白い浜を、水際に沿って歩いた。降り立った場所の三本の杭の先——浜の奥に、まだ何かがある。久遠の義眼が、霧の向こうの構造物の輪郭を捉えていた。
「おい。あそこに何かある」
あさひが浜の先を指差した。 液状の記録の海の中に、灰色の塊が突き出ていた。 流れに削られて角が丸くなっているが、人工物だと分かる。表面に刻まれた縦の溝が等間隔に並んでおり、かつてそこに何かを繋ぎ止めるための金具が嵌まっていたであろう痕跡が残っている。溝の中に金色の液体が溜まり、細い光の筋を作っていた。 石造りの杭だった。
「港の跡だ」
久遠が目録の海図と照合した。蒼光が頁と杭を交互に照らす。海図の上に記された古い航路の線が、杭の位置と一致したとき、蒼光が一段明るくなった。
「宵波浜にはかつて港があった。名前を運ぶための港だ。流刑地になる前は、名前の中継地点だった」
名前の中継地点。こよいはその言葉を胸の中で繰り返した。ここはかつて、名前が行き交う場所だったのだ。受け渡され、運ばれ、届けられるために港に集まった名前たち。それが今は、溶かすための場所に変えられている。港としての記憶だけが、杭の形をして液面の上に残っていた。
杭がもう一本見えた。
二本。
三本。
等間隔に並んでいる。
港の桟橋の支柱だったのだろう。 液面からわずかに頭を出して、流れに耐えている。金色の液体が杭の根元を洗うたびに、石の表面に薄い光の膜が残った。名前の残滓が、かつての桟橋の柱にしがみつこうとしているのかもしれなかった。杭の頂部には白い結晶のようなものが付着していた。塩ではない。記録が乾いて固まったものだ。液体に浸からなかった部分だけが、かろうじて固体のまま残っている。
「あそこまで行けば、足場がある」
あさひが目を逸らさずに言った。琥珀色の光を受けた横顔が、鋭い影を刻んでいた。声に迷いはない。目の前に道があるなら進む。あさひの言葉はいつもそうだった。
「行ってどうする。液体の中に飛び込むのか」
「飛び込むんじゃねえよ。あの杭を足場にして、こよいの写本を液体に浸す。名前を拾うんだ。——境の膜越しに吸い上げる。列車ん中で、お前が言ったやり方だ」
久遠が黙った。
義眼が杭を観測している。蒼光が一本目から三本目まで順に走査し、杭の高さ、間隔、液面からの露出部分の長さを測っているのが、光の動きで分かった。沈黙が長い。こよいは久遠の横顔を見た。義眼の光が通常より細く、集中の深さを示していた。唇が薄く動いている。何かを計算しているのだ。
「……理にかなっている。写本は名前を記録した紙だ。溶解した名前は、元の記録媒体に再び吸着する性質がある。写本を網のように使えば——」
「だろ」
あさひが腕を組んだ。口の端がわずかに上がった。だがすぐに表情を引き締め、浜の先の杭に視線を戻す。こよいは二人のやり取りを見ていた。言葉は少ないのに、互いの考えが噛み合っている。あさひが直感で示した道を、久遠が理屈で裏打ちする。二人の間にある信頼を、こよいは言葉にはできなかったが、確かに感じていた。
歩を進めるほど、足元が変わった。
白い砂が、水気を含んで沈み始める。踏み込んだ靴の縁に、金色の液体がじわりと滲み出してくる。浜と海の境が、ここでは曖昧なのだ。白い余白の砂の下に、液状の記録が染み込んでいる。
「気をつけろ。この辺りは浜そのものが溶けかけている」
久遠が海図を確認した。蒼光が頁の上を忙しなく動く。
「固い地盤は、旧桟橋の張り出しだけだ。あの杭の根元——石組みの基礎が、まだ生きている」
先導したのは、おたまだった。沈む砂と保つ砂を、猫の足が正確に踏み分けていく。三人はその跡を一列で辿った。白い砂の上に、三人分の足跡だけが刻まれ、猫の分だけが、どこにもなかった。
桟橋の基礎に足が届いたとき、久遠が息をつき、足元の白い浜を振り返った。
「……この浜は、余白だ。書かれたものが消されて、書かれる前の白だけが積もった——余白の浜だ。渡り切れたのは運がいい」
降り立った場所の杭にも、金色は薄く集まっていた。だがここの渦は、比べものにならないほど濃い。桟橋の本体——名前たちが最もよく覚えている場所に、最も多くの名前が集まる。記憶が濃い場所ほど、帰ろうとする力も強いのだ。
こよいは写本を七枚、胸に抱き直した。 湿った紙が胸元で温もりを持っている。こよいの心臓の鼓動に合わせて、紙の温もりが微かに揺れた。写本の中の名前が、外の液体に溶けている仲間たちの気配を感じ取って、こよいの胸の前で震えているのだ。巾着の神々は相変わらず沈黙していたが、写本を通じて、外の名前たちの声なき声がこよいの手に伝わってきていた。
目の前の液面に、灰色の杭が三本、流れの中に立っていた。 そのうちの一本に、金色の光が微かにまとわりついているのが見えた。
光は杭の根元に集まり、液面の下で渦を描いていた。 溶けた名前の影だった。 ばらばらになった文字が、元の形を思い出そうとするように寄り合っている。文字の欠片が渦の中でぶつかり、離れ、またぶつかる。完全な形には戻れないまま、それでも集まることをやめない。 三本の杭すべてに、同じ金色の滲みが浮かんでいた。 名前たちが、かつての桟橋に集まろうとしていた。
