場所ほど、帰ろうとする力も強いのだ。

こよいは写本(しゃほん)を七枚、胸に抱き直した。  湿った紙が胸元で温もりを持っている。こよいの心臓の鼓動(こどう)に合わせて、紙の温もりが微かに揺れた。写本(しゃほん)の中の名前が、外の液体に溶けている仲間たちの気配を感じ取って、こよいの胸の前で震えているのだ。巾着(きんちゃく)の神々は相変わらず沈黙していたが、写本(しゃほん)を通じて、外の名前たちの声なき声がこよいの手に伝わってきていた。

目の前の液面に、灰色の杭(くい)が三本、流れの中に立っていた。  そのうちの一本に、金色の光が微かにまとわりついているのが見えた。

光は杭(くい)の根元に集まり、液面の下で渦を描いていた。  溶けた名前の影(かげ)だった。  ばらばらになった文字が、元の形を思い出そうとするように寄り合っている。文字の欠片(かけら)が渦(うず)の中でぶつかり、離れ、またぶつかる。完全な形には戻れないまま、それでも集まることをやめない。  三本の杭(くい)すべてに、同じ金色の滲(にじ)みが浮かんでいた。  名前たちが、かつての桟橋(さんばし)に集まろうとしていた。

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