第353話 祈りの波
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第353話 祈りの波

第12章 記録の裂目

宵波浜よいなみはまの核心部の手前、境の膜が始まる前の、まだ本物の波が残る浜で、列車は長い停車に入った。ここから先へ受け皿を届ける前に、やっておくべきことがある——沈んだ名前たちへ、迎えが来ることを報せるのだ。波の合図には、波で応える。

波打ち際に立つと、足首が冷えた。

水ではなく、空気そのものが冷たい。海から吹く風が塩の結晶を含んでいて、肌に触れるたびに小さな刺激が走った。潮の匂いが鼻の奥に張りつき、息を吸うたびに胸の底まで染みる。空は低く、灰がかった雲が水平線すいへいせんから陸まで一枚の布のように垂れていた。こよいは屈み、濡れた砂に素手で触れた。砂の粒が指の腹に貼りつく感触が、妙に確かだった。掌から伝わる冷たさが、腕を通って肩まで這い上がってくる。

久遠くおん海図かいずを開いた。五十一のうち、まだ帰り着いていない名前は二十三。水脈を渡る十七柱、封じられた井戸の戸口の一柱、砂の灯の浜に眠る一柱、そして投じられた四柱。久遠が順に指し、こよいがそれを声にする。  呼び方は、決めてあった。「おいで」ではない。「ここにいるよ」——存在を差し出さず、ただ、こちらの居場所を報せる呼び方。星野で覚えた、削られない声。

こよいは最初の名前を声に出した。最初の二つは、鏡の井戸の名前たちだった。

汐路しおじ

波が来た。足元を洗う白いあわの中に、声が溶けた。あわが引くとき、砂の上に一本の細い線が残った。金色の線。声が波に変わり、波が砂に文字を刻んだ。

こよいは二つ目の名前を読んだ。

なぎさ

また波が来た。今度は少し大きい。膝の下まで水が届き、引くときに二本目の線が砂に現れた。一本目と交差している。

久遠くおん海図かいずを開いた。目録もくろくページに描かれた線の配置と、砂の上の線を見比べている。

「一致する」

「何が」

海図かいず航路こうろだ。写本しゃほんの名前を声にすると、波がその名前の座標ざひょうを砂に描く。名前がどこへ届くべきかを、海が覚えている」

こよいは三つ目の名前を呼んだ。水脈を渡る、別の一柱の名前。

波が引かなかった。水が足の周りに留まり、円を描くように渦を巻いた。渦の中心から、淡い光が立ち上る。

あさひが一歩下がった。布越しに大剣のつかへ手をかけたが、解かない。

「敵か」

「違う」

久遠くおんが首を振った。

「応答だ。名前を呼ばれた側が、返事をしている」

渦はゆっくりと広がり、波紋はもんになった。波紋はもんは沖に向かって進んでいく。途中で消えない。一枚の波紋はもんがそのまま水平線すいへいせんに向かって滑っていき、やがて見えなくなった。

こよいは次の名前を呼んだ。  また波紋はもんが生まれた。  次の名前。また波紋はもん

五つ。六つ。七つ。

砂の上の金色の線が増えていく。線と線が交差し、格子こうしを作り、格子が複雑な幾何学きかがくの図形になった。こよいは足を動かさずに写本しゃほんを読み続けた。声がかすれ始めても、止めなかった。

「……十五」

十五番目の名前を呼んだとき、砂の上の図形が完成した。久遠くおん海図かいずを砂に並べた。

「同じだ。完全に一致している」久遠くおんの指が図形の交差点をなぞった。「砂の上の模様と海図かいずの航路図が、寸分も違わない」

波紋はもんは今も、一つずつ沖へ向かっていた。十五の波紋はもんが、十五の方角に散っていく。名前が、自分の届くべき場所に向かって海を渡っている。

こよいは膝をついた。潮風に晒され続けた身体が冷えて、感覚がなくなりかけていた。だが写本しゃほんはまだ残っている。名前はまだある。

「続ける」

「休め。しおが変わる前に全部呼ぶ必要はない」

久遠くおん写本しゃほんを取り上げようとした。こよいは首を振った。

波紋はもんが消えないうちに呼ばないと。途切れたら、届かなくなるかもしれない」

あさひが隣に来た。布包みの剣を砂に突き立て、こよいの肩に手を置いた。手のひらが熱い。

「なら早くしろ。俺が立ってる間は、誰も邪魔させない」

こよいは頷き、十六番目の名前を呼んだ。あさひの手の熱が肩から背中へ広がり、冷えた体の芯を支えていた。

声は枯れかけていた。けれど波は応えた。名前を受け取り、波紋はもんに変え、沖へ送り出す。海はこの作業を拒まなかった。名前を運ぶことが、波の本来の仕事なのかもしれなかった。

二十三番目で声が出なくなった。のどの奥がけるように痛み、舌が乾いて口蓋こうがいに貼りついた。

あさひの手が肩にある。久遠くおん義眼ぎがんが海面を照らしている。

こよいは唇を湿らせ、のどの奥から絞り出すようにして、最後の一つ——二十四番目をささやいた。それは、海図にない名前だった。

朝凪あさなぎ

鏡の中にだけ残っていた、五十一の外の名前。届け先の井戸は、もうない。それでも、囁きにさえ波は来た。小さな波紋だったが、確かに沖へ向かった。行き先のない波紋は、他のどれよりもゆっくりと、迷うように水平線へ渡っていった。

呼べる名前は、それで尽きた。海図の二十三と、鏡の一つ。合わせて二十四の波紋。砂浜で預かった「なぎ」の断片たちは、呼ばなかった。半分の名前を呼べば、半分の何かが来てしまうかもしれないから。

波打ち際から上がったとき、砂の上の金色の線はしおに洗われ始めていた。けれど波紋はもんはまだ海の上を滑っている。二十四の輪が、それぞれの方角に向かって、水平線すいへいせんの向こうへ消えていく。

こよいは濡れた手をぬぐわずに、砂浜すなはまに座り込んだ。膝が震えていた。のどの奥が焼けるように痛い。

「届くかな」

「届く」

久遠くおん海図かいずを閉じた。

波紋はもんは消えない。海が名前を覚えている限り、波は運び続ける」

夕陽が海面を染めていた。赤い光が波紋はもんの輪の一つ一つを縁取り、海面に金糸を散らしたような模様を描いている。  二十四の波紋はもん残像ざんぞうが、光の中で一瞬だけ金色に光り、それから静かに沈んでいった。  おたまは、最後の波紋が見えなくなるまで、波打ち際のいちばん際で、濡れもせずに座っていた。

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