海面に、時計が浮いていた。
文字盤だけが残っている。針は失われ、数字の刻印は半ば溶けている。直径は列車の車両ほどもあった。金色の液体が文字盤の窪みに溜まり、かつてローマ数字が刻まれていた溝に沿って細い筋を作っている。その筋が液面を走り、文字盤の縁からこぼれ落ちて海に戻っていく。金色の循環が、止まった時計の上でだけ、まだ動いていた。
時計の裏面が見えた。
液体に洗われて表面は滑らかだったが、裏面には歯車の台座が残っている。歯車そのものは溶けたのだろう。台座だけが骨格のように突き出て、銀色の液面から頭を覗かせていた。台座の穴の中に金色の液体が溜まり、底に沈んだ小さな部品——おそらく歯車の歯の一つ——が、かすかに光っている。
久遠が義眼を向けた。蒼光が文字盤の表面を走り、溝に溜まった金色を照らす。光が溝の底に届いたとき、金色の液体が蒼光に反応して一瞬だけ強く輝いた。名前の残滓が、まだ時計の溝にしがみついている。
「墓標だ」
その一語だけだった。
久遠は説明を加えなかった。こよいにも分かった。この時計は、ここに捨てられたのだ。観測者が管理しきれなくなった時間を切り離し、この海へ投げ込んだ。針が止まっているのではない。針ごと溶かされたのだ。時間を刻む機能そのものを奪われている。
こよいは文字盤の縁をじっと見つめた。 溶け残ったローマ数字の断片が、Ⅻの位置にだけ辛うじて読めた。十二時。正午なのか真夜中なのかは分からない。だが最後に刻んだ時刻がそこに残っている。この時計が止められた瞬間の記録。それだけが、金色の液体にも消されずに耐えていた。
時計の向こうに、もう一つ浮かんでいた。
こちらは小さい。懐中時計ほどの大きさ。蓋が開いたまま液面に漂い、蓋の内側に彫られた紋様が金色の光を受けて微かに見えた。花のような形。五枚の花弁が細い線で彫り込まれており、線の一つ一つに彫り手の丁寧さが宿っている。誰かが大切にしていたものだ。持ち主の体温を覚えていたかもしれない金属の表面が、今は海の冷たさに沈んでいる。
さらに奥に、三つ。四つ。五つ。
数えるほどに増えていった。海面に浮かぶ時計の残骸は、沖に向かって散らばっている。大きいもの、小さいもの。文字盤だけのもの、枠だけのもの、ゼンマイの渦巻が液面に浮かんで光を跳ね返しているもの。どれも針がない。どれも時間を止められている。ゼンマイは巻かれることのない螺旋を描いたまま銀色の液面に漂い、その形だけが、かつて時を刻む力があったことを証している。
こよいは立ったまま動けなかった。
時計の一つ一つに、誰かの朝と夜が詰まっていたはずだ。針が刻んだ一秒一秒に、名前を持った誰かの暮らしがあった。朝の光で目を覚まし、昼に誰かと言葉を交わし、夜に灯りを消して眠った。その繰り返しの一日一日を刻み続けた時計が、不要と判じられて海に投げ込まれている。
巾着が冷たかった。神々が沈黙している。この場所の重さに押されて、声も温もりも出せないでいる。こよいは巾着を左手で包んだ。神々の代わりに、自分の体温を送ろうとした。指先の温もりが布を通じて中に届いたのかは分からない。だが包んだ手を離さなかった。
あさひが隣に来た。
時計の群れを見ている。表情が動かない。怒りでも悲しみでもない顔をしていた。こよいはその横顔を見て、あさひがこの光景を丸ごと呑み込もうとしているのだと思った。感情で処理せず、事実として身体に入れている。顎の筋肉だけがわずかに硬い。奥歯を噛んでいるのだろう。それがあさひの怒りの出口だった。
風がなかった。
海面も動かなかった。時計の残骸が、液面の上で微動だにせず浮かんでいる。音もなく、波もなく。墓地のような静けさだった。最初の大きな文字盤と、奥に散らばる無数の時計たちが、銀色の海面に墓石のように並んでいる。等間隔ではない。投げ捨てられたときの無造作が、そのまま配置になっている。
こよいの目に、最も近い時計の文字盤の窪みが映った。Ⅻの下に、小さな穴がある。針の軸が通っていた穴だ。その穴の中にも金色の液体が溜まっていた。軸を失った穴の底から、金色が静かに光を返している。穴の形は丸く、綺麗だった。職人が精密に開けた穴。その技術の跡だけが、機能を奪われた今も石のように残っている。
こよいは浜辺に膝をついた。砂の冷たさが膝小僧を通じて太腿まで上がってきた。白い砂の中に、金属の欠片が混じっている。歯車の歯だろうか。砂に紛れて、小さな銀色の破片が光っていた。
久遠が目録を閉じた。
いつもなら記録する。数を数え、座標を書き留め、義眼で観測したすべてを頁に残す。だが久遠は帳面を膝の上に置いたまま、筆を取らなかった。蒼光も消している。義眼の光を落として、肉眼だけで時計を見ていた。
記録する気になれないのだ、とこよいは思った。
これを数字にすることが、弔いの作法に反すると感じている。久遠のその沈黙は、こよいがこれまでに聞いたどんな言葉よりも重かった。目録に書かないという選択は、久遠にとっては自分の在り方を曲げることだ。記録者が記録を拒む。それは久遠なりの弔いだった。それでも筆を取らなかった。
おたまは、時計の群れを長いこと見ていた。それから、浜のいちばん高い場所へ上がり、海に背を向けて座った。弔いの済んだ者のする仕草に、よく似ていた。
あさひが一歩、液面に近づいた。草鞋の先が銀色の水際に触れるか触れないかの位置で止まった。最も近い懐中時計に手が届きそうだった。だがあさひは手を伸ばさなかった。拾えるものではないと、わかっている。
「こいつらを、覚えておく」
あさひが低く言った。それだけだった。弔辞ではない。ただの宣言だった。見たものを忘れない。それがあさひにできる全てだと、背中が語っていた。
三人は浜に立ったまま、海の上の墓標を見つめ続けた。 白い砂の上に三つの影だけが伸び、銀色の液面が影の先端を静かに吸い込んでいた。
