第356話 間引きの重さ
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第356話 間引きの重さ

第12章 記録の裂目

海面に、時計が浮いていた。

文字盤(もじばん)だけが残っている。針は失われ、数字の刻印(こくいん)は半ば溶けている。直径は列車の車両ほどもあった。金色の液体が文字盤(もじばん)の窪(くぼ)みに溜まり、かつてローマ数字が刻まれていた溝(みぞ)に沿って細い筋を作っている。その筋が液面を走り、文字盤(もじばん)の縁(ふち)からこぼれ落ちて海に戻っていく。金色の循環が、止まった時計の上でだけ、まだ動いていた。

時計の裏面が見えた。

液体に洗われて表面は滑らかだったが、裏面には歯車(はぐるま)の台座(だいざ)が残っている。歯車(はぐるま)そのものは溶けたのだろう。台座(だいざ)だけが骨格(こっかく)のように突き出て、銀色の液面から頭を覗(のぞ)かせていた。台座(だいざ)の穴の中に金色の液体が溜まり、底に沈んだ小さな部品——おそらく歯車(はぐるま)の歯の一つ——が、かすかに光っている。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を向けた。蒼光(そうこう)が文字盤(もじばん)の表面を走り、溝(みぞ)に溜まった金色を照らす。光が溝(みぞ)の底に届いたとき、金色の液体が蒼光(そうこう)に反応して一瞬だけ強く輝いた。名前の残滓(ざんし)が、まだ時計の溝(みぞ)にしがみついている。

「墓標(ぼひょう)だ」

その一語だけだった。

久遠(くおん)は説明を加えなかった。こよいにも分かった。この時計は、ここに捨てられたのだ。観測者(かんそくしゃ)が管理しきれなくなった時間を切り離し、この海へ投げ込んだ。針が止まっているのではない。針ごと溶かされたのだ。時間を刻む機能そのものを奪われている。

こよいは文字盤(もじばん)の縁(ふち)をじっと見つめた。  溶け残ったローマ数字の断片が、Ⅻの位置にだけ辛うじて読めた。十二時。正午(しょうご)なのか真夜中なのかは分からない。だが最後に刻んだ時刻がそこに残っている。この時計が止められた瞬間の記録(きろく)。それだけが、金色の液体にも消されずに耐えていた。

時計の向こうに、もう一つ浮かんでいた。

こちらは小さい。懐中時計ほどの大きさ。蓋(ふた)が開いたまま液面に漂(ただよ)い、蓋(ふた)の内側に彫られた紋様(もんよう)が金色の光を受けて微かに見えた。花のような形。五枚の花弁(かべん)が細い線で彫り込まれており、線の一つ一つに彫り手の丁寧さが宿っている。誰かが大切にしていたものだ。持ち主の体温を覚えていたかもしれない金属の表面が、今は海の冷たさに沈んでいる。

さらに奥に、三つ。四つ。五つ。

数えるほどに増えていった。海面に浮かぶ時計の残骸(ざんがい)は、沖に向かって散らばっている。大きいもの、小さいもの。文字盤(もじばん)だけのもの、枠(わく)だけのもの、ゼンマイの渦巻(うずまき)が液面に浮かんで光を跳ね返しているもの。どれも針がない。どれも時間を止められている。ゼンマイは巻かれることのない螺旋(らせん)を描いたまま銀色の液面に漂い、その形だけが、かつて時を刻む力があったことを証(あか)している。

こよいは立ったまま動けなかった。

時計の一つ一つに、誰かの朝と夜が詰まっていたはずだ。針が刻んだ一秒一秒に、名前を持った誰かの暮らしがあった。朝の光で目を覚まし、昼に誰かと言葉を交わし、夜に灯(あか)りを消して眠った。その繰り返しの一日一日を刻み続けた時計が、不要と判じられて海に投げ込まれている。

巾着(きんちゃく)が冷たかった。神々が沈黙している。この場所の重さに押されて、声も温もりも出せないでいる。こよいは巾着(きんちゃく)を左手で包んだ。神々の代わりに、自分の体温を送ろうとした。指先の温もりが布を通じて中に届いたのかは分からない。だが包んだ手を離さなかった。

あさひが隣に来た。

時計の群れを見ている。表情が動かない。怒りでも悲しみでもない顔をしていた。こよいはその横顔を見て、あさひがこの光景を丸ごと呑(の)み込もうとしているのだと思った。感情で処理せず、事実として身体に入れている。顎(あご)の筋肉だけがわずかに硬い。奥歯を噛(か)んでいるのだろう。それがあさひの怒りの出口だった。

風がなかった。

海面も動かなかった。時計の残骸(ざんがい)が、液面の上で微動だにせず浮かんでいる。音もなく、波もなく。墓地(ぼち)のような静けさだった。最初の大きな文字盤(もじばん)と、奥に散らばる無数の時計たちが、銀色の海面に墓石のように並んでいる。等間隔ではない。投げ捨てられたときの無造作(むぞうさ)が、そのまま配置になっている。

こよいの目に、最も近い時計の文字盤(もじばん)の窪(くぼ)みが映った。Ⅻの下に、小さな穴がある。針の軸(じく)が通っていた穴だ。その穴の中にも金色の液体が溜まっていた。軸(じく)を失った穴の底から、金色が静かに光を返している。穴の形は丸く、綺麗(きれい)だった。職人が精密に開けた穴。その技術の跡だけが、機能を奪われた今も石のように残っている。

こよいは浜辺に膝をついた。砂の冷たさが膝小僧(ひざこぞう)を通じて太腿(ふともも)まで上がってきた。白い砂の中に、金属の欠片(かけら)が混じっている。歯車(はぐるま)の歯だろうか。砂に紛(まぎ)れて、小さな銀色の破片が光っていた。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。

いつもなら記録(きろく)する。数を数え、座標(ざひょう)を書き留め、義眼(ぎがん)で観測したすべてを頁(ページ)に残す。だが久遠(くおん)は帳面を膝(ひざ)の上に置いたまま、筆を取らなかった。蒼光(そうこう)も消している。義眼(ぎがん)の光を落として、肉眼(にくがん)だけで時計を見ていた。

記録する気になれないのだ、とこよいは思った。

これを数字にすることが、弔(とむら)いの作法に反すると感じている。久遠(くおん)のその沈黙は、こよいがこれまでに聞いたどんな言葉よりも重かった。目録(もくろく)に書かないという選択は、久遠(くおん)にとっては自分の在り方を曲げることだ。記録者(きろくしゃ)が記録を拒む。それは久遠(くおん)なりの弔(とむら)いだった。それでも筆を取らなかった。

おたまは、時計の群れを長いこと見ていた。それから、浜のいちばん高い場所へ上がり、海に背を向けて座った。弔いの済んだ者のする仕草に、よく似ていた。

あさひが一歩、液面に近づいた。草鞋(わらじ)の先が銀色の水際(みずぎわ)に触れるか触れないかの位置で止まった。最も近い懐中時計に手が届きそうだった。だがあさひは手を伸ばさなかった。拾えるものではないと、わかっている。

「こいつらを、覚えておく」

あさひが低く言った。それだけだった。弔辞(ちょうじ)ではない。ただの宣言だった。見たものを忘れない。それがあさひにできる全てだと、背中が語っていた。

三人は浜に立ったまま、海の上の墓標(ぼひょう)を見つめ続けた。  白い砂の上に三つの影(かげ)だけが伸び、銀色の液面が影(かげ)の先端を静かに吸い込んでいた。

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