宵波浜の核心部の手前、境の膜が始まる前の、まだ本物の波が残る浜で、列車は長い停車に入った。ここから先へ受け皿を届ける前に、やっておくべきことがある——沈んだ名前たちへ、迎えが来ることを報せるのだ。波の合図には、波で応える。
波打ち際に立つと、足首が冷えた。
水ではなく、空気そのものが冷たい。海から吹く風が塩の結晶を含んでいて、肌に触れるたびに小さな刺激が走った。潮の匂いが鼻の奥に張りつき、息を吸うたびに胸の底まで染みる。空は低く、灰がかった雲が水平線から陸まで一枚の布のように垂れていた。こよいは屈み、濡れた砂に素手で触れた。砂の粒が指の腹に貼りつく感触が、妙に確かだった。掌から伝わる冷たさが、腕を通って肩まで這い上がってくる。
久遠が海図を開いた。五十一のうち、まだ帰り着いていない名前は二十三。水脈を渡る十七柱、封じられた井戸の戸口の一柱、砂の灯の浜に眠る一柱、そして投じられた四柱。久遠が順に指し、こよいがそれを声にする。 呼び方は、決めてあった。「おいで」ではない。「ここにいるよ」——存在を差し出さず、ただ、こちらの居場所を報せる呼び方。星野で覚えた、削られない声。
こよいは最初の名前を声に出した。最初の二つは、鏡の井戸の名前たちだった。
「汐路」
波が来た。足元を洗う白い泡の中に、声が溶けた。泡が引くとき、砂の上に一本の細い線が残った。金色の線。声が波に変わり、波が砂に文字を刻んだ。
こよいは二つ目の名前を読んだ。
「渚」
また波が来た。今度は少し大きい。膝の下まで水が届き、引くときに二本目の線が砂に現れた。一本目と交差している。
久遠が海図を開いた。目録の頁に描かれた線の配置と、砂の上の線を見比べている。
「一致する」
「何が」
「海図の航路だ。写本の名前を声にすると、波がその名前の座標を砂に描く。名前がどこへ届くべきかを、海が覚えている」
こよいは三つ目の名前を呼んだ。水脈を渡る、別の一柱の名前。
波が引かなかった。水が足の周りに留まり、円を描くように渦を巻いた。渦の中心から、淡い光が立ち上る。
あさひが一歩下がった。布越しに大剣の柄へ手をかけたが、解かない。
「敵か」
「違う」
久遠が首を振った。
「応答だ。名前を呼ばれた側が、返事をしている」
渦はゆっくりと広がり、波紋になった。波紋は沖に向かって進んでいく。途中で消えない。一枚の波紋がそのまま水平線に向かって滑っていき、やがて見えなくなった。
こよいは次の名前を呼んだ。 また波紋が生まれた。 次の名前。また波紋。
五つ。六つ。七つ。
砂の上の金色の線が増えていく。線と線が交差し、格子を作り、格子が複雑な幾何学の図形になった。こよいは足を動かさずに写本を読み続けた。声が掠れ始めても、止めなかった。
「……十五」
十五番目の名前を呼んだとき、砂の上の図形が完成した。久遠が海図を砂に並べた。
「同じだ。完全に一致している」久遠の指が図形の交差点をなぞった。「砂の上の模様と海図の航路図が、寸分も違わない」
波紋は今も、一つずつ沖へ向かっていた。十五の波紋が、十五の方角に散っていく。名前が、自分の届くべき場所に向かって海を渡っている。
こよいは膝をついた。潮風に晒され続けた身体が冷えて、感覚がなくなりかけていた。だが写本はまだ残っている。名前はまだある。
「続ける」
「休め。潮が変わる前に全部呼ぶ必要はない」
久遠が写本を取り上げようとした。こよいは首を振った。
「波紋が消えないうちに呼ばないと。途切れたら、届かなくなるかもしれない」
あさひが隣に来た。布包みの剣を砂に突き立て、こよいの肩に手を置いた。手のひらが熱い。
「なら早くしろ。俺が立ってる間は、誰も邪魔させない」
こよいは頷き、十六番目の名前を呼んだ。あさひの手の熱が肩から背中へ広がり、冷えた体の芯を支えていた。
声は枯れかけていた。けれど波は応えた。名前を受け取り、波紋に変え、沖へ送り出す。海はこの作業を拒まなかった。名前を運ぶことが、波の本来の仕事なのかもしれなかった。
二十三番目で声が出なくなった。喉の奥が灼けるように痛み、舌が乾いて口蓋に貼りついた。
あさひの手が肩にある。久遠の義眼が海面を照らしている。
こよいは唇を湿らせ、喉の奥から絞り出すようにして、最後の一つ——二十四番目を囁いた。それは、海図にない名前だった。
「朝凪」
鏡の中にだけ残っていた、五十一の外の名前。届け先の井戸は、もうない。それでも、囁きにさえ波は来た。小さな波紋だったが、確かに沖へ向かった。行き先のない波紋は、他のどれよりもゆっくりと、迷うように水平線へ渡っていった。
呼べる名前は、それで尽きた。海図の二十三と、鏡の一つ。合わせて二十四の波紋。砂浜で預かった「なぎ」の断片たちは、呼ばなかった。半分の名前を呼べば、半分の何かが来てしまうかもしれないから。
波打ち際から上がったとき、砂の上の金色の線は潮に洗われ始めていた。けれど波紋はまだ海の上を滑っている。二十四の輪が、それぞれの方角に向かって、水平線の向こうへ消えていく。
こよいは濡れた手を拭わずに、砂浜に座り込んだ。膝が震えていた。喉の奥が焼けるように痛い。
「届くかな」
「届く」
久遠が海図を閉じた。
「波紋は消えない。海が名前を覚えている限り、波は運び続ける」
夕陽が海面を染めていた。赤い光が波紋の輪の一つ一つを縁取り、海面に金糸を散らしたような模様を描いている。 二十四の波紋の残像が、光の中で一瞬だけ金色に光り、それから静かに沈んでいった。 おたまは、最後の波紋が見えなくなるまで、波打ち際のいちばん際で、濡れもせずに座っていた。
